横浜市鶴見区「宝蔵院」の源平五色椿

 昨年の大晦日、「かながわの名木100選」に選定されている椿2本のうちの一つ、横浜市鶴見区にある宝蔵院の五色椿を訪れてきました。

 JR鶴見駅西口から、横浜市営バスに乗り約13分、「宝蔵院前」で降車、500mほど歩くと、住宅に囲まれた高台に「宝蔵院」があります。

 

 天文16年(1547年)の創建とされ、天明の頃には水害、また、関東大震災による倒壊などを経て、昭和18年に現地に移転したようです。

 階段を上がると、鎌倉時代のものとされる山門に迎えられます。

 ごく普通の小ぶりな門ですが、獅子と獏の立派な木鼻に目が引かれます。

 木鼻は、建物の強度を高める水平材である「貫」が、柱を貫通して飛び出たところに施した装飾です。

 「貫」の建築手法は、東大寺の再建を果たした重源によって宋から伝えられ、広がったとされているので、木鼻は鎌倉期以降の建築物に見られるもので、時代が下がるにつれて、装飾が手の込んだものになっていきました。

 鎌倉の多くの寺社で、「動物系」の凝った木鼻をよく見かけましたね。www.kyogurashi-neko.com

 さて、この山門をくぐると、本堂の左手、客殿との間に囲われた一角に、大きな椿がありました。

 高さ7m、枝張り6m、胸高周囲2mという、椿としては、かなりの巨木で、樹齢は600年に及ぶのではないかとのこと。

 モルタルによる修復は見られるものの、幹や大枝に目立った損傷もなく、枝葉が旺盛に繁っており、まだまだ寿命を保ちそうな様子でした。

 県の調査報告によると、50年ほど前に、樹勢が弱ってきたので、太根を切って発根を促す措置が効を奏して、元気を取り戻したと記載されています。

 樹の北方10mほどのところに、良質の湧き水があるらしく、それも長寿につながる要素の一つとなっているのかもしれません。


 「五色」の名のとおり、赤、白、ピンク、絞り、ぼかしの5種類に咲き分け、紅白のコントラストの美しさから、「源平」の名を頭に持つということです。

 WEBに載っている花を見ると、蕊が花弁と混じり合って咲いており、いわゆる「牡丹咲」の形状に見えます。

 「五色椿」といえば、京都の地蔵院、法然院、柊野などの名木が頭に浮かびますが、これらは「八重咲」で蕊が中心にまとまっていますし、500年ほど前に朝鮮から持ち帰られた地蔵院の先代の椿の系統のものです。

 宝蔵院の椿は、種別も由来も、この系統とは異なる希少種なのかもしれません。

 600年は伝承かもしれませんが、年月を経た椿独特の質感は、迫力と魅力にあふれています。

 「緑青をふいたような幹」というのは、いい得て妙の表現ですね。雨に濡れるとより鮮やかな色になるのでしょう。

 お寺の移転は80年ほど前のことですから、この椿は、随分以前からここで咲いていたことになります。園芸種なので、樹齢が伝えられているようなものだとすると、室町前期に、この場所に、寺社か屋敷が営まれていたのかもしれませんね。

 例年4月に、客殿2階の大広間から花を愛でる「花まつり」が開かれているようです。

 ちょうど客殿に沿う形で、高く広がる樹形なので、この広間は、間近に、同じ高さの目線に、五色の椿を堪能できる絶好のロケーションとなることでしょう。

 機会があれば、いつか、そのときに来訪したいなと思いながら、宝蔵院を後にしました。

 

 

 

 

 

 

鎌倉の椿巡り⑨~杉本寺と浄妙寺

 鶴岡八幡宮から金沢街道を東に1.5kmほどの、二階堂・浄明寺エリアも、多くの寺社、名所・旧跡に出会えます。鎌倉の椿巡りラストは、杉本寺と浄妙寺です。

 

