松江「八重垣神社」の連理玉椿と「阿太加夜神社」「揖屋神社」の椿を訪ねる

 東海、近畿、中国地方に記録的な大雨をもたらした台風7号。襲来直前の土日に、松江と出雲を訪れてきたのですが、往路の特急「スーパー白兎」沿線の地域がこの台風の直撃を受け、大きな被害が出てしまいました。被災された方々に、お見舞い申し上げます。

 歴史あるまち・松江は、市の花が椿であることからもわかるように、椿は、松江の文化と暮らしに根付き、今でも、市内各所に古木、名木が残っています。茶道の盛んなところ椿ありですが、高名な大名茶人の松平不昧公の治めた城下町らしく、椿は広く親しまれ、松江ならではの名花も数多くあります。

 2日間の旅程の合間を縫ってのことでしたので、今回は、神社を中心に、古木、巨木を巡ることにしました。できるだけ効率的に回るよう思案していたものの、知らぬ土地ゆえの時間ロスもあり、想定の半分程度しか訪れることができませんでしたが、それでも、いろいろと椿を楽しむことができました。

 初日は、松江市の東南部にある由緒ある神社の椿を訪れました。

1 八重垣神社の連理玉椿

 八重垣神社は、八岐大蛇を退治した素戔嗚尊稲田姫と夫婦になり、この地を宮居とされたと伝わる古社で、このお二方を祭神とし、縁結びの神社として名高いところです。私が訪れたときも、参拝の方が結構おられました。

 JR松江駅から車で11分、道筋もわかりやすく、神社には大きな駐車場もあり、車が便利です。

 

 神話の伝承を持つ神社だけに、雰囲気がありますね。

 

 

 伝承の地にふさわしく、椿も夫婦和合の象徴とされる連理のものが3本もありました。

 まずは、正面鳥居の体面に、小高く石垣で囲われた、ひときわ大きな立派な椿か、有名な「連理玉椿」です。

 稲田姫命が立てられた日本の椿が芽吹き、一体化したとの伝説を持つ椿で、もちろん神代の時代からあるわけではありませんが、太い幹と枝張りは伝説にふさわしい風格があり、樹齢はおよそ300年になるといいます。

 傘のように四方に広がる姿も形よく、八重垣神社のシンボルツリーである名木です。

 ところで、この「一体化」はかなり極まっていて、最初見たときは、どこが連理なのかよくわかりませんでした。神官の方にうかがうと、「根元をよく見ていただくとわかります」とのことでしたので、もう一度見直してみると、確かに、二本の幹が合体したと思われるところに、亀裂のように切れ込む皴状の跡が見え、木肌の色合いも異なっているなど、「融合」前の名残がありました。

 まれに、二葉の葉が現れるとのことで、葉っぱまでもが融合しているということですね。

 この椿の説明板には、資生堂との縁について記載されています。資生堂の銀座創業地は江戸時代に松江藩が整備したこと、社運の隆盛にあたって出雲大社のご利益があり、今も参拝を欠かさないなど、出雲・松江との関係は深いようですね。

 出雲大社の老舗旅館が実家である竹内まりやが、資生堂化粧品1980年春のキャンペーンソング「不思議なピーチパイ」をヒットさせたのも縁の一つなのでしょう。

 資生堂のシンボルマークである「花椿」ですが、これをデザインした初代福原社長は、八重垣神社の伝承と「連理玉椿」のいわれに感銘を受けて遷宮の際にも寄進されたとのつながりもあって、様々な御縁から、この椿が、「花椿」マークのモデルになったのではないかとも言われています。

 境内に入り、拝殿の左手には、連理の乙女椿があります。幹が二股になった形状をしています。

 さらに、奥の院へと、「佐久佐女の森」に向かう道筋に、連理の藪椿があります。幹回り1メートル近くありそうな二本の椿が、地上2メートル付近で幹が癒合しています。

 今まで、京都の社寺を訪れる中で、見落としていたのかもしれませんが、連理の椿はあまり記憶にありません。

 この神社の霊域だからこそ、稀な連理が見られるのならば、「連理玉椿」の見事なまでの一体化は、大変貴重なものだろうと思いました。

稲田姫が八岐大蛇から身を隠している間に、鏡の代わりに姿を映したと伝えられる「鏡の池」です。半紙に小銭を乗せて、良縁を占うというスポットです。

素戔嗚尊は、大杉の回りに「八重垣」を囲い、稲田姫を匿ったと伝えられています。

2 阿太加夜神社の御神木と椿

 八重垣神社を出て、東に、「阿太加夜神社」を訪れました。

 国道9号線を意宇川を渡ると鳥居が見えてきますので、それを目印に、下をくぐっていきます。

 この付近の地名は「出雲郷」と書いて、「あだかえ」と読む、高難読地名ですが、神社の主祭神である「阿陀加夜怒志多伎吉比売命(あだかやぬしたききひめのみこと)」にちなんだものでしょうか。

