祇王寺に薄墨椿を訪ねる

1 厳寒の祇王寺を訪れる

 祇王寺は、平安時代に、法然上人の弟子である念仏房良鎮が開創した往生院に由来します。往生院は、山域一帯を占めていましたが、後年、荒廃し、わずかに一部が尼寺として残り、祇王寺と呼ばれるようになったと伝えられています。

 祇王寺は明治初年に廃寺となりましたが、これを惜しんだ大覚寺門跡と京都府知事・北垣国道らにより、明治28年に再興され、昭和10年からは、明治・大正にかけて芸妓として一世を風靡した照葉こと智照尼が庵主として、寺の維持、発展に尽力されました。

 ここには、薄墨椿と呼ばれる、やや黒みを帯びた花色の藪椿があるということで、出かけてみることにしました。

 清凉寺・嵯峨釈迦堂前の道を西に進み、二尊院を過ぎ、左に折れて、そのまま、山の方へと入っていくと、突き当りが、祇王寺の入口となります。

 苔むした門をくぐります。

2 一面の苔に覆われる境内

 中に入ると、一面の苔、苔、苔・・・。

 この日は零下に下がる寒い日で、苔にも霜が降り、朝の光に、きらきらと反射していました。

 今更ながら、苔は、常緑なんだなと。

 まだ、咲いていませんでしたが、椿は、園内にいくつか植えられています。

 草庵の傍の大きな椿は、数輪の花が咲いていました。

 もうしばらくすると、開花と落ち椿が、草庵の「吉野窓」から見ることができるのでしょう。

 この草庵は、北垣国道が、別荘を寄付したもので、中の仏間には、祇王、祇女、刀自、仏御前ら5人の木像が安置されています。

3 「薄墨椿」

 お目当ての「薄墨椿」は、受付入り口のそば、山手側にありました。

 残念ながら、開花しておらず、受付の方にお聞きすると、まだ先のようでした。老木ではないですが、あまり樹勢が強い品種ではないのかもしれませんね。

 滝口寺に向かう参道からの方が、近くで見ることができます。

 流石に、1月なので、椿のシーズンには少し早かったかなという感じでした。

 椿は、梅が咲いてからかな。

 静かなる草庵のイメージと合う造作です。

 祇王寺からの帰途、沿道脇に、美しい、咲き分けの椿がひっそりと咲いていました。

4 祇王と智照尼

 平清盛に見初められた、白拍子祇王が僥倖もつかの間、同じ白拍子の仏御前に心移りした清盛から追い出された挙句、仏御前を前に芸を披露させられるという屈辱の目に遭い、世を儚み、この世を去ろうとした・・・。

 祇王の悲運と、明日は我が身と、祇王とともに出家の道を選んだ仏御前を語る物語は、平家物語の中でもポピュラーな段として知られています。

 このブログを書くために、いろいろとネットで調べてみて、初めて、智照尼さんのことを知りました。

 当代人気随一の芸妓であった「照葉」さんの、数奇な生涯と、哀しい境遇、そして、仏の道に入ることによる救いと、まさに、祇王の物語と重なるような姿に感銘を覚えました。

 照葉が兄さんと慕った、長島隆二氏(大蔵官僚、衆議院議員桂太郎の娘婿)の『政界秘話』(1928年)という手記に、「萬龍と照葉」の章で、照葉の芸妓に至る境遇や、照葉が何よりも大切にしていた実弟の死、その後の消息の不明と再会など、様々な場面での彼女との思い出が記載されていますが、出会いからずっと、悲運に見舞われる照葉を見守る、氏と照葉との心の通い合いが、しみじみと語られ、心を打ちます。

ウィキペディア 「高岡智照」の項目 脚注26で読むことができます。

 もちろん、美化されているところはあるでしょうが、当時のエリートには、自他ともに認める自負があり、また、これだけの文章をものする文才も備えていた人も少なからずいたのでしょうね。

 氏は、智照尼による祇王寺の再興にも協力されたということで、氏としても嬉しかったであろうことと思います。

詩仙堂に丈山椿を見る

1 1月の詩仙堂を訪れる

  1月15日、寒波のはざまの、少し寒さが緩んだ日に、詩仙堂を訪れました。

 詩仙堂といえば、紅葉と皐月の頃が、庭園が見目鮮やかに彩られるハイシーズンですが、初冬から春にかけては、静けさを取り戻した園内に、椿が順々に咲きそろいます。

 この地に居を構えた石川丈山の名を冠する「丈山椿」や白玉椿の巨樹をはじめ、庭園の各所に、椿、サザンカが植えられており、椿好きにとっては見逃せないところです。

 詩仙堂へは、白川通から、曼殊院道に入り、宮本武蔵と吉岡一門の「決闘之地」の石碑を横目に見ながら、東へと、狭い道を山手に上っていくと、簡素で、風雅な山門「小有洞」が見えてきます。