1 古寺「杉本寺」

 「杉本寺」は、鎌倉で最も古いお寺で、創建は天平6年(734年)にまで遡ります。

 聖武天皇の后である光明皇后の御願により、右大臣藤原房前行基によって建立されたといいますから、大変に由緒のあるお寺です。

 山門(仁王門)です。

 山門から本堂へと続く鎌倉石の石段は、浄智寺の石段と同じく、鎌倉の情緒あふれるシーンとして印象に残るものです。

 幾人が通った後か、窪んだ段々は、波が打ち寄せてくるようにも見えます。

 古びた色合いは、茅葺の本堂ともよくマッチしています。

 山門も茅葺で、苔の味わいがあります。

 本堂の観音堂は、茅葺の古風な仏堂で、現在のものは、延宝6年(1678年)の建立とされています。

 密教天台宗のお寺らしく、本尊を秘仏として、格子戸で囲う内陣と、礼拝の場である外陣とに区分されています。

 行基、円仁、源信という、教科書にゴシック体で載るような名僧がそれぞれ刻んだとされる三体の十一面観音が本尊です。

 この三体の観音様は、文治5年(1189年)11月23日の夜、お堂が炎上したときに、我が身を動かして、大杉の下に避難したとの伝説があります。

 建久2年(1191年)には、源頼朝がお堂を再建し、御三体を堂内の奥に大切に安置したといいます。

 また、不信心な者がお寺の前を乗馬したまま通ると、必ず落馬したことから、別名「下馬観音」とも呼ばれていたそうです。蘭渓道隆行基作の観音様に着ていた袈裟をかけてからは、そのようなこともなくなったと伝わります。

 歴史の古いお寺だけに、ビッグネームの関わったエピソードがふんだんにありますね。

 三体の観音様は、奥に「格納」されているため、格子戸越しに雰囲気を感じることしかできませんでしたが、本尊以外の多くの仏像をごく間近に見ることができました。

 内陣が厳重に護られている一方で、外陣は一般民衆に開かれていたことが、今も、おおらかな拝観に引き継がれているのかもしれません。

 堂内に入って、仏さまと同じ空間に身を置いて、像の質感と陰影をリアルに体感できるのがうれしいですね。

 頼朝が本尊を秘仏とする代わりとして,御前立として寄進した観音様をはじめ、運慶作?とされるものもいくつかありましたが、私は、地元の仏師であろう、宅間法眼作の毘沙門天が気に入りました。

 境内で見つけた椿(サザンカ)たちです。

2 和と洋の浄妙寺

 杉本寺の東、程近くにある「浄妙寺」は、鎌倉五山の第五位に数えられる名刹です。

 文治4年(1188年)に、頼朝の側近で、足利氏二代当主の足利義兼が創建し、七代当主の貞氏(尊氏の父)が中興し、鎌倉幕府滅亡後も、鎌倉府が設置され、足利氏菩提寺の一つとして寺勢を維持したようです。

 戦国の騒乱で衰えたものの、後北条氏徳川家康のバックアップもあり、今に至っています。

 訪れたのが12月30日ということで、門は開かれていましたが、拝観休止となっていたため、境内をぐるりと回るにとどまりました。

 庭園もいい雰囲気です。

 ところどころ、椿がありましたが、まだ蕾は固いようでした。

 ほとんど人のいない境内でしたが、庭園前に置かれたベンチに、外人の女性が、一人静かに読書をされていました。

 旅先で、あくせく各所を回っていた私は、ふと我に返りましたね。

 遠国から来たにもかかわらず、「和」の世界に違和感なく溶け込み、ゆったりとした時間を過ごしている姿は、実にお洒落でした。

 お寺の北側の高台には、洋館とガーデンテラスとがあります。

 この館は、100年ほど前に、貴族院議員の方が邸宅として建てたものですが、イングリッシュガーデンと食事やお茶を楽しめるスペースとして、アレンジして改装し、2000年にオープンしています。

 和と洋、新と旧とがうまくすみ分けながら共存しているのは、刺激的で魅力あるものです。

 後から思えば、あの女性は、洋館の関係の方だったのかもしれませんね。 

 帰りは、白西王母が見送ってくれました。

















 

