三輪明神・大神神社、談山神社、聖林寺への探椿紀

 奈良県桜井市は、奈良盆地の中央にあり、北に奈良市天理市、南に吉野、明日香村、東は、宇陀市へと続く三輪、巻向、初瀬の山々が連なり、その裾野から西へと大和平野が広がって、橿原市に隣り合います。

 

 有名な歴史豊かなまちに囲まれていますが、桜井市には、引けを取らない存在感があります。

 3世紀から飛鳥時代に至るまで、古代国家黎明期の舞台となった古墳のまちであり、中世における、興福寺の強大化と大和武士の勃興、さらに南北朝の動乱など、南都の時代のうねりを今に伝える寺社旧跡が数多く残る、歴史の宝庫ともいうべきまちです。

 ようやく、酷暑も一段落した秋のお彼岸の連休の一日、駆け足で桜井市を訪れ、三輪明神大神神社談山神社そして聖林寺を回り、豊かな歴史の片鱗に触れてまいりました。

桜井市埋蔵文化財センター展示

1 三輪明神大神神社を参拝

 大神神社の由緒について、『古事記』では、出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)が、国造りを成就するため、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を三輪山に祀ったと伝わり、三輪山は「神奈備」として、山をご神体として、一木一草に至るまで神宿るものとして尊ばれています。

 このため、大神神社には本殿がない古式の姿を今に残しています。

 二の鳥居から、深い鎮守の森の中の長い参道を進むと、石段の上に、唐破風の向拝を持つ堂々とした拝殿が目に入ってきます。ここで、大神の鎮座する三輪山への拝礼を行います。

現在の拝殿は寛文四年(1664)徳川四代将軍家綱によって再建

椿「獅子頭」の奉納

 お参りの後、「山野辺の道」に沿って、病気平癒の御利益のある狭衣神社へと向かいましたが、ここに山への入り口があるんですね。三輪山へ入山しようとする方々を見かけました。

向かって右手が入山口となっていました。

 今回は時間の関係でパスしましたが、三輪山は、神域として人手が加わらず、常緑広葉樹の自然林が保たれている「ヤブツバキクラス域自然植生」エリアとなっています。シーズンに山に入ると、藪椿の素朴な紅い花を楽しめることでしょう。

 近くに位置する、古代に大きな市が立ったといわれる海石榴市(つばいち)も、三輪山麓に椿がたくさん植えられていたことを語源とする説もあるくらいですしね。

 お昼近くになりましたので、せっかくなので三輪そうめんをいただくことにしました。

 二の鳥居付近の、門構えがとても風情のある「そうめん処 森正」で、シンプルに、二人で、にうめんと冷やしそうめんを注文。

近松門左衛門の「冥途の飛脚」に登場する「三輪茶屋」の門だそうです。
  ちなみに、この道の突き当りに、明治に至るまで「大御輪寺」という神宮寺であった「若宮社」があります。今は聖林寺にある聖観音菩薩像は、神仏分離令までは、ここに安置されていました。

 江戸時代の中頃に刊行された『日本山海名物図会』(1754)に、「大和三輪素麺、名物なり、細きこと糸の如く、白きこと雪の如し、ゆでてふとらず、余国より出づるそうめんの及ぶ所にあらず」とありますが、確かに細麺で、のびることもなかったですね。帰りに、そうめん干しの時に出る端っこの規格外品「ふしそうめん」を購入(一袋200円!)。家で、みそ汁に入れて美味しくいただいています。

2 多武峰談山神社

 大神神社を出て南へ、寺川の谷に沿って飛鳥、吉野へと通じる多武峯街道を進むと、山あいに稲穂の実る田んぼが見えてきて、ほっとする懐かしい風景となります。

 途中「聖光寺」への入り口を示す標識が出てきましたが、帰路に寄ることとして先を急ぎ、多武峰へと、県道155号線に急角度に折れ曲がると、急に山道となりました。

 しばらく進んだ後、旧街道へと下ると神社近場の駐車場に到着します。

 左手に、土産物店と多武峰観光ホテルが並ぶ一角を歩いて、見上げるばかりの大杉を右手に山側に入ると、朱色の鳥居と、そこから高く上る石段と横に広がる城壁のような石壁、その背景には、楓の巨木に覆われる山の緑が、一幅の絵のように目の前に広がります。

 「談山神社」は、多武峰一帯を神域として、藤原鎌足を祀る古社で、かつて、この地で、中大兄皇子鎌足が、蘇我入鹿を滅ぼして、新しい国造りをしようと、密かに談じたとの伝説から、この名付けとなりました。明治の神仏分離の前は、妙楽寺という神仏習合のお寺だったので、何処となく「お寺」感が漂うのが面白いです。

 紅葉と新緑、桜の時期は多くの人出でにぎわいますが、シーズンオフのこの季節、参拝の方は数少なく、わずかに秋めく境内に、ツクツクホーシが名残惜し気に鳴く中をゆっくりと巡らせていただきました。

 見るべき建物は数多いですが、異彩を放っているのは、鎌足墓所である「十三重塔」です。神社に塔?という意外感があって、まず目に入ってきます。石塔では見かけるものの、これほど立派な木造のものは他にありません。

 鎌足公の霊像を祀る「本殿」は、「拝殿」と東西の回廊(透廊)、楼門に囲まれる配置となっています。

 「本殿」の向かいの「拝殿」は、永正17年(1520年)の造営。中に入ると、床は畳敷き、頭上は格天井の横長の広間が延びています。正面に本殿を拝する中央部は、折り上げ格天井で、伽羅木を使うなど、とりわけ格式の高い造りとなっています。

