今年も梅雨のシーズンがやってきました。
雨が続くのは気が滅入りますが、この時期、そぼ降る雨に映える紫陽花が見ごろを迎えます。
京都は、紫陽花が有名な寺社も多く、訪れるところに事欠きませんが、京都・深草の藤森神社もその一つです。
参道左手に第1紫陽花苑、本殿の奥に第2紫陽花苑の2箇所が開かれ、3,500本余りの紫陽花が多彩に咲き、多くの参拝客でにぎわいます。
この第1紫陽花苑には、風格ある椿の大木があります。
その背景を紫陽花がブルーの電飾のように彩っていました。(令和7年6月7日)
1 藤森祭の「駆馬神事」と「神幸祭」
藤森神社は、東にJR奈良線「藤森」駅、西に京阪本線「墨染」駅の丁度真ん中くらいにあり、京都教育大学キャンパスと隣接しています。
伏見稲荷大社と藤森神社に関わる「移転」のお話はよく知られています。
もともと、稲荷山の麓の藤尾の地には、藤森神社の前身となる藤尾社がありましたが、そこに稲荷社が山から下りてきたため、藤尾社が現地へと遷座することになったというものです。
藤森神社の伝承によれば、永享10年(1438年)に、後花園天皇の勅命により、室町6代将軍足利義教によって遷座となったとされていますが、万人恐怖に慄いたと言われる将軍らしい、有無を言わせぬものだったのだろうと想像できますね。
面白いのは、この遷座を、稲荷社との関係が深かった空海のエピソードに転化して、藤尾社の氏子をペテンにかけるような言い伝えが残っていることです。
渋る氏子たちに、十年の借地だと懐柔し、後で「十」の頭に一筆加えて「千」としたという、空海にはあまり似つかわしくないお話です。
神幸祭で深草一帯を練り歩く御神輿は、稲荷大社にも立ち寄りますが、昭和の初めころまでは、お稲荷様に「土地返せ」と抗議し、お稲荷さんは「今、留守じゃ」との恒例の掛け合いがあったそうです。
義教の強引なやり方への反発が相当なものであったことがうかがえます。
毎年5月5日に催される藤森祭で、神幸祭に並ぶ呼び物は、参道を騎馬で曲乗りする「駆馬神事」です。早良親王が陸奥征討の出陣にあたって当社に祈願したことを由来とするものとされ、後に、朝鮮通信使により伝来し江戸時代に流行した曲乗りの技が今に伝わっています。
2 見頃の紫陽花苑
朝の10時前に着きましたが、境内駐車場はすでに満杯で、臨時に参道に設けられた駐車スペースもほぼ埋まった状態。でも、紫陽花の名所としては、人出は少ない方でしょう。シーズンの土曜日に停められましたしね。
第1紫陽花苑は、ちょうど見頃を迎え、多くの方が苑内を回遊していました。
池にはカキツバタも咲いていましたが、こちらはさすがに萎れかけており、紫陽花とのコラボとなるには、タイミングがずれたという感じでした。
私は、原種の素朴さのある「ガクアジサイ」に心惹かれました。
第2紫陽花苑は、まだほとんど咲いておらず。
同じ境内でも、日照や土壌など、生育条件の違いが大きいのでしょうか。
3 参道の大椿
以前から、藤森神社を訪れる機会は何度かあり、この2本の大椿の存在には気づいていました。
大きい方は、参道の路面に生えています。
幹の太さからすると、200年近い樹齢ではないかと思われます。
今回、幹をよく見てみると、いったん根元から岐れた枝が再び連理しているように見えました。
生えている場所柄、足元を踏まれていそうで、あまりよい環境ではないようですが、いたって元気そうです。
もう一本は、第1紫陽花苑の中に立っています。
周りを紫陽花に囲まれる晴れがましい舞台ですが、この木を椿だと目にとめる人は誰もいないでしょう。
稲荷大社と違い、日ごろは物静かな藤森神社。
二本の大椿は、参道の日常風景に溶け込んで、地元の人だけに知られているのかもしれません。