鎌倉の椿巡り⑧~建長寺と円覚寺

 臨済宗建長寺派大本山建長寺は、誰もが知る鎌倉五山筆頭の禅寺で、建長3年(1251年)、北条時頼の招きにより、蘭渓道隆が開山しました。

 北宋から元の時代の中国の建築様式を伝え、総門から法堂まで、主な伽藍が直線状に連続して並ぶ中国南宋五山と同様の配置としているのは、本家の宋禅を日本に広げようとの意気込みが現れたものといわれます。

 武家政権の強化を図る北条氏は、京都と離れた鎌倉の地において、朝廷と既存宗教の強固な文化・宗教的支配とは別に、武士による独自のイニシアティブをとろうとしました。

 そこで、武士の気風ともフィットした禅宗を擁護し、また、日本に布教のフロンティアの可能性を見た北宋の禅僧にとっても機会到来ということで、双方の思いがうまく組み合って、禅宗が興隆したということですね。

 その基点ともなる建長寺は、度重なる天災、兵火により、伽藍が失われては再建されてきました。

 創建当時の建物は現存しませんが、今も壮大な伽藍が並び、鎌倉第一の風格と歴史の重みを感じさせます。

 入口の総門は、関東大震災で倒壊したため、京都・千本今出川にあった般舟三昧院の正門を移築したものです。

 「三門」です。現存のものは、1775年の再建です。

 正面の唐破風と扁額が特徴ある、入母屋造りの20m近い巨大な門は迫力があります。

 でも、人を威圧し、隔絶する門とは全く違い、一階には扉がなく、寺があらゆる人に開放されていることを示すとされています。

 重量感あふれる上階は、地震に弱そうにも見えますが、がっしりとした木組みに支えられており、関東大震災にも見事に耐え残っています。

   

 国宝の梵鐘です。

 

 仏殿に至る参道左手に、ビャクシンの堂々とした樹姿が見えます。

 樹高13m、胸高6.5mの巨木で、蘭渓道隆南宋から携えてきた種子をまいたものと伝わっています。

 開山時から数えると約770年の樹齢ということで、寺の移り変わりとともに、幾多の名僧や名将を見てきた、生きる歴史とでもいうべき銘木ですね。

 仏殿は、関東大震災で倒壊し、「悲惨ノ状ヲ呈ス」と文部省の記録にありますが、無事再建されました。


 仏殿の後方には、大きな法堂が。

 壮麗さに思わず目を奪われる、方丈の「唐門」。

 仏殿と同じく、増上寺にあった徳川秀忠夫人の崇源院(お江の方)の霊屋を移したもの。

 震災前の仏殿も、「富麗ナル色彩及ビ金具ノ装飾ヲ施セリ」と記されており、江戸期には、仏殿と唐門により、禅寺ではありながら、きらびやかな雰囲気も加わっていたのでしょうね。

 方丈の裏に広がる庭園です。

 建長寺に来たからには、「半僧坊」の絶景を見ない手はありません。

 方丈の裏手から、山へと連なる階段道を進みました。

 たどり着いた「富士見台」。

 ぼんやりとはしていたものの、富士山を臨むことができました。

 この先、急な階段を上るにつれて、視界が広がり、素晴らしい景色を楽しむことができます。

 眼下には、樹々の合間に、建長寺の伽藍が一望でき、遠方には、鎌倉の街を越えて、はるかに相模灘の水平線が見渡せます。

 この雄大な光景をバックに、大きな藪椿がぽつりと紅い花を咲かせていました。

 やや高所恐怖症気味の私ですが、椿越しのパノラマを見ると、足がすくみながらも、上ってよかったなと感動しました。

 