 ここに座って、彩色鮮やかな本殿を眼前に見つつ、振り返ると、開け放たれた扉から、風にそよぐ楓の緑が見えます。神聖な場所なんですが、しばし、貸し切り状態で、心地よい時間を過ごさせていただきました。シーズンオフならではですね。

 「拝殿」は、山の下り斜面に張り出す「舞台造」となっています。清水寺のような大仕掛けのものではありませんが、拝殿、透廊から見下ろすと、たしかに山の風光を楽しむ舞台のようです。紅葉の時は、どれほど美しいことでしょうか。

天保8年酉年(1837年)

 旧・妙楽寺の講堂であった「神廟拝所」。

 この堂奥には、江戸時代(17世紀)の狩野派の絵師による作とされる「秋冬花鳥図」の複製が飾られています。複製といっても、コピーとは感じさせない質感です。これは、キャノンとNPO京都文化協会の共同による文化財未来継承プロジェクトの一つとして、大英博物館に所蔵されているオリジナルを高精細複写し、金箔や表装など高度な伝統工芸の技を施した複製品を、元あった場所に奉納しようという取り組みです。

 「秋冬花鳥図」があるなら「春夏」もあったはず。ちょうど、この9月に、青森の旧家で見つかった襖絵がこれに違いないという報道があったばかりです。ぜひ、この「春夏」のものも複製して、「秋冬」と並べて、年間通しの完成版としていただきたいですね。

 ちなみに、「秋冬花鳥図」に描かれる白花は、白椿とされていますが、花の形を見ますと、サザンカのような感じもしました。

ユーモラスな犬たち。運慶作とのこと。

 ほかにも、山内には、重要文化財の建物が目白押し。

縁結びの椿ですかね。

 建物で現存するのは、古いものでも室町以降の再建となっています。

 興福寺との抗争、南北朝の動乱応仁の乱などに幾度となく巻き込まれ、焼失の憂き目にあったと伝えられています。

 藤原家の始祖たる鎌足を祀っているのに、藤原家の氏寺である興福寺から何度も焼き討ちされるのもどうしたことかと思いますが、あえて興福寺のライバル、延暦寺の傘下に入り、山城を構え、僧兵を蓄えて興福寺に対抗したため、過激な衝突となってしまったようです。藤原本家としての強烈なプライドがあったのでしょうか。

 秀吉による大和平定後は、武装解除され、大和郡山に移転させられるなどの経緯もありましたが、徳川幕府の庇護も受けて、再興され、明治維新神仏分離令による危機も乗り越えて、「談山神社」と名を改め、今に至ります。

 境内の樹々は楓に圧倒されますが、入口に立つ大杉、石段脇の「夫婦杉」などの杉の巨木も見ものです。

 椿の古木も探したところ、蹴鞠の庭の南に、サザンカらしき2対の木と、椿がいくつかありましたが、残念ながら、年を経たものは見当たりませんでしたね。

 帰りに、土産物屋さんに寄って、栃もちと豆大福を買いました。店の方は、紅葉はもちろん、新緑も素晴らしいので、またお参りくださいと仰っていました。

3 聖林寺の名宝「十一面観音菩薩」と静かに佇む山茶花の木

 帰途、フェノロサ岡倉天心が激押ししたあの高名な「十一面観音菩薩」のある「聖林寺」に立ち寄りました。

 昔ながらの集落の中の、やや小高い場所にたたずむ、そんなに大きくないお寺です。

 秋桜彼岸花の咲く道をたどり、参道を上がると、三輪山とその手前の箸墓古墳を遠望することができます。

 本堂に上がると、巨大な丈六の石の地蔵さん(子安延命地蔵菩薩)に驚きます。

 その横にフェノロサが寄進したという御厨子があり、かつては、この中に観音様が安置されていたようですが、今は、立派な観音堂が令和4年に完成しています。

 本堂から観音堂に向かい、早速、観音様とご対面です。

 高さ2メートル、蓮の台の上に厳かに立たれる国宝中の国宝のお姿を初めて見ることができました。

 760年頃の天平時代に造られた、乾漆造りの仏様。

 観音様なので、優しい女性的なイメージも持っていたのですが、威厳があるというか、じっと内面を見つめられるような緊張感も感じましたね。

 造形の見事さは言うまでもありませんが、両手指先の何とも繊細な動きとその空間感覚には、やはり魅了されました。長く垂れる右手の先の指の曲がり具合、花瓶を提げる左手指の「つまみ具合」は、何かを指が語っているようです。

 乾漆造りの細工の細かさで爪と甘皮までも表現されていますが、単なる写実を超えた美しさを感じました。

 展示室では、四方から、間近に仏さまを見ることができます。指先まで見られることはもちろん、背面のやや猫背気味に盛り上がった背中、わずかに前傾を見せる側面、肩から腰、袖から足へと流れるような衣、蓮の花弁か一枚ずつ丁寧にはめ込まれた台座など、お姿を堪能できます。

 観音様を拝んだ後、庭を一回りすると、鐘楼の横に、椿かと思える木が目に入りました。庭木として仕立てられていますが、幹周1メートル近くありそうで、樹齢はかなり古いんじゃないでしょうか。何より、灰白色の斑の入った木肌が美しかったです。

 お寺にうかがうと、この木はサザンカらしく、冬場にきれいな白い花を咲かせるとのこと。

 観音堂の付近にも椿をいくつか見かけたので、桜の時期に再訪しようかと思っていたのですが、このサザンカもぜひ見てみたいですね。開花時期の関係で、なかなかまとめて見るのは難しいようです。