 ところで、京都、賀茂川の西岸には、出雲地方から移住した出雲氏が、飛鳥時代から奈良時代にかけて繁栄したとされ、今も、賀茂街道沿いに「出雲路橋」をはじめ、出雲を冠する地名が連なっています。

 「出雲郷」の地名は今はありませんが、正倉院古文書に、山背国愛宕郡出雲郷の計帳断簡が残されているとのことで、当時は「あだかえ」と呼ばれていたのかもしれません。京都と出雲の関りもいろいろ面白いものがありそうです。

 「阿太加夜神社」は、天平5年(733年)の出雲国風土記に記載される古社で、大阪の天神祭り、厳島神社の管弦祭とともに、日本三大船神事の一つである「ホーランエンヤ」が有名です。松江城の城山稲荷神社の御神輿を、宍道湖から大橋川を渡って中海へ、中海から意宇川を上って、「阿太加夜神社」へと、そしてまた、逆ルートで、100艘に及ぶ色とりどりの船団が往復して運ぶという、10年に一度の大祭で、400年近くの歴史があります。

 私が訪れた昼下がり、強烈な夏の日差しに照らされ、暑さもひとしおでしたが、しんと静まり返る境内を歩くと、不思議と暑さがそんなに気にならなくなりました。

 この神社には、二本の御神木が並んで立っていますが、右側の、藁蛇が巻かれたタブノキの巨木の幹に、椿が生え出たように一体化しています。たまたま、御神木のたもとに芽吹き、育つうちに、連理のような状態になったようです。

 御神木と同体となっているので、椿も若木にして、神が宿る木として崇められているのでしょう。椿の実も、神のパワーを帯びているかもしれません。

 御神木の後ろに、ホーランエンヤの船が見えます。

 社叢にも、椿の古木を見ることができました。

 境内には、連理の榊もありました。八重垣神社からの流れがつづいているのかな。

今回訪れた神社の狛犬は、子持ちが多かったですね。

3 揖屋神社の大椿

 続いて、JR山陰本線揖屋駅」近くにある揖屋神社を訪ねました。

 揖屋神社も、日本書紀出雲国風土記に記載されている古社で、主祭神イザナミノミコトです。

 揖屋神社の東方には、亡きイザナミを追って黄泉の国へと入ったイザナギが、約束を違えて、変わり果てたイザナミの姿を見てしまい、怒ったイザナギからかろうじて逃げ帰ったという神話における、この世とあの世との境界とされる「黄泉比良坂」があり、神社の古名は、黄泉の国と関係がある名前というように、少し、おどろおどろしい印象がありますが、閑静で、古式豊かな神社です。

 立派な注連縄のかかった門を入ると、境内が開け、左手に、拝殿と一段高く大社造りの本殿が鎮座していました。拝殿の横に御仮殿が設えられており、本殿の屋根改修工事が行われ、令和7年5月に正遷座祭を斎行すると記されていました。

 

 境内奥の方にある稲荷神社の鳥居の脇に、灰白色の幹が美しい大椿がありました。

 「松江つばきマップ」によると、樹齢300~400年に及ぶもので、緋紅色の小中輪花が咲くと記されています。価値のある古木と思いますが、案内板もなく、地元の人にしか知られず、静かに立っているという感じです。

 この時期ですので、花の代わりに、紅く色づいた椿の実がたくさん生っていました。まだまだ元気そうでしたが、根元まで参道のコンクリートが敷かれているので、影響がなければと思いました。

 やはり年期を経た椿は、何とも言えない迫力と貫禄がありますね。

 参道を上がっていくと、他の木と連理になっていそうな椿や、鳥居横の大椿には及ばないものの古木もありました。

 次回、松江城の椿谷に続く。






























 