2 参道のサザンカと椿

 山門右脇には、大きなサザンカが白い花を咲かせています。

 詩仙堂には、かつて、庭園に、樹齢400年とも言われた、全国的にも有名な、白花の大サザンカがあったのですが、寄る年波と、台風や地震の影響もあり、平成7年に惜しくも倒れてしまいました。

 門前のサザンカは、この古木には及ばないものの、幹周90センチ、樹冠が山門の頭上を覆う大樹で、詩仙堂の入口を示すシンボルツリーとして、拝観者用パンフレットの表紙を飾っています。

 山門から石段を上がり、参道の左手、竹林の中にも、何本かの椿がありました。

 そのうちの一本は、幹周1メートルを越えそうな大樹でしたが、椿にしては、分枝せず、一直線に空高く伸びているのが印象的でした。おそらく藪椿だと思いますが、開花すれば、紅い落ち椿と青竹とが、鮮烈なコントラストになるでしょうね。

 竹垣との相性も抜群ではないでしょうか。

 中門「老梅関」には、椿垣が連なっています。一輪だけ控え目に咲いていました。

 私は、ものが、よく人の顔に見えるのですが、黒目勝ちの窓がやけにリアルに迫ってきませんか。

3 建物入口に立つ獅子頭

 建物に入る前庭には大きな椿が一本あるだけ。まさに、メインツリーです。

 枝のうねり具合が見事だし、根が白砂に浮き上がるのも味わいがあります。

 建物と一体感のある配置ですね。

 受付の方にうかがうと、「獅子頭」とのこと。

 寒椿の「獅子頭」か、はたまた、別の種なのか、これは、後日に確認したいと思います。

4 建物から庭園を見て、白玉椿の巨樹に感動

 詩仙堂の中心となる「詩仙の間」。

 四面に、狩野探幽による中国の名だたる詩人の画が9名ずつ、延べ36人描かれています。この選定に当たっては、丈山と林羅山が議論を重ねたとされており、王安石について、丈山は、羅山の推しにもかかわらず、外したということです。

 王安石は、文才はもちろんのことですが、北宋の宰相として、神宗のもとで政治・財政改革を断行しましたが、道半ばで、反対派に排除されたと、世界史で習いましたが、丈山には、何かはまらないところがあったのでしょうか。

 ご本尊の「馬郎婦観音」です。

 「詩仙の間」の西側、嘯月楼の階下の座敷から見た、唐様庭園です。

 先述の大サザンカは、この縁側のすぐ近くにあって、大きく張り出した横枝越しに、庭園を見るという位置関係だったようです。

 寛永18年(1641年)に詩仙堂が落成し、石川丈山が移り住んだ時に植えたものと伝えられていたため、350年以上の樹齢を重ねていたことになります。

 右端に見えるのが、大層立派な「白玉椿」です。

 花の盛りはすでに過ぎているとのことでしたが、まだ、咲き残りがちらほらと。

 まるで、八岐大蛇のような、見事な枝ぶりです。

 文書に記録されていないため、樹齢が不明ということでしたが、200年は越えているのではないでしょうか。

 「読書の間」からの眺めです。

 詩仙堂は、庭に下りて、散策を楽しむことができます。

 可愛らしい五重塔は、作庭当時からあったものだそうです。

5 「丈山椿」が咲いています

 庭園を下っていくと、お目当ての「丈山椿」が咲いていました。

 花弁に優しい紅の縦絞りの入る美しい椿です。思っていたよりも大輪で、華やかな雰囲気でした。

 「この寒咲きの椿と侘助、白玉は、数多い京の椿寺の椿とくらべても屈指のもので、詩仙堂の三銘椿といえる。寒椿には、矮性の灌木で紅色八重冬咲きの同名種があるので、ここの寒咲きの名木はここ独特で他に見られないから、住職石川琢堂師に御相談して、丈山椿と名付けていただいた。」(渡辺武著「京椿」より)