 

 

 桜井市は、なかなか一日では行くところも限られます。安倍文殊院や、長谷寺、足を延ばして、室生寺と見どころは多く、また、再訪したいと思います。

下関市「東行庵」の千本椿園とサザンカ

 幕末の風雲児として今も人気の高い高杉晋作

 その菩提を弔う「東行庵」は、下関市東部の山間地の吉田にあり、高杉晋作を偲ぶ方が訪れます。

 墓所となった清水山とその裾地には、晋作が好んだとされる梅をはじめ、モミジや椿などが植栽され、季節折々の花を楽しめることができます。

 三代目庵主の玉仙尼が椿を愛好されたこともあり、1,300本もの椿が林立する「千本椿園」は、下関市の椿名所としても有名です。

 昨年、令和5年の11月に機会がありましたので、時間的に駆け足でしたが、庵を訪れてまいりました。

 JR山陽本線で下関から約20分で小月駅に到着。山陽道の宿場として栄えた交通の要衝ですが、新下関駅に新幹線が開業したために、人の流れも変わったようです。

 駅前は、いかにもローカルな雰囲気があり、商店街も時が止まったかのような感じがしました。

 時間が合えば、地域交通である「サンデン交通」のバスに乗ろうと思ったのですが、昼間は本数も限定されており、タクシーで「東行庵」へと向かいました。

 20分ほどで到着、さっそく、椿園へと。

 三代目庵主「玉仙尼」は、ことのほか椿を愛され、お名前からもわかるように、「玉の浦」がお気に入りだったとのことです。

 多方面に活躍され、多くの人から敬われ、慕われた玉仙尼が亡くなられた後、地元の椿愛好家の方々を中心に椿が持ち寄られ、1,300本もの椿がそろう「千本椿園」へと整備されていったようです。

 このため、巨樹・古木はありませんが、山の斜面一帯が椿で覆われており、椿好きにとってはうれしい場所です。

 「椿園」との呼称からは、一つ一つが独立して植えられ、それぞれに立て看板か名札がつけられていそうなイメージがしますが、この椿園は、自然のままの「椿林」という雰囲気があり、園を巡ると山歩きをしているような感覚です。シーズンには多種多様な花が咲いているのでしょうね。

 園の入り口には、山口県で作出された新しい椿の品種の若木がいくつか植えられています。

 なかでも、「玉仙尼」にちなんで名づけられた「玉仙」が代表的なものです。

 

 「玉仙」は、洋種椿の「フレーム」と「玉の浦」との自然交配で生まれた品種だそうです。

 この「玉の浦」は、紅地に鮮烈な白い覆輪の入った藪椿で、長崎の五島列島の一つ、福江島玉之浦町父ヶ岳に自生していたものが、昭和22年炭焼き業者によって偶然に発見されました。後に、新たな品種として世にお目見えしたときには、大変な反響を呼んだと言われています。そのせいで、原木の枝を切ったり、根をとったりする人が後を絶たず、あえなく原木が枯れてしまったという残念なことになってしまいました。

 「玉の浦」は、これまでになかった色合いを持つ母種として、これまで数多くの品種を生み出してきています。私も好きな「玉の浦」系ですが、この大輪の「玉仙」はまだ市販はされていないようです。

 11月の半ばなので、まだ椿には早かったのですが、付設の幼稚園そばでは、桃色の大輪のサザンカが咲き誇っていました。

 「山茶花の路」に咲くサザンカは、そろそろ見頃を迎えていました。

 早咲きの椿ですね。初嵐かな。

 「東行記念館」を見学した後、受付の方から、いろいろお話を聞かせていただきました。

 

 庵の公開期は限られているとのことで、私が残念がっていると、せっかく京都から来てもらったのだからと、ご厚意で庵を見せていただきました。

 簡素な室内で、各間には、伊藤博文や山形有朋、また、故安倍首相の揮毫の額がかけられ、仏間の仏壇には、本尊の「白衣観音菩薩」とともに、晋作の位牌が安置されています。

 この場で、初代庵主の「梅処尼」が、日がな晋作の菩提を弔っていたのだなと感慨も一入でした。

 晋作は、初代庵主となる、下関の芸者であった「此の糸」こと「おうの」を身請けし、肺結核で夭折するまでの4年余りの短い時間でしたが、ともに暮らし、晋作が追われる身の時も、彼女を一緒に連れていたとされます。

 おうのは、生まれも育ちも定かでなく、花街の世界しか知りませんでしたが、素直で、大変おっとりとした女性だったといいます。

 「面白き こともなき世を 面白く」

 時代の先頭に立ってを切り裂いて激しく生きた晋作にとっては、「おうの」さんは、癒やし、和ませる存在としてかけがえのないものだったのでしょうね。

 晋作の死後、山縣有朋は、所有の別宅「無鄰菴」をおうのに提供し、晋作の墓を守らせていましたが、旧藩主毛利元昭、伊藤博文井上馨岩崎弥太郎ら、長州の錚々たるメンバーが資金を出し、敷地を拡張して建てた家屋が、「東行庵」として今に続いています。

 ちなみに、これが本家?「無鄰菴」で、京都の木屋町二条と、南禅寺界隈にある山縣有朋の別邸も「無鄰菴」と名付けられていました。この琵琶湖疎水べりにある「無鄰菴」は京都市所有の施設で公開されており、すばらしい庭園を楽しめます。