 建長寺を後にして、円覚寺へ。

 弘安5年(1282年)、執権北条時宗は、国家の鎮護と蒙古襲来で命を落とした者を弔うために、無学祖元を招き、円覚寺を建立しました。

 日本人だけでなく、元人、高麗人を問わず追悼する懐の深さは、あらゆる衆生を救う仏さまに似つかわしいことだと思いますね。

 建長寺の三門ほどではありませんが、円覚寺の三門もなかなかの存在感です。

 12月30日、快晴の穏やかな日でした。

 仏殿と、その手前の無学祖元が植えたといわれるビャクシンです。

 仏殿の無学祖元坐像。

 頂相彫刻は、師の御姿を写した像として、礼拝し、尊ぶことから、リアルな風貌を伝えているとされます。

 開山堂、瑞泉寺の坐像のクオリティには及びませんが、個性的な顔立ちは共通しています。

 方丈に入る門です。

 辰年にふさわしい、扉の龍の彫り物です。

 御存じ、国宝「舎利殿」。

 お正月には、特別公開されたようです。残念。

 円覚寺では、椿を見ることはできませんでしたが、塔頭では、わずかながら椿の姿を見かけました。

 最奥にある塔頭で、夢窓疎石の塔所である「黄梅院」です。

 有楽椿が迎えてくれました。

 今頃は、梅もちらほらと咲き始めているかもしれません。

 北条時宗の廟所である「佛日庵」です。

 最後に、国宝の洪鐘を見学しました。

 関東一大きな鐘だそうです。参拝者は撞けなかったようですが、翌日の大晦日に荘厳な音を響かせていたようです。

 お正月の飾りの準備ですね。一年が経つのが早いこと。
















































 

 

 

 

 

 

 

 

 

鎌倉の椿巡り⑦~化粧坂から、源氏山、葛原岡神社を経て浄智寺へ 

1 化粧坂

 京の都への出入口は、「京の七口」として知られていますが、鎌倉にも同様に「鎌倉七口」と呼ばれる出入口があります。

 鎌倉を囲む山の尾根を切り下げて造られた「切通」は、人馬や物資の流通ルートであるとともに、軍事上も重要な防衛拠点となりました。

 このため鎌倉が決戦場となれば、「切通」は激戦地となり、「太平記」にも新田義貞が三つの口から、鎌倉へと怒涛の如く押し寄せた際の決死の攻防が描かれています。

 扇ガ谷から武蔵国へと結ぶ口である「化粧坂」は、新田義貞が自ら突破を図ったものの、守将・金沢貞将らの奮戦により最後まで陥落しなかったと伝えられています。

 せっかく鎌倉に来たからには、「切通」の一つは見ておきたいと思い、「化粧坂」を抜け、源氏山、葛原岡神社を経由して、浄智寺へと至る「葛原岡・大仏ハイキングコース」を歩いてまいりました。

 「化粧坂」は、鎌倉七口の中でも、古の様相を残していると言われます。

 切通といえば、道の両側が切り立っているイメージがありますが、「化粧坂」は谷側は開けています。

 急勾配の坂に設えられた石段は、足掛かりとなる部分がすり減って深いくぼみができ、いかにも古そうな味を出しています。

 鎌倉のつわものたちが、ここを先途と戦ったことを考えると、ただの坂とは思えなかったですね。

 坂の上は、平坦な岡地となり、源氏山の公園もすぐそばにあります。

 サザンカの咲く公園に、頼朝公の像を見て、葛原岡神社へと足を延ばしました。

 「葛原岡神社」への途中に、後醍醐天皇の倒幕活動を支えた側近で、建武の新政を見ることなく、「化粧坂」上で斬罪となった日野俊基のお墓があります。

2 葛原岡神社のサザンカと椿

 元日の初詣を待つ大晦日の葛原岡神社。

 参道両側のサザンカが、赤い提灯、紅白幕、朱文字と綺麗にフィットしていました。

 鳥居前に見つけた椿。

 この後、ハイキングコースにしたがって山中に入っていきましたが、これが結構な山道のうえ、雨上がりで滑りやすく、少し後悔しつつ、汗ばみながら峠越えをすることになりました。