 ちなみに、この本で触れられている侘助とは、胡蝶侘助のことですが、まだ開花していないようでした。

 葛城絞や松波と似ていますね。

 ほかにも、上品な椿が多かったですね。

 庭園の南側の段下から仰ぎ見た「白玉椿」です。

 空を覆わんばかりの威容です。

6 異世界的魅力のある庭

 詩仙堂の正式な名前である「凹凸窠」(おうとつか)が示すように、高低差のある自然地形を活かしながらの作庭は、流石に、名庭と言われるにふさわしい魅力があります。

 どこを撮っても、絵になりますが、少し異世界的な味わいもあるものを、いくつか、ご紹介します。

 石川丈山は、身の丈六尺六寸という「巨漢」で、江戸初期の武人、漢詩人、作庭家で、59歳の時に詩仙堂を造営し、様々な文化人と交流しながら、竹林の七賢のような生活を送り、90歳で大往生したという人物です。詩仙堂とともに、渉成園や一休寺の作庭も手掛けています。

 

 今回は、幽玄な風景の中で、静謐な時間を満喫することができました。

 できれば、「嘯月楼」に上っての庭の景色も一度見てみたいですね。

 渡辺武先生の「京椿」によると、石川丈山は、詩仙堂に移る前に、一時、元田中付近に住まいがあり、その旧邸跡に侘助椿の巨木が残されているとの記載があり、私は、何回かそのエリアを探索してみましたが、未だに発見できていません。幹周130センチの高木とあるので、相当目立つと思うのですが、今も残っていてほしいと願っています。

 



 

 

 




 

東北院のサザンカは今もあった

1 東北院を訪れる

 真如堂の総門を後ろに、右上手の道を進んで突き当り、左手、吉田山へと向かう道沿いに、4つのお寺が横並びで建っています。

 東から、迎稱寺、大興寺極楽寺、そして一番西に「東北院」(とうぼくいん)があります。

 この東北院には、昭和49年10月発行の「京都市の巨樹名木」(京都市景勝地植樹対策委員会)という冊子に、さざんかの巨樹があることが記載されています。

 1974年3月の調査では、幹周145センチ、樹高8メートルと測定され、「玉垣はこわれ、樹木の管理はなされていない」と記録されていますが、この巨木が今もあるのか、真如堂を訪れたついでに、確かめてみることにしました。

 この四軒寺の門前はひっそりとしていますが、中でも、迎稱寺は、ところどころに崩れのある土塀が鄙びた風情を醸し出し、東北院も、樹木の管理に、あまり手が回っていないことが、観光寺とは違った、趣のある寂寥を感じさせる雰囲気を漂わせています。

(迎稱寺です。)


 東北院は、藤原道長が創建した法成寺(ほうじょうじ)寺町通を挟んで、仙洞御所の東側にあった摂関期最大級の寺院)、内の東北の地に、道長の娘で一条天皇中宮となった上東門院・藤原彰子が、常行三昧堂阿弥陀仏の周りを回りながら念仏を行うためのお堂)を建立し、晩年を過ごした寺院であると伝えられています。

 上東門院・藤原彰子といえば、聡明、公正な人柄と、容姿もひときわ優れた賢后として、道長、頼通の摂関政治を長く支えたとされ、また、紫式部和泉式部など、そうそうたる女流作家、歌人が揃う宮廷文芸サロンを主宰していたことでも有名です。

 和泉式部は、後年、娘の小式部内侍に先立たれ、出家の身となって、上東門院の口利きによって、道長が東北院内に建てた小堂に住んでいたといわれます。

 東北院は、その後、度重なる火災や兵火に見舞われ、荒廃していましたが、元禄5年(1692年)の火災後に、真如堂などとともに、現在の場所に移ったとされています。

 本尊は、伝教大師最澄が彫ったと伝わる「弁財天」で、寺が移転・興廃を繰り返す中で、1559年頃に、時宗の寺となっています。

2 和泉式部ゆかりの「軒端の梅」

 本堂前にある梅は、「軒端の梅」(のきはのうめ)と名付けられています。

 この梅は、和泉式部が当時の東北院に植えたとされる梅の代替わりのものと伝えられています。

 枯死した部分もありますが、脇から伸びている新木が、歴史を引き継いでいます。

 「軒端の梅」は、世阿弥作の謡曲「東北」にも登場します。

 東北院を訪れた旅の僧の一行が、見事な梅を眺めていると、一人の女性が現れ、この梅は和泉式部が植えたことを語り、木陰に消えてしまいます。

 僧は、門前の人から、それは和泉式部の霊に違いないと聞き、お経を唱えて供養していると、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れ、生前の仏縁の思い出を語り、和歌の徳・仏法のありがたさを説いた後、再び姿を消したが、そこには梅の残り香があったというものです。

 数々の恋愛と華やかな宮廷生活から離れたあと、仏の道で、世の無常から救われたということであれば、無残な話も多い中で、少しほっとできる、穏やかなゴースト・ストーリーです。