 おうのは、得度を受け、初代庵主「梅処尼」として、晋作を弔いつつ、空いた時間には、村の娘に踊りや琴、三味線を教えたそうです。

 後年、高杉晋作の顕彰碑が運ばれてくるのを毎日心待ちにして、「旦那のが来ない、旦那のが来ない」と亡くなるまで待ち続けたという逸話が残っています。

 若い身空で、山間の村でひっそりと暮らすおうのさんの、何ともいじらしく、哀しさも伝わる話です。

 一説によると、晋作に関わる女性として、身を持ち崩すようなことがあると世間への聞こえが悪いからと、山縣有朋らが、このように手配したとも言われていますが、坂本龍馬の妻おりょうが、不遇の晩年を過ごしたことと比べると、おうのさんは、生活に不安を覚えずに穏やかな暮らしができたものと思いたいですね。





























 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

太宰府・観世音寺と戒壇院の椿

 多くの参詣客でにぎわう太宰府天満宮。その西およそ2キロ、天満宮の雑踏から離れて、太宰府政庁跡のそばに、かつて西海道一円の寺を統括していたという「観世音寺」があります。

 このお寺は、九州屈指の仏像の宝庫としても有名です。また、観世音寺に併設された「戒壇院」は、東大寺、下野薬師寺と並ぶ、天下三戒壇院の一つに数えられました。1300年近くの歴史を誇る「観世音寺」ですが、風災や戦火、寺勢の衰退により、堂宇は滅失、荒廃し、創建の姿をとどめるものはありませんが、静かな境内で、今も法灯を伝えています。

 

1 観世音寺の盛衰

 「観世音寺」の歴史は古く、7世紀の後半、天智天皇が、母帝・斉明天皇の菩提を弔うために発願されたと伝わります。天平18年(746年)に落慶し、天平宝字5年(761年)には戒壇院が設けられ、国分寺の上に立つ大寺として、東大寺にも並ぶ地位を確立します。

 「観世音寺」は、太宰府政庁が、地方最大の行政機関として、政治、外交、軍事に重要な機能を果たすのと同時に、西海道の仏教界において支配的な役割を担っていたのでしょう。

 政治の実権が、天皇・貴族から武士へと移り、寺領の支配が困難になるにつれて、次第に、寺は衰退をたどりますが、決定的な事件が天正15年(1587年)に起こります。

 当時、島津攻めを行っていた秀吉が、寺近くで陣を張っていたところ、挨拶に訪れた別当が世知に疎く、輿に乗ったままで秀吉に相まみえるというしくじりをやらかして、激怒した秀吉から寺領を召し上げられてしまいます。

 当然、寺は窮乏し、僧侶は離散という危機に陥ってしまったわけですが、秀吉を前にしての実にスリリングなエピソードですね。場に、恐ろしいほどの緊張が走ったものと推察します。この別当は、矜持高く、秀吉何者ぞとの気概のあった方だったのか、単なる世間知らずで目先の利かない方だったのか、寺運を傾けた当主として歴史に残るのも気の毒ではあります。

 参道は、九州の寺らしく、樟の大木が目につきます。

 現存する講堂、金堂は、1600年代に、黒田藩の助力により建造されたもので、かつての大伽藍の面影はありませんが、質朴な雰囲気は趣があります。

 仏像は、もとは、この両堂に安置されていましたが、今は、東側に新設された宝蔵に保管されています。

2 観世音寺の仏像

 さて、宝蔵に並ぶ仏像は、噂に違わず素晴らしく、本当に見甲斐のあるものでした。

 2階展示室に上がると、まずは、5メートルに及ぶ「不空羂索観音立像」*1、「馬頭観音立像」*2、「十一面観音立像」が立ち並ぶさまに圧倒されました。

 ずらりとそろう仏像16体は重要文化財指定されており、大黒天*3や吉祥天*4など、ここにしかない特異な形のものもあって、なかなかバラエティに富んでもいます。

 最も有名なのは、足を地天女に支えられ、2匹の鬼を従える「兜跋毘沙門天像」*5

 少しお腹をせり出すような動的かつ優美な造形で、厳しい顔つきながら、口元に笑みもほの見え、やや小顔のスタイルの良い像で、人気が高いのもわかります。10世紀ころの作で、寺最古のものと言われていますが、この像の来歴については何も伝わっていないのが、またミステリアスです。

 個人的には、阿弥陀如来を囲む、重厚な佇まいの四天王像、特に持国天が気に入り、間近でじっくりと見せていただきました。

3 観世音寺の梵鐘

 「観世音寺」の梵鐘は、妙心寺の鐘と同じ鋳型から造られたとされ、ともに国宝となっています。妙心寺の鐘は、戊戌年(698年)の銘が入り、作製の年代が明確にわかる最古のものとして知られていますが、観世音寺の鐘は、デザイン的にわずかにそれより古いものと考えられています。

 寄託先の九州国立博物館に展示されているのを見てきましたが、均整のとれた美しい姿で、竜頭が凝った造りに目をひかれました。

 この観世音寺の鐘は、太宰府の地で幽閉されていた菅原道真にも聞こえていたといいます。
 道真公の漢詩「不出門」の一節に、「都府楼纔看瓦色 観音寺只聴鐘声」とあります。さすが名鐘、誰しもが知る悲劇の人にも詠われ、歴史のオーラを一層帯びています。

 講堂前には、直径1メートル近くある巨大な石臼が、無造作に置かれ、「碾磑」(てんがい)との難読の立札が立っています。

 これまでの調査により、寺社の塗料として欠かせない「朱」を採取するため、この臼で原鉱石を粉状にすりつぶしていたのではないかと言われています。もしかすると、創建当時にまでさかのぼる唯一の現物なのかもしれません。