 途中、「天柱峰」と記された碑がありましたが、浄智寺が最も栄えていたころは、その付近までもテリトリーとしており、僧房の跡も発掘されているようです。

 半時間くらいの「ハイキング」で、ようやく人家が見えるようになったところで、周囲がガサガサと騒がしくなり、甲高い鳴き声とともに小動物の集団が現れました。

 これが、困りものとなっていると聞く「台湾リス」ですね。子猫くらいの大きさがあります。

 警戒心が強いと思っていたので、こんな至近距離になっても逃げようとしないので、こちらも驚きました。

 人を見て危険かどうかがわかるのか、案外、学習能力が高いのかもしれません。 

3 浄智寺

 ようやく「浄智寺」に到着。

 鎌倉五山第四位の名刹です。「甘露の井」を左手に見て、総門へと。

 総門から山門へは、苔むして古色蒼然とした鎌倉石の石段が続きます。

 風情があり、撮影スポットして人気の高いところです。

 「浄智寺」は、北条時頼の三男で、時宗を兄に持つ宗政の菩提を弔うために開創されました。

 宗政は、有能な人物であったらしく、時宗を支える存在として期待され、建治3年(1277年)には、元軍の再度の来襲に備え、警護を固めるため、博多を管轄する筑後国の守護に任命されています。

 しかし、宗政はこれからという29歳で逝去。

 浄智寺の開山は、時宗の痛嘆と慰霊の思いの深さを示すものなのでしょう。

 鐘楼門である山門は、中国風の意匠が異彩を放っています。

 関東大震災で、浄智寺も大被害を受け、鐘楼門も倒壊しましたが、現在の門は、2007年に復元したようです。

 「曇華殿」に安置されている仏様三体は、阿弥陀如来、釈迦如来弥勒如来で、過去・現在・未来の三世で衆生をお救いいただきたいという願いを体現したものということです。

 「曇華殿」の裏側にひっそりと祀られている観音様です。

 曇華殿の仏さまとは距離がありますが、こちらの観音様は、お近くで、優美な姿を見ることができます。

 「浄智寺」も鎌倉らしく、山に面するところには、やぐらが沢山出てきました。

 平行と垂直の構図。

 布袋さんのやぐらを彩る椿。

 境内には、ビャクシンやコウヤマキなどの巨木が散在し、様々な花木が植えられ、竹林や手入れされた庭園など、お堂の回りは樹々と緑でいっぱいで、気持ちよかったですね。

 これで、鎌倉五山は一通り訪れることができ、最後に東慶寺にお参りして、鎌倉を後にしました。
 















鎌倉の椿巡り⑥~海蔵寺

 鎌倉・扇ケ谷の奥に位置する「海蔵寺」。

 建長五年(1253年)、皇族初の鎌倉将軍となった宗尊親王が伽藍を再建したものですが、鎌倉幕府滅亡のときに兵火で焼け落ち、応永元年(1394年)に第二代鎌倉公方足利氏満の命により、扇谷・上杉家ニ代目の上杉氏定が源翁禅師(心昭空外)を招いて開山し、扇谷・上杉家の庇護を受けたとされます。

 JR横須賀線沿いの道から、北西に分岐して、お寺まで延びる専用道路のような道を進むと、過たずに門前に到着です。

 

 

 

 山門の両脇にサザンカが出迎えてくれました。

  

 山門を入ると、左手に鮮やかな朱色の椿が目に映りました。

 鎌倉の椿巡りといっても、年末のこの時期なので、椿の花をあまり見ることができず、少しフラストレーションもたまっていたので、気分も上向きとなりました。

 雨上がりの苔の上に、早咲きの白椿。

 藪椿一輪。

 庫裏の横にも、優しげな椿が咲いていました。

 住職が花木をお好きなのだろうなあと伝わってくるようなお庭でしたね。

 庭を見てまわった後、本堂にお参りしました。

   

 安永5年(1775年)に、浄智寺から移築された仏殿(薬師堂)には、本尊の薬師如来像が安置されています。

 この薬師如来には、言い伝えが残っています。

 寺の裏山の墓所から、夜な夜な赤子の泣き声が聞こえたため、源翁禅師が袈裟をかけると泣き止みましたが、あらためて、墓を掘ってみると、薬師如来のお面が出てきました。そこで、禅師は、新たに薬師如来を造って、胎内に、このお面を納めたとされています。