 それにしても、和泉式部世阿弥にまつわる伝承を有するという、文芸的背景の高い肩書を持っている梅ですね。

3 サザンカの巨木

 さて、サザンカの巨木がないか、探してみると、寺の西側、道路沿いの入口近くに、白い花を咲かせている木を見つけました。

 主幹が朽ちてしまい、表皮だけが残っていますが、もともとは相当に巨樹であったことが想像できます。

 先ほど紹介した、「京都市の巨樹名木」の写真です。

 撮っている向きが違いますが、写真一番左の枝が、現存の枝と一致しているので、この樹に間違いありません。残念ながら、この50年の間に、写真右側部分が枯れ朽ちてしまっているのですね。

 冊子では、特徴として、

 「根元より0.5mで分岐し、さらに地上1.5mのところでは支幹の数9個となって主幹を形成していない。なお、支幹数か所が癒着して連理となる。」

と記されています。

 今は見ることのできない樹容ですが、何とかがんばって生きながらえていってほしいですね。

4 元真如堂への道沿いの椿

 この後、白川通へと戻る途中、真如堂の元々あった場所にある、元真如堂(またの名を換骨堂)がありました。

 真如堂を訪れる人が、ぽつぽつと北側の道を通っていきますが、こちらまで回る人は少ないでしょう。

 

 道沿いには、椿が、静かに咲き、気付く道行く人を楽しませてくれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

年明けの真如堂に椿の古木を楽しむ。

 あけましておめでとうございます。

 本年も、京都の数多ある寺社仏閣を、椿を愛でながら、のんびりと巡ってまいります。

1 新年の真如堂

 令和5年1月7日(土)、今年初めての探訪は、真如堂です。

 真如堂は、正式には鈴聲山・真正極楽寺(れいしょうざん しんしょうごくらくじ)といい、その本堂を表す「真如堂」が通称となっています。

 京都大学の東、吉田神社のある吉田山(神楽岡)の南麓にあり、白川通の市バス・錦林車庫前から西に、意外に,上り勾配のきつい道を8分ほど歩くと、真如堂塔頭が集まる高台のエリアへと出てきます。

 

 どっしりとした構えの総門です。神楽岡におられる神々が夜に参集される際に、邪魔にならないようにと、敷居を設けていないとのことです。

 

 真如堂は、永観2年(984年)に戒算上人が開創した、天台宗の寺院です。

 上人が、夢での阿弥陀如来のお告げにより、本尊となる阿弥陀如来像を比叡山から、東三条院離宮に安置したと伝えられています。

 この像は、慈覚大師円仁が造ったものとされ、完成したときに、修行者のための本尊としようと、大師が眉間に白毫を入れようとすると、阿弥陀様は頭を横に振られたため、ならばと、京へ行き、一切の衆生、とりわけ女性を救いたいと大師がおっしゃるとうなずかれたとの伝承があります。女性の信仰が篤いと言われる所以ですが、時代を先んじた、開明的な阿弥陀様ですね。

 東三条院藤原詮子)は、藤原道長の姉であり、円融天皇の女御、一条天皇の母ですが、道長と伊周との権力争いにおいて、一貫して道長を支援し、後の道長の栄華にも大いに貢献したとされている女性です。(「枕草子」の好きな私としては、伊周はともかくも、その妹の中宮定子の悲運が頭に浮かびます。)

 その後、応仁の乱足利義政、義昭、豊臣秀吉による移転の命により、本尊の安置場所や寺地は変遷をたどりましたが、元禄6年(1693年)に東山天皇の勅により、現在地に復したということです。

 応仁の乱の状況をリアルに今に伝える「真如堂縁起絵巻」は貴重かつ著名な重要文化財です。

 総門をくぐると、巨大な本堂を正面に、三重塔が右手に見えてきます。

 どちらもボリュームのある建物ですが、窮屈さを感じさせないくらい、開けた広い境内です。紅葉と青モミジが定番ですが、寒さの中、凛とした冬枯れの雰囲気も、またいいものです。

2 三重塔と椿

 三重塔周辺には、多くの椿がありました。まだ、蕾が固いものが多かったですが、いくつか早咲きのものも。

 

 

 三重塔そばの手水舎には、優しい桃色の乙女椿、有楽椿が活けられていました。

3 庭園の有楽椿を見る

 本堂前の菩提樹です。葉が落ちていると、枝ぶりと幹の立派さがよくわかります。

 それにしても、実に堂々とした本堂です。この菩提樹も結構な巨木なのですが、そう見えないほどの、お堂の存在感があります。

 