上賀茂神社の酒中花、大田神社のカキツバタ

 葵祭間近の5月上旬、上賀茂神社から社家町をそぞろ歩き、大田神社カキツバタを見てまいりました。

 今回の椿探訪としては、上賀茂神社の「憩いの庭」くらいでしたが、久々の社家町散策を楽しんでまいりました。

1 上賀茂神社「憩いの庭」の椿

 上賀茂神社の祭神は、「賀茂別雷神」で、もともとは水を司る神として、界隈を流れる明神川を守ったきた、古来の豪族賀茂氏氏神でしたが、平安遷都に際して、みやこの守り神として朝廷からも厚く敬われるようになり、神社としては伊勢神宮に次ぐ格式へと上がり、現在も、世界遺産として超メジャーな存在となっています。

 境内では、東西に流れる二本の小川が合流し、藤原家隆に「風そよぐ ならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏のしるしなりける」と詠われた「ならの小川」が清らかに流れています。

 境内の北にある、「賀茂別雷神」が降臨した「神山」を源とする水は、豊富で質がよく、この水は、境内を流れ出ると、「明神川」の名で東へと流路を変えて、社家町の家々に引き入れられ、また、明神川へと戻り、神領であった田畑を潤し続けており、今も、賀茂ナスやすぐきなどの京ブランド野菜を育んでいます。

 さて、境内の一角に、「憩いの庭」という広場があり、由緒ある湧水でいれた珈琲を野外でも楽しめるというスペースとなっておりますが、ここに、椿がいくつか植えられています。

 「錦蓑」です。

別名「絞唐子」鳥取県ホームページより引用

 「絞椿」。絞りの椿は多数ありますので、この名だけではわかりませんね。

 「清緋」。大神楽ですね。「石橋」ともいいます。

 「古錦襴」です。

 

埼玉県花と緑の振興センターホームページより引用

 椿も咲き終わっている時期でしたが、唯一一輪だけ「酒中花」が最後の可憐な姿を見せてくれました。

2 「社家町」を歩く

 上賀茂神社を出て、明神川沿いに風情あるお屋敷が連なる社家町を歩いていきます。

 しばらくすると、大きなクスノキが目に入ります。この樹齢五〇〇年と言われるクスノキをご神木に祠を構えているのが「藤木神社」です。

 ちょうど、社家の一つ「梅辻家」が特別公開を行っていたので、のぞいてまいりました。正直、派手派手しいところはないので、建築史や考古学の素養の深い人でないと、私のように、猫に小判状態になってしまうかもしれません。

 江戸時代、上賀茂神社は毎年四月、幕府に葵草を献上する慣わしがあり、社司と氏人による「葵使」7名の一行が、鉢植えを11日間かけて運び、江戸城で将軍の謁見を受けたそうです。

 この後、一行は、江戸の大名屋敷や大富豪の店を訪れ、お札の販売や賀茂競馬のための寄付金を集めに回ったということで、結構気苦労の多い役目だったというエピソードが面白かったですね。

3 大田神社カキツバタ

 藤ノ木通り(上賀茂本通り)をもう少し東に進んで、北へ折れて山手に行くと、大田神社が見えてきます。

 この神社は、国の天然記念物に指定されているカキツバタの群落が有名です。

 藤原俊成が「神山や 大田の沢のかきつばた ふかきたのみは色にみゆらむ」と詠った、平安の世から愛でられてきた光景です。

 この沢は、京都盆地に湖が広がっていた間氷期の時代の名残りの沢とされており、もう少し東にある「深泥池」と同じくらいに古いものだそうです。

 青い紫の花が一面に咲いていましたが、シャープな色合いと葉型は、美しくも凛々しさを感じさせるものでした。

 参道脇の溝から、しきりと蛙の鳴き声が聞こえていました。この蛙は「タゴカエル」といい、溝をのぞくと、すぐそばにいるような大きなくぐもった声が聞こえるのですが、本当に一匹も姿を見ることができませんでした。

 こうして、あらためて上賀茂を歩いてみると、「ならの小川」「明神川」「大田の沢」と、豊かな水が風景と暮らしに息づいており、この水を大切にすることを通じて、上賀茂の人々は、自然と神様を身近に感じているのだろうなあと、そんな気持ちになりました。



梅干しの土用干し

 祇園祭宵山山鉾巡行の熱気あふれる7月16、17日は、市内37.7℃と、お日様の照っている間は、出歩くのも憚られるような猛烈な暑さとなりましたが、梅干しにとっては、最高の日和となりました。

 今年の土用の入りは、7月20日ということですが、この時期は、梅干しの土用干しといわれるように、数日間、好天が続くので、梅干しには最適の時期ということになります。

 私の母親は、もう、うん十年にわたり、梅干しを作ってくれていますが、今年も南高梅の大型サイズを20kg、できるだけ、塩分を抑えながら、かびをはやすことなく、上手に漬けてくれました。