 胎内に納まるのなら、小さいものだと思いますよね。ところが、どうも、このお面は、入れ物である薬師如来様のお顔よりも大きいようです。ちょっとシュールな味わいもある像ですが、胎内のお面を見ることができるのは61年に一度とのこと。運が良ければ拝めるかもしれません。

 茅葺の庫裏です。

 本堂左手裏に廻ると、やぐらが現れました。

 境内側のお寺の雰囲気とは一変したような、岩山の出現に驚きました。

 自然の迫力だけでなく、やぐらの持つスピリチュアルな感じが、独特の異世界的な空気感を醸し出します。

 寺の裏手には、山の起伏を活かした庭園が造られていました。

 この岩山に沿った径の先に、「十六井戸」があります。

 岩のトンネルをくぐって進みます。

 井戸は、このやぐらの中に。

 恐る恐る覗き込むと、床面に16個の丸い穴が掘られて、透明な水をたたえています。

 闇の中で、青みがかって見える水は、幻想的で美しくもありました。

 16という数字は、十六大菩薩、十六善神十六羅漢などなど、仏教用語で頻繁に出てきますね。16は、総体や全体を意味する特別な数とされているようです。

 ちょっと怖くて、不思議な空間です。

 海蔵寺にはもう一つ「底脱ノ井」と呼ばれる井戸が、山門の右手にあります。

 安達泰盛の娘千代能が詠んだうたが伝わっています。

 千代能が水を汲みに来た時に、桶の底が抜けたことに、心の底も抜け、わだかまりも解けて、解脱の境地に至ったとの意だそうです。

 安達泰盛と一族は、「霜月騒動」で自刃して滅びましたが、千代能は出家して、無学祖元の弟子となったとされています。

 そんな悲劇を経験したからこその境地だったのでしょうか。

 「花の寺」海蔵寺。椿も愛されている感じのするいいお寺でした。

 

鎌倉の椿巡り⑤~寿福寺の静かな石畳み

 鎌倉駅から北鎌倉駅へJR横須賀線が走るエリアは、扇ヶ谷と呼ばれます。

 この地は、もともと亀ヶ谷という名で、頼朝の父である義朝が屋敷を構えていました。

 鎌倉に入った頼朝は、ここに館を建てて本拠としようとしましたが、すでに義朝の菩提を弔うお堂が建立されていたこともあって、大蔵の地を御所とし、幕府を開いたとされています。

 「寿福寺」は、この義朝邸跡に、頼朝が亡くなった翌年の1200年(正治2年)に、北条政子栄西を招いて創建したもので、鎌倉五山で、建長寺円覚寺に次ぐ高い序列を持ち、蘭渓道隆など名だたる僧も住持となるなど、大寺としての格を誇っていたそうです。

 現在、参道と裏山にある墓所については入ることはできますが、境内は普段は公開されていません。そのせいか、訪れた時にも、何人かの人を見かけた程度で、静謐な雰囲気に包まれていました。