 本堂で、拝観受付を行い、書院と2つの新しい庭園を見てきました。

 「涅槃の庭」は、1988年に作庭。中央の連石が、お釈迦様の涅槃の姿を表しています。写真の撮りようがうまくないためわかりづらいですが、借景の、大文字山比叡山などが、遠景での涅槃の姿を表すと、案内の方が仰っていました。

 この庭に、鎌倉時代の名燈籠があります。傍らに有楽椿が可憐な花を咲かせています。まだ、この燈籠と比べると役不足ですが、ポイントとなる場所での植木として抜擢されているので、年々、貫禄をつけて、燈籠とセットで語られる樹になってほしいと思います。

 

 「随縁の庭」の四つ目模様が斬新です。三井家の菩提寺らしい意匠ですね。

 

4 落ち葉の絨毯

 本堂裏手の庭には、モミジの落ち葉が一面に敷き詰められていました。枯葉といえど、紅葉の色合いがほんのりと残っています。まさに、絨毯ですね。

 庭の管理をする方も、洒落っ気をお見せになっています。西暦なのがモダンですね。

5 樹齢300年の椿の古木

 さて、今回の椿探訪のメインとなるものは、薬師堂と三井家の慰霊塔の間にある、この、古木・巨木でした。表示には、「散り椿」(仙椿)とあり、「現在の本堂が再建された300年前から在ったと推定される古木」と記されています。

 現本堂は、享保2年(1717年)に再建とありますので、まさに樹齢300年超えですね。年代を経た、威風堂々たる姿です。

 周囲に柵があるため、直接測ることができませんが、幹周は、150センチ以上あるのではないかと思われます。椿ならではの、古色蒼然たる幹は、歴史を感じさせます。割れや腐朽も特に見当たらず、四方に大きく枝を広げる、素晴らしい大木です。伝承が加わっていれば、著名な銘木になっていたのでしょうね。

 一輪だけ、咲いていました。

 「散り椿」といえば、五色八重散椿を連想させますが、この花を見る限りは、ちょっと違うかもしれません。ただ、藪椿とは異なるので、古来の園芸種だろうとは思います。また再訪して確認したいと思います。

 境内には、ほかにも、大きな椿やサザンカが散在しています。

 新長谷寺にも、幹周70センチほどの椿がありました。先ほどの「散り椿」に次いで大きな椿です。

 広い境内には、特徴ある樹木も多くあります。

 本堂前南側にある「たてかわ桜」は、春日局が、父である、明智光秀重臣斎藤利三の菩提を弔うために植えたといわれています。樹皮に縦向きの皮目があるのが特徴です。本当に、松のようですね。伊勢湾台風で折れてしまった幹から、芽吹き、60年かけてここまで再生したということです。

 

 おいしそうで、体にもよさそうな実です。グミによく似ています。

 梅、桜、モミジをはじめ、椿はもちろん、多くの樹木・草木が植えられ、四季折々に楽しむことができます。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

年末の常寂光寺に椿を見る

1 嵯峨野を歩いて常寂光寺へ

 紅葉シーズンには混雑した嵯峨・嵐山も、冬の訪れとともに次第に静かとなります。

 嵐山の中心地からやや離れ、小倉山の山野に臨み、鄙びた風情を残す、二尊院、常寂光寺、落柿舎の界隈は、この時期、雑踏の音も遠ざかり、散策には絶好となっています。

 年の瀬の12月30日に、常寂光寺を訪ねました。

 小倉山山腹の、かなり勾配のある斜面に、本堂や多宝塔などが建てられています。

 樹々が全山を覆っていますが、斜面の高低差を活かしながら、長年にわたる管理と配置の工夫を重ねてこられたのでしょう。建物と樹々とがバランスよく調和しており、絵になる景観となっています。

 常寂光寺は、慶長年間(1596〜1614)に、大本山本圀寺第十六世究竟院日禛上人により開創されましたが、寺名は、お釈迦様が住むといわれる、絶対真理が具現している浄土「常寂光土」から名付けられたとのことです。字面からは、常に閑寂な趣をたたえるところという、風情を表すネーミングとしてもぴったりであり、ダブルミーニング的なこともあったのであれば、面白いなと思いました。