 梅干しづくり最後の工程となり、大ざる3つと、プラかごも利用しながら、干し上げていきます。

 直射日光を浴びて、だんだんと乾いていき、塩を吹くものもでてきます。

 この日の夕方、たこ焼きのように、上下をひっくり返し、今日明日の両日で、両面くまなく日光に当てていきます。そっと大事に扱うのですが、どうしても、皮がめくれて、ざるにくっついてしまうものもあるんですよね。

 本当は、夜中も外に出しておいて、夜露に充てると、より柔らかく、まろやかになるらしいのですが、通り雨があったり、猫が通ったりすると嫌なので、夜は、いったん家の中に退避です。

シートの古さが何ともいえませんね。

【翌日】

 2日目の夕方、水気がほぼとれ、梅干しらしい外観と、いい具合の色になってきました。梅のエキスが段々と凝縮されていく感じがします。

 以前は、赤紫蘇も漬けて、それこそ梅干し色にしていたのですが、さすがに、母も年をとり、この過程は省略しています。

 この後、3日目の午前中まで干して、大甕に保存してくれたようです。

 自然の恵みと、母の苦労に感謝しつつ、また、1年間、私も、お昼のお弁当に欠かさず、ありがたく、いただきたいと思います。

 

 

松花堂庭園の椿を見る

 八幡市は、京都市の南、桂川宇治川、木津川の三川が合流して淀川と一本化する地域に位置しています。

 古くから、水運の拠点として、また、伏見と大阪を結ぶ「京街道」や河内を縦断し高野山へと続く「東高野街道」などの重要な陸路が走る交通の要衝であるとともに、石清水八幡宮門前町として栄えてきたところです。

 この八幡市では、椿は「市の花木」として制定され、親しまれています。

 石清水八幡宮の社叢の藪椿群や、常昌院の日光椿の巨木をはじめ、椿の名所、名木が多くあり、今回訪れた「松花堂庭園」も椿園を有し、見どころの一つとなっています。 

1 松花堂昭乗と椿

 松花堂昭乗(1582~1639)は、書道、絵画、茶道に秀でた、当代一流の文化人ですが、箱の内側を十字に仕切る、昭乗好みのスタイルをもとにした「松花堂弁当」が、その名を伝えるものとして、今でも最もポピュラーでしょう。

 昭乗が石清水八幡宮に建てた方丈「松花堂」が、明治の廃仏毀釈により解体され、縷々移築を重ね、現在地へと移り、八幡市が周辺用地も買い入れて、庭園として整備されたのが「松花堂庭園」となります。

 寛永(1624~1644)期は、空前の椿ブームが起こった時代で、後水尾天皇徳川秀忠から庶民の間にまで椿熱が広がり、珍しい品種の入手に躍起となっている様子も記録されています。

 交通の要衝であった八幡にも、物流が盛んになるにつれ、各地の椿も流通していたのではと想像します。

 松花堂昭乗も八幡の珍種「八幡椿」のことを記すなど、当時の広い交流において、椿を話題とし、愛好していたことがうかがわれます。

 庭園には、椿園が付設され、数多くの椿を楽しむことができるのも、そのような歴史を踏まえているからでしょうね。

 庭園は2万㎡に及び、外園と内園からなっていますが、内園は、大阪北部地震の復旧工事のため、まだ再開されておらず、残念ながら、まだ入ることはできません。

八幡市立松花堂庭園・美術館」ホームページより
※桃色の部分で椿を楽しめます。

2 庭園の椿

 訪れたのは3月初旬だったので、まだ椿の盛りの時期ではなかったのですが、やや早咲きのものを中心に楽しむことができました。

 いくつか、ご紹介します。

 「胡蝶侘助」です。

 庭園北側、茶室付近のつくばい?です。

 竹と椿は、とりあわせがいいと思います。八幡の竹は、エジソンがフィラメントとして採用したことで有名ですね。

 「京雅」です。太郎庵の実生から生まれた品種で、太郎庵系統ということですね。

 桃地に、紅い縦筋が美しく、ほんのり紅を差すという感じで、優雅なネーミングにぴったりの花だと思います。

 「不老門」です。霊鑑寺のふくよかな白椿「霊鑑寺白牡丹」と同種ということです。

https://www.kyogurashi-neko.com/entry/reikanji

 「常照皇寺藪椿」です。まだ時期が早く、咲いていませんでしたが、蕾も暗紅色で、花の色を想起させるものでした。常照皇寺に行ったのは、逆に遅くて、今年は、頃合いの時期を逃してしまいました。

https://www.kyogurashi-neko.com/entry/jousyoukouji

 「霊鏡寺早咲赤藪椿」です。

 シンプルな藪椿なのですが、気品と凛々しさを感じます。霊鏡寺では、圧倒的に多くの椿の中に紛れてしまっていましたが、こうして単品で見ると、素晴らしさがよくわかります。