 まっすぐな参道が、中門まで延びています。

 小雨の中、敷石の上を歩いていきました。

 中門から、境内を見せていただきます。 

 仏殿を臨み、巨大なビャクシンが目に入ります。両側にニ本ずつ、四本の大樹です。

 鎌倉は、ビャクシンの大木が多いですね。近くには寄れませんでしたが、寿福寺のビャクシンも年月を経た風格に溢れています。

 中門から鐘楼にかけての風情もいいですね。


 綺麗に手入れされた生垣、植木と、背景の鬱蒼とした山の樹々。

 岩肌が露出しているところには、やぐららしきものが見えます。

 静かな大晦日の朝。お寺も、正月の準備をされているのでしょう。

 さて、中門から左手から墓所のある山への道へと入ります。

 かなり大きな墓所の崖沿いには、やぐらの中につくられたお墓が並んでいました。

 その中の一つに高浜虚子のものもありました。

 しばらく崖沿いの径を進むと、政子と実朝のものらしき洞窟が。

 そう伝えられるだけのことはあり、相当に大きな横穴で、特別な区画であるような感じがありました。

 あまり覗き込むのも気が引けましたので、手を合わせて、墓所を後にしました。

 そうこうしているうちに、雨も小やみになったようです。

 再び、濡れた石畳みの道を山門へと歩みました。

 寿福寺を出て、英勝寺、海蔵寺へと。

 今回の鎌倉旅で見たかった椿は、「英勝寺」の英勝寺侘助と「覚園寺」の太郎庵椿でしたが、実は両寺とも年末は拝観休止とのことで、これは残念至極でございました。

 もしかして、開いているかなと期待していましたが、やはり英勝寺の門は閉じられていました。

 というわけで、肩を落としつつも、またの機会を楽しみに、海蔵寺へと歩いていきました。

 

鎌倉の椿巡り④~早朝の妙本寺

 

1 早朝の妙本寺

 鎌倉での宿は、若宮大路に面したところでしたので、ほど近い「妙本寺」へ早朝の散歩に行ってきました。

 若宮大路から「大巧寺」を通り、小町大路に出て、夷堂のある「本覚寺」の道向かいに、「妙本寺」への長い参道が続きます。 

 総門をくぐり、まっすぐな参道を、両側に広がる木立を分け入るように歩いていくと、別世界に入ったような気持になります。


 石段を上ると、薄闇の中に「二天門」が姿を現します。

 門を護る持国天多聞天が、常夜灯に照らされ、浮かび上がっています。

 彫像の陰影がほどよく、感性に訴えますね。煌々としたライトアップであれば、こうはならないでしょう。

 昔の燈明であれば、影のゆらぎも加わり、なおのこと効果があったものと思います。

 「二天門」から広い境内に入ると、正面に、日蓮上人を祀る「祖師堂」が威容を誇っています。

 「妙本寺」が存する比企谷は、比企氏の本拠があったところです。

 当主の比企能員は、頼朝の乳母を母に持ち、娘の若狭局は頼家との間に長子の一幡を産むなど、その勢力が強大になりつつありました。覇権を争う、北条時政と政子の謀略により、比企能員は討たれ、一族はこの地で攻め滅ぼされます。かろうじて逃れ出た若狭局も一幡も、日を置かずして、命を奪われることとなります。

 「祖師堂」の右手側には、比企一族を弔う石塔、また、一幡の形見となった小袖を埋めて供養した塔が静かに立っています。

 800年以上も前のことですが、そんな悲劇の地に足を停めれば、やはり粛然とした気持ちとなりました。

 小雨模様でしたが、次第に明るくなってきました。

 書院前の庭には、唐子咲の椿。

 参道脇には、早咲きの藪椿。

2 「常栄寺」(ぼたもち寺)

 総門前を左に折れて、小径を進むと、「常栄寺」という小さなお寺が道沿いに見えてきます。このお寺は、通称「ぼたもち寺」といいます。

 この地に住んでいた尼さんが、龍ノ口刑場へ護送されていく日蓮上人に「胡麻入りのぼたもち」を捧げましたが、御存じの通り、日蓮上人は奇跡を起こされ戻ってこられたことから、厄除けの「首つなぎぼたもち」として名物として今に伝わっているということです。「腹切りやぐら」だの「首つなぎぼたもち」だの、直截でリアルな命名は少しギクッとはしますが。

 門前の藪椿。紅い門と合います。

3 「大巧寺」の椿道

 再び、小町大路へと戻り、「大巧寺」にお参りしました。

 細長い境内に、所狭しと椿が植えられています。

 春には、多くの品種が咲きそろい、見ごたえあるだろうと思います。

 「妙蓮寺」です。

 椿ロードです。

 鎌倉駅からごく近くで、若宮大路に面しているので、まさに鎌倉の中心部にあります。

 少し歩くと、様々なお寺や神社、旧跡に出会います。思わず時間を忘れて遠出してしまいますね。