2 仁王門から石段を登り本堂、多宝塔へ

  山門をくぐり、拝観受付を済ませて、仁王門へと進みます。本圀寺客殿の南門を、元和2年(1616年)に移築したもので、境内で最も古い建物ということです。

 仁王門なので、阿吽二体の仁王像が、門番をしておられます。

 本堂へは、かなり急な石段を上ります。参道両側をカエデが林立しており、つい一月ほど前の紅葉時の美しさが想像できます。

 本堂は、小早川秀秋の助力により、伏見城客殿を移築したものだということです。

 本圀寺紅葉の紋章です。紅葉の名所にふさわしいですね。

 本堂の傍にも、多くの椿が植えられています。

 蕾はふくらんでいるものの、開花まではまだ早いようでした。白色系の園芸種だと思いますが。

 本堂から、さらに山手に上がると多宝塔です。元和6年(1620年)に、京都町衆により寄進されたもので、霊元上皇宸筆の勅額「並尊閣」が掲げられています。檜皮葺の、木組みの細工が繊細で美しい塔で、重要文化財に指定されています。

 多宝塔の上手から、嵯峨、京都市街を一望に見渡すことができます。

3 境内の椿たち

 境内の庭園には、そこかしこに、多くの椿が植えられています。

 受付の方にお聞きすると、住職は、山野草の愛護、研究に力を入れておられ、地元の希少種や、この寺にしかない蓮などの保存栽培に尽力され、境内にも多く植栽されているということで、有名な紅葉や桜だけでなく、多様な植物を四季折々に見ることができると伺いました。

 おそらく、椿についても、これだけの数が植えられていることから、造詣も深く、愛着を持たれていると思います。

 藤原定家の小倉山荘「時雨亭」の場所は確定されていませんが、仁王門から、二尊院にかけてのあたりに所在したのではないかと言われています。

 百人一首の26番、貞信公・藤原忠平の歌碑

「小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば いまひとたびの みゆきまたなむ」

 まだ開花には遠い感じでしたが、藪椿が一輪、梢に咲いていました。紅葉も落ち、冬枝の中で、椿の紅い花は、つつましいながらも印象深く彩りを見せてくれます。

 帰路、境内の西側、参拝客の寄らないであろうところに、空高く伸びる、大きな藪椿の一群を見つけました。最も大きいものは、下の写真の左側の椿で、幹周80センチ以上ありました。

 さらに南に、巨木が一本ありました。自然のままに生い茂っており、幹周は1メートルを超えていると思われます。すでに赤い花を何輪か咲かせていました。

 このように、寺社のメインの場所ではなく、意外なところに、大椿が存在していることは多いのではないかと思います。探訪を続けていると、だんだんと、第六感が働いてくるかもしれません。

 

4 常寂光寺と角倉家

 「塵劫記」とは、久しぶりに聞く名です。日本史の教科書に載っていますね。算術の教科書としてのベストセラー&ロングセラーとして有名です。

 著者の吉田光由は、嵯峨の角倉家の一員で、角倉了以(1554~1614)の甥にあたります。大堰川高瀬川をはじめとする河川開削事業を成功させた実業家の家系として、算術の才も必須のものとして一族に伝えられていたのでしょう。

 菖蒲谷池は右京区梅ヶ畑菖蒲谷にあり、吉田光長・光由の二人が寛永年間(1624~44)に造ったもので、菖蒲谷隧道を同時に掘削し、これまで水不足に悩まされていた北嵯峨一帯の田畑を潤したと伝えられています。

 常寂光寺の開創の際に、寺域を提供したのも、角倉家ということで、嵯峨一帯における影響力が偲ばれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

梅宮大社で寒さに耐える猫と神苑の椿を見る。

1 凍てつく寒さの中、梅宮大社を参詣

 京都も、強烈なクリスマス寒波で、今週は最低気温が氷点下の日が続きました。

 この寒さの中、神苑に、椿が多数あると聞く、梅宮大社を訪れました。天気はよいのですが、放射冷却もあり、朝の9時過ぎだと、実に寒い。

 梅宮大社は、聖武天皇の時代、痘瘡の流行で、藤原四兄弟をはじめ高官が相次いで死去する中、右大臣として政治を担った橘諸兄の母・県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)が、綴喜郡井手町にあったとされる井手寺に、橘氏氏神としてお祀りしたのが創始と伝えられています。

 その後、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちし)によって、現在の神域に移され今に至るとされているので、およそ1200年にわたって、この地で崇敬されてきた大社です。

 5月3日に、子供神輿16基・大神輿が氏子地区を巡行する「御幸祭」が有名ですね。

 

    堂々たる構えの「随身門」。

 日本書紀によると、大社の祭神である「大山祇神」は、娘の木花咲耶姫命コノハナサクヤヒメノミコト)が彦火火出見尊ヒコホホデミノミコト)を安産されたことを喜び、狭名田の茂穂で「天甜酒」(あめのたむざけ)を造り、祝われたとされています。