 「覆輪侘助」です。

 「京牡丹」です。松花堂昭乗が公家に贈ったと記録されている「八幡椿」は、今に伝わっているのか、絶えてしまったのか、明らかではありませんが、この「京牡丹」の枝変わりではないかとの、「やわた椿愛好会」の説明書きがありました。

 「天津乙女」です。大徳寺の巨樹を見て、魅了された椿です。 

https://www.kyogurashi-neko.com/entry/daitokuji

 「高台寺」です。何とも柔らかく優しい桃色の椿です。実にチャーミングですね。

 「三夜荘」です。伏見桃山にあった、豊臣秀吉が月見を楽しんだ場所に建てられた西本願寺の別荘「三夜荘」は今はありませんが、その名を椿に残しています。

https://www.kyogurashi-neko.com/entry/momoyama

 

 

 「絵日傘」です。ぴったりのネーミングですね。

 「宗旦」です。引き締まった小ぶりな花姿から、茶花に愛用されています。

 内園には入れません。

3 椿の和菓子

 庭園のミュージアムショップには、東高野街道沿いの和菓子屋「亀屋芳邦」が、期間限定で、椿にちなんだ生菓子を販売していました。全部で4種類で、好みの2種類をいただいて帰りました。

 内園にも、多くの椿が植栽されています。

 来年には、建物補修が終わっていると思いますので、「松花堂」と「泉坊書院」を見ながら、椿を再訪したいと思っています。
























 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金閣寺の胡蝶侘助

 3月半ば、ふと、金閣寺の胡蝶侘助を見に行こうかと思い立ちました。

 京都に住んでいると、観光客でごった返すことのわかっているところにはなかなか足が向かないので、本当に久しぶりのことです。

 外国人も多く、朝の9時半くらいで早くも拝観受付が列をなす状況でした。

 これまで、椿探訪に出かけた寺社は大抵ひっそりとしていたので、やはり大本命の観光地とそれ以外とでは、格段の人出の差があることをあらためて知らされましたね。

 私のお目当ては、方丈の前庭にある後水尾天皇御手植えと伝わる「胡蝶侘助」。

 参道から見ることはできるのでしょうか。

1 参道の巨木「イチイガシ」と椿たち

 総門をくぐると、鐘楼近くにそびえ立つ、京都市天然記念物のイチイガシが目に入ります。幹周約5メートル、高さ20メートル、江戸初期には既に存在したと想定されることから、樹齢は400年に及んでいるかもしれません。

 「金閣」への道筋には、藪椿、有楽椿をはじめ、いくつか椿が植えられていました。誰もが「金閣」へと意識が向きますので、気に留める人も少ないでしょう。

2 京都観光の定番中の定番「金閣

 やあ、本当に久々の金閣です。そういえば、昭和62年の金箔貼り替えの大規模な補修後の姿は初めてかもしれません。

 鏡湖池前の撮影スポットでは、この定番のショットをとろうと、観光客が鈴なりでした。

 建物全体が金ピカのイメージを持っていましたが、1階は違ったのですね。初層の落ち着いた木の色と漆喰壁の引き締まった白が、上層を引き立てているのでしょう。

 藪椿と金閣

 金閣といえば、三島由紀夫の「金閣寺」を思い起こします。燃える金閣の内に、炎に影が揺らぐ義満の坐像を後に、最上層・「究竟頂」に上ろうとした主人公がそれを果たせず、拒まれていることがわかったとして踵を返すシーンが私としては最も印象に残っています。