4 戒壇院の椿

 観世音寺の南西に設けられた戒壇院は、今は観世音寺から独立して存続しています。

 天下三戒壇の一つではあるものの、私が訪れた時には、参拝の人もなく、境内はひっそりとしていました。仏教史に残る由緒を、静かにそっと伝えているような雰囲気のお寺でしたね。

 本堂の右手には、太宰府市の天然記念物に指定される樹齢200年以上の菩提樹が立ち、その周辺には、何本か椿も見受けられました。早や、つぼみもつけていましたが、どんな椿なのでしょうか。

 戒壇院のホームページを見ると、鐘楼わきの椿は、白侘助のようですね。

 山門入ってすぐ左手には、かなり大きなサザンカがあるようです。見落としてしまいましたが、毎年、たくさんの花をつけ、庭を紅く染めているようです。白侘助の開花は早いので、サザンカとの紅白を楽しめることと思います。

 

 

 

 

唐津城の藪椿と玄海エネルギーパークの「太閤椿」

 佐賀県唐津市の西部、玄界灘にせり出す東松浦半島は、山が迫る、入り組んだ海岸線が続き、彼方には壱岐対馬、さらには大陸を臨む大海原が横たわる雄大な光景が広がります。海上には多くの島々が浮かび、絶海の迫力というよりも、内海のような安心感も併せ持つ風光明媚な地域です。

 令和6年8月24日、猛暑の中でしたが、「虹の松原」を通り、唐津城から半島をぐるりと車で巡り、呼子名護屋城跡、そして、玄海エネルギーパーク内にある古木「太閤椿」を見てまいりました。

1 唐津城と藪椿

 博多から、西九州自動車道にのって約1時間、唐津湾の沿岸沿いに広がる、日本三大松原の一つ「虹の松原」に到着です。

 県道「虹の松原」線の両サイドに、およそ5キロにもわたって延々と松林が続いています。100万本という松の単相林の中を進むと、車窓にはずっと同じような光景が流れ、どこを走っているのかわからなくなるような不思議な感覚になります。

 「虹の松原」の景観を楽しむには、松林の南にある鏡山に登って見下ろすのが一番のようですが、今回は、唐津城から遠望することにしました。

 唐津城は、唐津藩主の居城として、慶長年間に、廃城となっていた名護屋城の解体資材を利用して築かれました。城を中心に両翼に弧を描くように松原が広がるさまから、舞鶴城との名を持っています。

 藩主となる大名は度々変わりましたが、天保の改革で有名な水野忠邦もその名を連ねています。

 のちに明治維新による廃藩置県によって廃城となりましたが、跡地は公園として整備され、昭和41年には唐津のシンボルとして天守が建設されました。

 お城を見上げながら、酷暑の中をあそこまで登っていくのはつらいなあと、ふと見るとエレベーターの案内が。100円也で、リフトのように本丸まで上がることができてほっとしました。

 この天守から見渡す玄界灘は、まさに絶景です。西方には、松浦川を越えて、虹の松原と東唐津のまちが臨めます。かつての城主もこのような光景を見たのかと思いきや、実際は天守閣のような高層のものは建てられなかったようですね。

 温暖な玄界灘沿岸は、椿が数多く自生しており、今回は行く時間がありませんでしたが、椿の島として有名な加唐島など、かつては、群落が至る所に見受けられたようです。

 唐津城の建つ満島山は、自然林の名残を残し、大木ではありませんが、藪椿が群生していました。春には、城を訪れる人を楽しませてくれるのでしょう。

2 呼子イカ那古屋城

 唐津を出て、次は、イカで有名な呼子で昼食をとりました。刺身が苦手な私は、天婦羅をいただきましたが、「げそ」でさえも、食感の良さ、広がる旨味と甘みに、さすがに本場だなと。やっぱり、鮮度抜群のイカ刺しを食べたらよかったかな。

 「名護屋城跡」は、呼子からほど近くにあり、隣接して、県立の立派な博物館が建てられています。

 半島の北側、玄界灘に面したこのエリアには、文禄・慶長の役の総司令部である名護屋城と、その周辺に、召集された各大名の陣屋がずらりと築かれました。

  県道沿いにも、有名な武将たちの陣屋跡がぞろぞろ現れ、本当に「密集」していたことを実感しました。

 往時は、10万人を超える大城下町が出現し、各陣屋には、茶室や能舞台も作られ、秀吉が訪れることもあったといいます。天下人・秀吉の力をうかがい知れますが、わずか7年あまりで、町は幻のごとく消え去りました。残るは、石塁や礎石の跡のみ。壮大な浪費を今に伝えるというのは言い過ぎかもしれませんが。

3 玄海エネルギーパークの「太閤椿」

 続いては、玄海原子力発電所のある玄海エネルギーパーク。

 ここには、秀吉が名護屋城を築いたころから咲き続けているといわれる、樹齢450年を超える「太閤椿」という藪椿があります。

 パークの北端にある温室前の一角に、ひときわ大きな椿を中心に、4本の古木がまとまって植えられています。これらの椿は、もともと200mほど離れたところに自生していたものですが、原発の建設用地に重なってしまったため、昭和59年に移植されたそうです。 

 「太閤椿」は幹周り2.4メートルを超えるという巨木ですが、上背はそんなになく、ずんぐりとしています。何より、地面近くで分岐する大枝が重なり合う瘤状の幹には圧倒的な存在感があり、その「異形」めいた姿には、神秘的なパワーさえ感じます。