 これが酒造のはじまりであるとして、大山祇神酒解神(さかとけのかみ)、 木花咲耶姫命酒解子神と呼んで、造酒の祖神としています。

 このため、有名どころの酒造会社の酒樽が並んでおり、目を引きます。

 檜皮葺の重厚で落ち着いた雰囲気の本殿です。狛犬が子犬のように小さいのが面白かったですね。

2 神苑を散策

 神苑は、東門から入ります。下の写真は、神苑側から撮っているので、門の向こう側から神苑に入るということになります。

 東門正面の「咲耶池」と茶室「池中亭」です。いかにも冬らしい雰囲気で、オフシーズン感があります。

3 神苑の椿たち

 椿は、西神苑を中心としながら、全域に散在しています。品種は、50種類あまりあるそうです。

 先日行った、城南宮の神苑城南宮の神苑で、秋咲きの椿を楽しむ - 京で椿を楽しむセカンドライフ)と比べると、大樹が多く、樹形を整えるというよりは、自然に任せて伸ばしているという印象です。

 雑木林的な「野性味」があるのが特徴です。

 いくつか、開花しているものがありましたので、ご紹介します。

 「咲耶池」のほとりに咲いていた大輪の椿です。

 

 花弁がこのように三角状で、両縁がくっきりと折れ曲がるのは、珍しいのではないでしょうか。他の花もこのような形状で、枝変わりという訳でもないようです。

 

 「初嵐」。波打つ花弁が優雅です。

 

 「花車」だと思います。中央部の花弁が立ち上がり、いわゆる二段咲を見せてくれています。

 

 今日見た花の中で、一番気に入ったものです。

 本来とは変わったバージョンなのでしょうが、雄蕊と花弁が混じった面白い造形です。

 

 最初は、「日光」かと思いましたが、それにしては開花が早すぎる気もしますね。

 (私の家の日光も、早い花は咲き始めたので、そうではないかも。)

 唐子部分が少し緩やかなところがあり、「赤腰蓑」にも似ています。「赤腰蓑」は極早咲きで、開花時期とも符合します。

 ともかくも、唐子咲は、好き嫌いがあるかもしれませんが、魅力的で、椿のヴァリエーションを豊かにしてくれるものです。

 

 写真ではわかりづらいですが、黒みを帯びた美しい色合いの椿でした。

 これらの椿は、西神苑の梅苑の傍にあります。

 綺麗な吹き掛け絞です。

 

 可憐なサザンカです。

 

 巨木ではありませんが、力強さと年期を感じさせる、存在感ある椿です。こういう樹形に魅かれますね。

4 寒さに縮こまる猫、そのほか

 「咲耶池」の南側は、氷結していました。降雪の名残もあります。

 大社の飼い猫たちも寒そうなポーズです。

 「随身門」を入ってすぐ右手に、迫力ある五葉松があります。幹周1.9メートル、高さ6.5メートルあり、右京区民の誇りの木の一つに選定されています。

 きれいな樹形ですね。相当な樹齢と思いますが、何方かのお手植えのような伝承があるのでしょうか。

5 訪問後記

 私と嫁さんとが、神苑を巡っていたときに、ほかに神苑にいた人は2~3人で、ほぼ貸し切り状態でした。

 私としては、これほど多くの、しかも大きな椿があるとは思っておりませんでしたので、喜々として巡らせていただきました。

 大社のある「右京区・梅津」の地は、平安時代には、貴族の別荘が多く造営されたところであり、神苑の由来ははっきりとは伝わっていないようですが、このような歴史的背景があるのを知ると、各所巡りも一層楽しくなります。

 梅宮大社は、その名の通り、梅が有名ですが、椿の開花とも重なるので、また、訪れたいと思っています。

「梅津の歴史」 編集・発行:梅津まちづくり委員会 より

 梅津は、古来より北桑田郡から桂川によって運搬される材木の揚陸地(津= 湊みなと)として知られる。平安中期まで木材の集散地として発展してきた梅津は、道路、車人夫等の施設やシステムも完備し、次第に一般港としての機能を果たすようになってきた。平安後期には、京都西南部の外港として山陽、西海、南海の諸道を往復する者の乗船地となった。

 このように交通の要衝となるに従って、貴族の山荘が多く設けられるようになった。中でも有名なのは、藤原忠通が 1161 年(永歴二年)に移築した山荘・梅津殿である。また、金葉集巻三秋部に源師賢朝臣の“梅津の山荘に人々まかりて田家秋風といえる”を詠める。「夕されば門田の稲葉おとづれて芦のまろやに秋風ぞ吹く」 大納言源経信とあり、この歌は、小倉百人一首にも所収せられてあり、有名である。