 大傑作の作品の舞台なのですが、これを「売り」にしていないというのも、それはわかります。

 それに、新しい金閣は、小説の中の金閣とは全くイメージが異なりますしね。

3 方丈の杉戸絵「椿」

 金閣の西側にあり、ほとんどの人が、横目でスルーする「方丈」。

 普段は公開していないので、参道から伺い見るしかありませんが、遠目では、なかなか様子がわかりません。

 奥に、2007年に新調された杉戸絵が見えます。

 東側に目を転ずると、椿の杉戸絵が。

 森田りえ子画伯が、杉の一枚板に描いた、色とりどりの椿たち。

 このモデルになったのは、柊野の「五色八重散椿」ということです。

https://www.kyogurashi-neko.com/entry/hiragino

 独立した作品としても素敵ですが、建物の造作の一つとして機能しながら、存在感を発揮しているのがいいですね。

 内に仕舞われているのではなく、建物、庭とともに年月を重ねて、歴史に連なり、価値ある宝物となっていくことと思います。

 方丈の特別公開時には、ぜひ近くで見てみたいですね。 

4 銘木「胡蝶侘助

 方丈前庭には、銘木「胡蝶侘助」があります。

 由緒と樹齢で、大徳寺総見院の胡蝶侘助https://www.kyogurashi-neko.com/entry/daitokuji)と並ぶ銘木ですが、総見院の旧幹が枯死してしまっているので、より貴重な存在となっています。

 非常に角度的に厳しいところから撮っていますので、樹容がわかりにくいですが、可愛らしく花を咲かせています。

 「方丈」北側の「陸舟の松」は、金閣寺を代表する「銘木」として喧伝されていますが、この「胡蝶侘助」は、パンフレットにも記載されていません。

 ちょっと扱いがどうなのよという気もしますが、参道から離れて、静かに大切にされていると思えば、まあ、それでよいかとも思いますね。

 樹齢にしては、巨木という感じではないですが、風格ある枝ぶりと肌合いです。胡蝶侘助を代表する銘木として、まだまだ命脈を保ってほしいところです。

 こちらが、参道からもよく見える「陸舟の松」です。


5 山手の参道を巡る

 参道は、金閣裏手を回り、山手へと進んでいきます。

 足利義満お茶の水として使用したと言われる「銀河泉」です。肌の白い藪椿が頭上を覆います。

 ちょっとピンボケになりましたが、「夕佳亭」への階段前にあった藪椿が一番目立って咲いており、観光客も目を向ける人が多かったですね。

 「夕佳亭」の有名な南天の床柱です。

 最初、胡蝶侘助のありかがわからず、「夕佳亭」前から、再度、方丈へ引き返したのですが、参道は切れ目なく人、人、人で、逆行するのも一苦労でした。まあ、何とか、銘木の「片鱗」は見ることができたかなというところですね。







 




 

太秦・法金剛院の紫陽花と黒椿の巨木

 法金剛院は、JR花園駅の西、太秦・双ヶ岡の東南にある寺院です。

 双ヶ岡は、京の市街地にぽっかりと浮かぶ浮島のような丘陵で、南東部に広がる太秦を拠点とした秦氏による古墳が多く築かれ、古の歴史を偲ばせる場所となっています。

 平安時代には、周辺に貴族の別荘が多く築かれましたが、仁明天皇在位の朝廷で右大臣まで務めた清原夏野(782〜837)の山荘が、のちに寺へとあらためられ、その跡地に、鳥羽天皇中宮・待賢門院璋子の発願により、法金剛院は1130年に建造されました。

 国から特別名勝に指定されている庭園には、季節の花が多種植えられ、大池の蓮や、待賢門院にちなむ桜、紫陽花などが有名で、関西花の寺に、京都市内で唯一、名を連ねています。

 コロナにより拝観が制限されていましたが、6月15日から、紫陽花や蓮の開花にあわせて、午前中の拝観が可能となっています。

 あまり知られていませんが、椿の見所でもあるようなので、紫陽花と夏椿の鑑賞ついでに、椿探訪に出かけてきました。

1 法金剛院の特別名勝「浄土庭園」

 法金剛院は、JR花園駅のすぐ近くでアクセスがよく、丸太町通に面したわかりやすい場所にあり、駐車場も付設され、行くには不便はありません。

 これまで幾度となく、前を通っていたはずなのに、見過ごしていたのは、外からは、門構えも地味に見えるからかもしれません。

 だから、境内に入ると、眼前に広がる光景に驚く人も多いでしょう。

 北側には「五位山」を控え、滝の石組とそこから流れ入る大池が配置され、極楽浄土を模したといわれる「浄土庭園」が今に伝わっています。

 池は、一面を蓮が覆い、法金剛院が別名「蓮の寺」と呼ばれるのもよくわかります。夏の早朝に大輪の蓮の花が群れ咲く形式は見ものでしょうが、残念ながら、まだその時期には早すぎたようです。