 この地では、海からの潮風を防ぐため、下枝も密に茂る性質のある椿が植林されていたらしいのですが、「太閤椿」の姿には、厳しい自然の中で長い年月を生き抜いてきた風格を備えています。

 それにしても、こんな巨大な椿をよく植え替えることができたなと思いますね。幹割れの補修はされているものの、樹勢は衰えておらず、この暑さですが、元気に、青々とした葉を茂らせていました。

 玄海に伝わる椿には、この太閤椿のほか、玄海淡雪椿と元寇椿が知られていました。このうち、原木が残っているのは、この「太閤椿」のみ。藪椿の変異種で、白い抱え咲きの名品、玄海淡雪は、原木から枝が引き継がれてかろうじて命脈を保っています。

 元寇椿は、その名の通り、大変な古木だったようですが、名のみが残る幻の椿となってしまいました。

 このように貴重な「太閤椿」ですが、さほど目立つこともなく、仲間たちとともに静かに余生を送っています。温室の管理事務所の方に、「太閤椿」に関する資料がないか尋ねましたが、残念ながら特にはないとのこと。

 願わくば、原生時の様子や、移植時の苦労などを記録としてまとめておいてほしいですね。

 パーク南の小高い敷地には、2代目発電所長の白石晶一氏の基金を元に造られた「白石記念椿園」があり、約100種800本の椿が植えられています。小山を回遊する椿道は、シーズンには色・形とりどりの花でにぎわいそうです。

4 玄界灘の風景

浜野浦の棚田

志賀島・金印公園

志賀島・二見岩

呼子大橋

 

 

 

 

 

 

奈良「元興寺」の椿

 今回は、世界文化遺産「古都奈良とその文化財」の一つに数えられる「元興寺」の椿をご紹介します。

 興福寺、猿沢の池の南にある「元興寺」界隈は、縦横に走る狭い通りに家々が軒を連ねる中に、風情ある町家や史跡が点在し、街並みに馴染んだ店舗巡りも楽しめる「ならまち」として、古き下町的たたずまいが人気のエリアとなっています。

 というよりも、「ならまち」は、もともと、広大な伽藍を誇った「元興寺」の境内地に形成されたものであり、寺が3箇所に分離して、部分的に存続しているというものですね。

 かつての伽藍の全容をしのばせる「元興寺古図」では、境内の南端に東西に分かれて「椿園」が描かれ、椿油を採取していたことが付記されており、ならまち南西部の一角に、今も「花園町」の名を伝えています。

 

1 「元興寺」の歴史

 応永年間に東大寺西南院から移設された「東門」。極楽房が寺の中心となり、ここに正門を設けたものと言われます。

 さて、「元興寺」の歴史は、我が国への仏教伝来にさかのぼります。蘇我馬子の発願による「飛鳥寺」が、平城京遷都とともに現地へと移転、官寺となって「元興寺」へと名を改め、南都七大寺の中でも有力な寺院として確たる位置を占めます。

 とりわけ、教学に力を入れ、浄土教の先駆的研究を行った「智光」をはじめ、名僧を輩出しました。東西に、僧房が並び立ち、多くの僧が、学問、修行に勤しんでいたようです。

 時は流れ、平安時代院政期に入ると、次第に朝廷の力が衰え、荘園や寺領からの収入もままならず、寺勢は衰えますが、ここで「元興寺」は大きな転機を迎えます。

 浄土宗の広がりとともに、民衆の極楽浄土へのあこがれが強くなる中、「智光」が夢で見た浄土を描かせた「智光曼荼羅」を祀った僧房が「極楽坊」として、信仰を集めることになります。

 浄土信仰だけでなく、地蔵信仰や弘法さんや聖徳太子への信仰などが交じり合う、いかにも民衆信仰らしい包摂的信仰の一大拠点として、「官寺」から、民衆に支えられる寺へと変わっていきました。

 鎌倉時代(寛元2年(1244年))の大工事では、僧房から切り離された仏堂が、現在のような阿弥陀堂に改造され、多くの信者の来訪に応えられる造りとなります。

「極楽堂」と「禅室」の区切りです。

  

 このように、「極楽坊」は、「元興寺」の中心になるとともに、この地を極楽とみなして、極楽往生を願う人々が多くの石塔や石仏を建てるようになったようです。

 長らく南都の浄土信仰の中心地として栄えた「元興寺」ですが、信長、秀吉、家康という新たな支配体制の下で、次第に民衆寺院の色合いが消えてゆき、それと合わせるように、境内地に住家が立ち並ぶようになり、これが今のならまちへとつながっています。

 なかなかにドラマティックでストーリー性のある歴史の歩みではありますが、さらに、明治の廃仏毀釈からの復興も特筆すべきものです。

 無住寺となるまで荒廃していた寺の復興に情熱を燃やしたのが,辻村泰圓師です。国をはじめ、各方面に精力的に働きかけた結果、昭和45年ころに整備を終えるとともに、その過程で出土したおびただしい資料の保存・調査のため、元興寺文化財研究所を設置するなど、八面六臂に活躍されました。

2 「元興寺」の椿たち

 この昭和の大整備に関連して、かつての椿園にちなんで、境内に椿を植樹しようと動かれたのが渡邊武博士。寄付集めから始まり、品種選定も任され、専門園芸業者や椿愛好家の協力を得ながら、相当な尽力をされたようです。

 椿は、昭和の整備に合わせて、石塔や石仏を並べた「浮図田」の奥側にある小園とその一帯に植えられています。

 バラエティに富んだ品種を楽しめるかもと期待していたのですが、紅い素朴な花を付けたものが多かったですね。白花もありましたが、紅花をベースに統一的にまとまっているため、落ち着いた風景を生み出しており、好ましく感じました。巨樹はありませんので、整備に当たっては、大樹を移植することはなかったのでしょう。