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

紅葉散る鹿王院の「椿ロード」

初冬の鹿王院

 鹿王院は、嵯峨にある臨済宗の寺院です。嵐山と少し距離があるため、雑踏を離れて、ゆっくりと拝観することができます。紅葉シーズン以外であれば、なおのことです。

 12月17日、土曜日、京都の最低気温は3.5℃、最高気温も6.5℃という、かなりの冷え込みの中、鹿王院を訪れました。

 10時前に門前に着きましたが、観光客は誰もいない様子。山門越しに、まだ、紅葉の残る石畳の参道が、静かに迎えてくれました。

 この山門は、康暦(こうりゃく)2年(1380年)の鹿王院創建時の姿を今に伝えており、扁額「覚雄山」は足利義満の筆になるものです。

 康暦(こうりゃく)元年、22歳の足利義満は、夢の中で、多聞天地蔵菩薩が、「今の将軍は、福も官位も意のままに十分満ち足りている。ここで一ヶ寺を建立すれば、寿命が延びること間違いない」と語り合うのを聞き、夢窓疎石の後継者である春屋妙葩を開山として、この地に「宝幢寺」を建立し、その塔頭として「鹿王院」が建てられたと伝えられています。

 創建の際に、野鹿の群れが現れたので、吉瑞であるとして「鹿王院」と命名されたとのことです。

 宝幢寺は、将軍家と深いつながりを持ち、荘園の財政基盤をもって、大いに栄えましたが、応仁の乱で焼失、荘園も守護・地頭の横領で失われ、何とか「鹿王院」だけが再建されて「宝幢寺」の格式を継承し、文禄5年(1596年)の伏見大地震による倒壊からも復興を果たし、今に至ります。

鹿王院の「椿ロード」

 山門を入り、参道を進むと、紅葉の残るモミジの間に、数多くの椿が植えられています。このため「椿ロード」とも呼ばれているようですが、概ね2~3メートルの高さのもので、年代物というのはないようです。まだ、つぼみの時期なので、どんな種類の椿かわかりませんでしたが、これだけの数があれば、参道が彩られ、「椿ロード」の名にふさわしいものになると思います。

 

 

 

 もう少し、サザンカか、秋咲の椿があれば、紅葉とのコラボレーションが楽しめるでしょうね。

鹿王院庭園

 中門から入ると、庫裏前に庭園が広がります。松の根っこが、地表を放射状に這っているのが、特徴的です。もっと苔むすとより風情あるのでしょうが、山沿いではなく、それほど湿気のある環境ではないのかもしれません。

 庫裏に上がらせていただきます。本当に静かです。

 客殿の扁額も、義満の筆です。筆は人を表すのか、この筆跡をどう思われますか?

 

 客殿の南側に、広大な「平庭式枯山水苔庭」が開けます。池や築山をあえて造作せず、自然の平坦な地形そのままのつくりとなっています。木石の配置も、ゆったりしており、開放的なお庭です。「舎利殿」が工事中なので、元の姿と、嵐山の借景の全景を想像しながら、庭園独り占めの時間を過ごさせていただきました。

 この客殿は、女性限定の宿坊にもなっています。私は残念ながら泊まれませんが、ここで朝食をいただき、朝のお勤めと法話を聞き、座禅を体験するというのも、心癒される時間になると思います。

 柱で分断されてしまいましたが、舎利殿北側の木斛(もっこく)は、樹齢400年の銘木です。

 客殿西北側にも、庭園があります。ひっそりと、藪椿が開花し始めていました。

 客殿から舎利殿への歩廊の中ほどに、本堂があります。

 本堂には、本尊・釈迦如来座像が安置され、その左右を、十大弟子像が並んでいます。南北朝時代の作で、応仁の乱の戦火を逃れることができた貴重なものとして今に伝えられています。運慶作と伝えられていますが、慶派の作品であるようです。開山の春屋妙葩像、義満像もありました。

 「宝幢寺」当時の寺院群の様子を書き記した当時の地図も展示されています。天龍寺臨川寺鹿王院のもと、150余りの塔頭と、職人や、金融を担う土倉など、多くの人が集まり、一大門前町を築いていた様子がうかがえます。

鹿王院の銘木

 客殿南側庭園の木斛のほかにも、立派な巨木を見かけました。

 舎利殿南側の槇、中門前の松です。この松は、この大きさにしては、樹皮が剥がれることなく、大変きれいな状態を保っています。

 中門前、参道右側に、天台烏薬の木があります。根は健胃、整腸作用があり、漢方薬として利用されています。始皇帝が探し求めた不老長寿の霊薬だとの伝説があるようです。

 帰途の参道で、名残の紅葉を今一度。

 蕾も少し色づき始めていますね。