 待賢門院は、作庭にも力を入れ、とりわけ「青女の滝」の石組は、庭造りの名手といわれた林賢と静意に腕を振るわせ、見事な出来栄えとなったとされています。

 しかし、時の流れに、いつしか石組は土に埋もれ、大池は田畑に代わってしまいましたが、昭和43年(1968年)に発掘調査が行われ、滝石組が当時の姿のまま残っていたことが発見され、昭和45年(1970年)には、名園が整備・復元されました。

 「青女の滝」と五位山などを含めて、昭和46年(1971年)には「法金剛院青女滝附五位山」として、国の特別名勝に指定されています。

 特別名勝は、全国に36箇所しかなく、竜安寺石庭や苔寺金閣銀閣大徳寺天龍寺などの名だたる名称に並ぶ貴重なものということになります。

2 紫陽花と国宝・阿弥陀如来坐像

 とょうど、紫陽花が美しい季節。本堂前に、色とりどりの花が咲いていました。

 紫陽花は、綺麗だけれど、少し、湿っぽい感じが、個人的にはそれほど好きではないのですが、お寺の雰囲気にはよく合います。訪れた日は快晴でしたが、曇りの朝露がつきそうな日の方が、より鮮やかに色映えすることでしょう。

 仏殿に入ると、国宝の本尊・阿弥陀如来坐像に目を奪われます。

 丈六の坐像なので、一丈六尺(4.8メートル)の半分というボリュームある像で、立派な蓮華座と光背をバックに、優美で荘厳なたたずまいは、いわゆる定朝様式の典型例の一つです。

 平安時代末期の仏師・院覚によるとされる唯一の現存する作で、その出来上がりの見事さに、院覚は、鳥羽上皇から「法橋」の位を授けられたとされています。

 火災や兵乱で堂宇が失われていく中で、本尊をはじめとする仏さまは、どこかで大切に守られてきたのでしょう。そのおかげで、900年前の歴史の重みを感じるお姿を今も拝むことができるのは、ありがたいことです。

 地蔵院には、「金目地蔵」と呼ばれる、これまた、丈六の地蔵菩薩坐像が安置されています。地蔵にしては、えらく巨大で、ちょっと可笑しみを感じるくらいなので、御一見を。

3 法金剛院の椿たち

 「法金剛院」のホームページには、四季の花の紹介では、椿(風折、黒椿)と記されています。

 実際には、品種表示がされていない樹も含めて、相当数の椿が植栽されており、ご紹介するように、巨木も何本かあり、椿ファンにとっては、見逃せない場所だと思いますね。

 「風折」は美しい品種なので、ちょっと見当たらなかったのが残念でしたが、目についた椿たちをご紹介します。

第62回京都府立植物園つばき展より

 拝観受付のそばにある「加賀小絞」です。

金沢の名花「加賀八朔」の枝変わり。石川県のホームページから引用

 「孔雀椿」です。

 「あけぼの」です。

 「五位山」の山手にあった椿の巨木。特に表示がなかったので、藪椿なのでしょう。

 「酒呑童子」です。

伊予椿の一つ。京都府立植物園で撮影。

 「乙女椿」です。

 「加茂本阿弥」ですね。

 「五位山」側で、石のお地蔵さんたちが集まっているところに、「黒椿」の大木がありました。

 「黒椿」は成長の緩やかな椿の中でも、遅い部類に入るので、この大きさには驚きました。「黒椿」なのか、黒みを帯びた藪椿のことなのか、開花時期に確認したいと思います。

 「白朴半」です。

 「夏椿」もあると聞いていましたが、園内に見つからず、受付の方にお聞きすると、「中門」前の、2~3メートルの高さのこの木が「夏椿」とのこと。

 もう花は終わりと言っておられましたが、何とか一輪だけ残っていました。

 待賢門院に仕えた待賢門院堀川の百人一首80番「ながゝらむ心もしらず黒髪の みだれて今朝は物をこそ思へ」



 

山科「毘沙門堂」に椿を探す

 「毘沙門堂」は、京都市山科区にある古刹で、畿内の神社では珍しい、「日光東照宮」のようなテイストのデザインと彩色の堂門、そして「毘沙門しだれ」と呼ばれる桜と、紅葉が映えるイロハモミジが美しい名所としても知られています。