 50年程度では、まだ貫禄ある樹には至りませんが、古い石塔や石仏のある小径を彩る椿林となって、訪れる人を静かに優しく迎えてくれます。

 お地蔵さんや手水舎など、そこかしこに椿の花が供えられていました。古の椿園ありしころの、人と椿との関わりが、今に伝わっているように感じました。 

 「東門」外では、塀沿いに並ぶ曙や鮮やかな紅の椿が満開で、参拝客を迎えてくれていました。

3 名宝「元興寺

 「元興寺」は、3つの国宝、「極楽堂(本堂)」と「禅室」と「五重小塔」を有しています。復興の祖ともいうべき辻村泰圓師は、助成の動きの遅い国に発破をかけようとしてか、「五重小塔を売却して整備資金に充てる」との啖呵を切ったという逸話があるようです。

 似たような話で、11世紀初頭、官寺の没落が急だったころ、窮乏した「元興寺」は、その名を冠した琵琶の名宝を手放し、当時東宮であった後朱雀天皇が買い取られたという記事が「古今著聞集」に載っています。ちなみに、この名宝「元興寺」は、修理に出した先の職人が勝手に一部を切り取り、数珠の材としてしまったそうで、何とも嘆かわしい、トホホな話が後日談として伝わっています。

 傷つけられ行方知れずとなった名宝「元興寺」とは異なり、五重小塔は法輪館に安置され、美しい姿を見ることができます。

 長い歴史の中で何度も訪れた火災や財政危機を切り抜けて、貴重な名品が残されているのは、ありがたい限りですね。

色合いの異なる瓦には、飛鳥寺の建造に携わった、百済からの「瓦博士」が作成したであろうものが残っているそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
















 

八幡市「常昌院」の日光椿

 京都府八幡市石清水八幡宮が鎮座する男山。その北の麓にあるのが今回紹介する「常昌院」です。

 石清水八幡宮の創設とあわせて建造された神宮寺である神應寺の子院として、元禄時代に創建されたと伝わる曹洞宗の寺院です。

 「常昌院」には、樹齢400年という「日光椿」の古木があります。

 八幡市の市花は椿ですが、まさに八幡の椿を代表する木として知られています。

 

 「常昌院」へは、京阪・石清水八幡宮駅から、参道ケーブルの下をくぐって、京阪本線の線路の南に沿って西の方向へと、男山の麓沿いの狭い道を進みます。500mばかり歩くと、右手、踏切の手前に山門が見えてきます。

 

 ちなみに、この道は、車では無理なのでご注意を。

 私は、線路の北側、三川合流地帯の堤防との間を集落内の道路をつたって、踏切を渡って到着しましたが、これも狭隘な道となり、万が一、対向車が出てきた日には立ち往生となってしまうでしょう。カーナビは、堤防を走る「京都守口線」からのルートを指示するかもしれませんが、集落に下りる道は、ほとんど180度ターンのえげつないカーブなため、切り返しが何回も必要で、これまた大変な目に合いますので、このルートは避けてください。車で行かれる際は、集落内にコインパークがありますので、そこに停めるのがいいと思います。

 この「常昌院」踏切は、京阪電車の「撮り鉄」ファンのスポットの一つのようですね。男山と川とに挟まれる「ベルト地帯」を京阪電車がやや蛇行しながら走り抜けるのを、ごく近くで撮ることができます。

 

 ということで、四苦八苦して、ようやくのお参りです。

 山門をくぐると、すぐ左手に、件の「日光椿」が見えてきます。植え込みの中に、ひときわ大きく立っているのですぐにわかります。

 太い幹が立ち上がり、3メートルほどの高さから傘のように枝が分岐しています。特段の表示もなく、囲いもありませんので、木の肌に手を触れることができました。

 400年の歴史の肌触りというものでしょうか。年数の割には、魁偉な木肌ではなく、滑らかで、斑もあまり入らず、武骨な感じはありません。周囲を測ってみると、1メートル40センチくらいあり、やはり立派な大木です。

 本当は、花の盛りに訪れたかったのですが、何とか見に行くことができたのが4月。

 もうシーズンは終わりで、枝の先の方に、いくらか花が残っていましたが、何とか、唐子の咲き姿を見ることはできました。お寺の倉庫の上方と、隣家の2階へと枝を伸ばしているので、隣の方のベランダからの眺めが一番見応えがあるでしょう。

 無数の花が紅く彩る巨木として、地元で親しまれてきた椿ですが、樹齢を重ねて、枝が分岐するところが腐朽し、樹勢が弱ってきていると言われています。見上げても、その状況は分かりませんでしたが、3月には、往年のように、見事な花付きだったのでしょうか。

 京都の「日光椿」の巨木は、後水尾天皇お手植えの木が伝わる「華開院」、これも後水尾天皇遺愛の木で、京都市天然記念物に指定されている「霊鑑寺」、衝立のような刈込が見事な「曇華院」、そして、この「常昌院」が有名です。

 このうち、華開院と曇華院は非公開、霊鑑寺の椿は、残念ながら主木は枯れてしまっているので、常昌院の椿は、身近に見ることができる、京の「日光椿」の巨木として、貴重なものです。

 「常昌院」は、八幡市の賑わいからは離れたところに、ひっそりとたたずむ寺院なので、ゆっくりと椿を堪能することができます。「日光椿」以外にも、いくつか椿が咲いています。