 後西天皇皇子の公弁法親王(1669~1716年)が毘沙門堂に入って以来、「門跡寺院」の一つに数えられるようになりました。

 「門跡寺院」であれば、椿にも縁が深いのではないかと思い、訪れることにしました。

1 「毘沙門堂」への石段とヤマモモの巨樹

 JR山科駅から北へおよそ1.2キロ、毘沙門道を通って住宅街を抜け、山科疎水を渡り、安祥寺山の中に入ると、「毘沙門堂」の堂宇が見えてきます。

 石段の上には、「毘沙門天」と書かれた大きな提灯がぶら下がる、朱塗りの「仁王門」が参詣者を迎えます。

 かなり急角度の石段を上っていく途中、右手に、ひときわ巨大な樹があります。

 「山科区民の誇りの木」である「ヤマモモ」で、高さ20メートル、幹周2.35メートルに及ぶ大木で、雄株ということです。雌株なら、暗紅色の甘酸っぱい苺のような実がたわわになるところでしょうね。

2 本堂、霊殿、宸殿を見る。「いけずの間」とは?

 「仁王門」をくぐると、色彩豊かな装飾が目立つ「唐門」と「本堂」が正面に見えます。

 本堂前の受付で拝観料を支払い、本堂から渡り廊下を伝って、「霊殿」「宸殿」へと進みます。

 本殿の朱色と新緑が、目にも鮮やかです。

 「霊殿」から「宸殿」を臨みます。

 これらの建物内部に描かれる天井画や襖絵は、狩野派の絵師によるものですが、見る角度によって、見え方が変わるという、「だまし絵」的な仕掛けが仕込まれているのが特徴です。

 一番面白かったのは、「宸殿」を入ったすぐにある通称「いけずの間」です。

 来客の控えの間となっているこの部屋の襖絵には、梅の木に山鳥が、竹にヒヨドリが描かれています。取り合わせとしては、梅に鶯、竹には雀なので、この襖絵は、「鳥が合わない」⇒「取り合わない」ということで、ここに通されたお客さんは、住職はお会いしませんので、どうぞお引き取りくださいとの意だそうです。

 京のお茶漬けではないですが、婉曲的なお断りの仕方が、なんか上から目線の意地悪さがあってやな感じと、誰が名付けたのか「いけずの間」とは、ジャストフィットのネーミングですね。

3 昼なおほの暗い緑の「晩翠園」

 「宸殿」の裏に回ると、江戸初期の回遊式庭園である「晩翠園」が広がります。

 池は、もとはもっと大きなものだったようですが、明治の廃仏毀釈により、埋められてしまったとのことです。

 池の対岸に、背景となる山のうっそうとした茂みに埋もれそうな「観音堂」があり、その付近の暗く深い緑は、夜目に翠を思わせる「晩翠」の名のいわれとなっており、やや妖しげな雰囲気も感じさせます。

4 銘木「毘沙門しだれ」とイロハモミジ

 「毘沙門堂」のメインツリーである「毘沙門しだれ」です。

 高さ7.8メートル、幹周2.3メートル、樹齢150年の巨木で、「宸殿」の正面に枝を大きく広げています。

 寛文5年(1655年)に寺が再興されてから、5代にわたって植え継がれてきたものだそうです。

 椿では、150年たっても幹周1メートルにいかないことも多いので、他の樹と比較すると、椿の成長の遅さを感じますね。

 門跡寺院らしく、格式高い「勅使門」です。

 勅使門に向かう参道の石段の両側にモミジの樹々が並んでいます。
 ここは、秋の散紅葉が石段に敷き積もる、絶好のフォトポイントですが、青紅葉の緑陰もまた気持ちがよかったですね。

5 境内の片隅に静かに佇む椿

 さて、肝心の椿ですが、庭園や中庭などに、目を見張るようなものはありませんでしたが、鐘楼付近にまとまってありました。

 椿らしく、境内の片隅に静かに佇んでいるという感じでしたね。

 「毘沙門堂」のホームページを見ると、藪椿だけでなく、園芸種もありそうでしたので、また、来シーズンにでも、桜を愛でつつ、訪れたいと思っています。

 この小さな神社の傍らにある椿が、最も年期が入っていそうでした。

 この時期はシーズンオフなので、参拝客もまばらで、ゆっくりとお堂を見学させていただきました。「宸殿」は、門跡の居住空間でもあり、各部屋に、障子を開け閉めして出入りしていると、どことなく「生活感」みたいなものを身近に感じましたね。立ち入り禁止のところがあまりなく、おおらかな拝観ができるせいかもしれません。

 京都のメジャーな寺とは少し離れていることから、簡単に足が向かないかもしれませんが、建物、景色、銘木が揃う、よいスポットだと思います。