 

紫野・雲林院の椿

 NHK大河ドラマ「光る君へ」の放映もあって、廬山寺をはじめとして、源氏物語紫式部ゆかりの地に多くの人が訪れているようです。その紫式部が生まれたとされる「紫野」は、京都市北区大徳寺船岡山から西へ堀川通に至る地域です。

 この界隈は、平安京の、いわゆる「洛外」に位置し、当時は人家もなく、野原の広がる地であったようですが、御所から近く、貴族による遊猟、行幸が盛んに行われたといいます。

 そんな紫野に淳和天皇が設けた離宮「紫野院」は、のちに「雲林院」と名が改められ、元慶八年(884)には僧正遍照の奏請によって官寺となり、天台宗の寺院として隆盛を誇り、最盛期の寺域は、紫野一帯に及ぶ広大なものであったと言われています。

 10世紀の後半からは、極楽往生を求めて法華経を講説する「菩提講」が「老少男女称南無声遍満如雷(小右記)」と記されるほど賑わい、「大鏡」のプロローグで、語り部の二老人が登場する舞台となっているのはよく知られています。

 かつて貴族が風雅を楽しみ、仏寺としても賑わいを見せるなど、歴史上に長く存在感を示した雲林院は、源氏物語枕草子和泉式部日記、古今和歌集等々、名だたる多くの物語などに登場します。

 しかしながら、その後は衰退をたどり、鎌倉中期の公卿・広橋経光は、日記「民経記」に、貞永元年(1232)の旧暦の5月末の記事で、「紫野雲林院辺荒巷草深、本院之遺跡無人跡、無何所断腸也」と、往年の繁栄の見る影もなく荒れ果てた姿を嘆いています。そして、後醍醐天皇によって、敷地が大徳寺に移譲され、さらには応仁の乱で焼失してしまいます。ようやく、江戸時代、宝永4年(1707)に大徳寺の門外塔頭の一つとして再建され、今に至ります。

 

 雲林院は、大徳寺の東を走る大徳寺通りを、北大路通との交差点から南に下がってすぐ東側に位置しています。大徳寺に向かう人の流れは多いのですが、逆方向に進む人はあまりいません。

 この辺から鞍馬口通りにかけては、狭い路地が入り組む昔ながらの町割りが連担し、町家やお地蔵さんがそこかしこに姿を見せ、レトロ感ある京都らしい町並みと生活感が残っています。

 

 さて、雲林院ですが、かつての大寺院の面影はなく、紫野の町並みに溶け込むように静かに佇んでおり、駒札がないと、うっかりすると見過ごしてしまいそうです。

 境内には、本尊・十一面観音を祀る観音堂が残されています。

 このお堂の周辺に、大木ではありませんが、多くの椿が植えられています。

 2月に入ると、まず、有楽椿が咲き始め、大徳寺通りからも塀越しに見ることができます。3月になって満開になると、落ち椿も美しく、上下に薄桃色に染める風情ある光景となります。

 山門脇には、参拝客を迎えるように立つ椿があり、これが一番印象に残るものでした。

 3月後半に訪れた時には、厚みのある真紅の花弁の花を咲かせていました。小ぶりな山門に寄り添う咲き姿は、実に絵になります。

 ほかにも、白椿、胡蝶侘助などが目を楽しませてくれます。

   ところで、今昔物語には、雲林院は、巻15第22話と巻17第44話に登場します。

 前話は、「菩提講」を創始した聖人のエピソードで、七度も盗みで捕らえられた悪人が足を切られようとしたときに、人相見が、「この人は極楽往生する人ぞ」と身を挺してかばい、そのおかげで許された悪人が一念発起して、ついにはこの聖人となったというお話です。「小右記」では、菩提講の開祖は、源信僧都とされていますが、民衆レベルで仏教が広がった時代の雰囲気を表す今昔物語の方が、いかにも説話らしいとはいえ、親近感を感じます。

 後話では、雲林院に住む僧が、鞍馬参りからの帰途の月夜に、出雲路を抜けて一条の北の通りに差し掛かったところで、白い衣をしどけなくまとった見目麗しき童に会い、請われるままに、僧房へと連れ帰ります。僧は童にすっかり身も心も奪われますが、その童が懐妊し、子を産むということになってしまいます。ところが童は忽然と姿を消し、残された子と見えたのは黄金の石で、僧は悲しみに暮れつつも、以降不自由なく暮らしていけたのも、鞍馬の毘沙門天のおかげと感謝したというお話です。

 今昔物語は、小説ネタの宝庫ですが、この話も、なかなかいい題材になりそうです。

 オチを毘沙門様の霊験にもっていくのはともかくも、夢枕獏の「陰陽師」に出てきそうな、妖しく官能的で、また可笑しみもある伝奇的な味わいに惹かれますね。

 この童は、椿になぞらえると、どんな品種でしょう。白く、上品だけれども、やや妖艶さも漂わせる「羽衣」や「白牡丹」などのイメージでしょうか。

 

 堀川北大路を南に少し下がった西側に、紫式部のお墓があります。

 広大な雲林院の境内の東側に位置した塔頭「白毫院」の南にあったと伝えられ、実際にこの場所だったのかもしれません。

 何で小野篁のお墓と並んでいるのか?

 好色な物語を描いたために「地獄」に落ちた紫式部を、小野篁閻魔大王にとりなして救い出したとの伝説にちなむものとも言われているらしいですが、千年後も残る世紀の作品が人を惑わすとして地獄に落とされたというのは、閻魔様の裁定もいかがなものかと思いますね。