幻の後水尾天皇お手植え「日光椿」を探して~五辻御所「華開院」

 
 昭和59年(1984年)発行の古い資料『京の社寺と名花・名木』(京都市文化観光資源保護財団)に、ある銘椿が紹介されています。それは、京都市上京区にある「華開院(けかいいん)」の日光椿(じっこうつばき)の巨樹。後水尾天皇のお手植えという由緒ある名木です。
 掲載から40年以上が経った今、この巨樹は現存しているのか、3月末の休日、カメラを手に現地を訪ねました。
皇室とのかかわりも深い、静かな古刹
 華開院は、円町交差点の北東に位置します。紙屋川(天神川)を渡り、「だるま寺」として有名な法輪寺を過ぎた先にひっそりと佇むお寺です。

門前に立つ「勅願所 華開院」の石碑。
山門の上からは美しく咲く紅椿が顔をのぞかせています。

 

 その歴史は康元2年(1257年)に遡り、後深草天皇の皇子・法達親王の開基と伝わります。かつては大宮通寺之内の「花開院町」にあり、後醍醐・光明・後光厳・村上の4天皇の勅願寺(五辻御所)となるほど格式高いお寺でした。応仁の乱や豊臣秀吉の都市計画(町割り)による移転を経て、寛文8年(1668年)にこの地へ落ち着いたといいます。
 金閣寺や二条城といった主要観光エリアから少し離れているため、観光客の姿はまばらです。平日は、お墓参りの方が時折行き来し、向かいの幼稚園から園児の声が響くのでしょうが、訪れた日は、山門前には、ほとんど人通りもありませんでした。
許可をいただき、椿の咲く境内へ
 実は、華開院は通常非公開のお寺です。美しい紅椿に惹かれつつも門は閉ざされていたため、今回は事前にお電話でお尋ねしました。すると、「普段は拝観を行っていませんが、お参りということであれば、木戸を開けて入っていただいても構いませんよ」との温かいお言葉をいただき、ありがたく境内へ入らせていただきました。

満開の紅椿をバックに、逆立ちする「飛び込み獅子」

本堂に掲げられた「華開院」の扁額

 

 一歩足を踏み入れると、本堂の前庭には、紅、白、桃色と、色とりどりの椿が咲き誇っていました。
     
 お寺の方曰く「祖母が椿好きだったので、たくさん植えてあるんです」とのこと。
 いわゆる「巨木・古木」は見当たりませんが、椿を心から愛する人が手入れを続けてきた、その思いが伝わってくるようなお庭です。
個性豊かな椿たちと、日野富子の墓
 庭を進むと、一本一本異なる表情を持った椿たちに出会えます。

大輪の「明石潟」

お地蔵さんと寄り添う椿
 さらに、本堂後ろの墓所に至る径にも、並木のように多くの椿が迎えてくれました。
  
 その途中に、1メートルにも満たない小さな石塔がひっそりと立っていました。室町幕府の権勢を極めた女傑・日野富子の墓と伝えられています。
 本墓ではないとは思いますが、あまりにも質素で目立たない姿に、歴史での印象とのギャップを感じました。
「日光椿」は何処?
 そして肝心の目的である、後水尾天皇お手植えの「日光椿」を探しました。
 しかし、境内を隈なく見渡しても、それらしき巨樹は見つかりません。事前にお寺の方に伺った際も「そのような古木は心当たりがない」とのことでした。
 残念ながら、40年以上の歳月のなかで、すでに枯れてしまった可能性が高そうです。
 あるいは、一般の立ち入れない奥の内庭に、今もひっそりと息づいているのでしょうか。
おわりに
 お目当ての巨樹に出会うことはできませんでした。しかし、今もお寺の全域にわたって彩りを見せる椿の風景には、後水尾天皇が椿を愛したという歴史が、世代を超えて今も大切に受け継がれているように感じました。

椿の宝庫・大徳寺の塔頭の一つ「興臨院」

 大徳寺総門をくぐり、勅使門を過ぎて左手に曲がると、龍源院や瑞峯院、そして奥にある精進料理の『泉仙』へと続く塔頭の並びが見えてきます。その入り口に、古風な表門を構えているのが興臨院です。

 常時拝観ではありませんが、春と秋のシーズンには、2~3か月間特別公開されています。

 表門の向こう、庫裏へといたる参道脇の椿に誘われて、拝観させていただくことにしました。

 興臨院は、戦国時代に、能登の守護大名・畠山義総が建立し、後には、勢力の衰えた畠山氏に代って能登を治めた前田利家により改修、以後、前田家の菩提寺となったという歴史を有しています。

 表門(山門)と方丈、唐門は、創建に近い形を残しており、重要文化財指定を受けています。

 訪れたのは、令和8年3月21日の、三連休の真ん中の日。

 よい日和のお昼過ぎでしたが、不思議なほど界隈は静かで、観光客もほとんどいませんでした。

 受付をして、方丈へと入ると、私一人。前庭の景色を独占です。

 庭園は、昭和53年に、中根金作により手掛けられたもの。

 春の日差しが柔らかく照らす白砂の穏やかな大海。注ぎ込む源流の両側に高く架かる石橋の向こうには蓬莱山が見えます。

 縁側に座って、眼前に広がる「理想郷」を堪能させていただきました。

 受付の方に、「こんな贅沢はないですね」というと、微笑まれて、誰もいないので、唐門からの景色もご覧になってくださいとのこと。

 お言葉に甘えて、玄関へと下り、花頭窓からの眺めの庭と、檜皮葺が美しい方丈を見ることができました。

 しばらくすると外国人観光客が幾人か来られたので、入れ替わるように鴬張りの廊下をつたって、裏庭へと。苔むした庭の真ん中には乙女椿が、後方の塀越しには、大きく伸びた藪椿が静かに咲いていました。

 方丈から廊下伝いに、「涵虚亭(かんきょてい)」という名の茶室があります。

 昭和3年に山口玄洞氏により寄進されたものです。「虚」は大空、「涵」は、ひたす、うるおす(涵養という言葉がありますね。)という意味で、蘇軾の詩にちなんで名づけられたとのことです。

 山口玄洞氏は、寺社の復興にも尽力した大実業家であったことは、「神護寺」を訪れた時に知りましたが、これからもいろいろな機会で目にすることだろうと思います。

 茶室の中には入れませんが、水屋側から、ほの暗い、いかにも風雅な茶室を覗き見ることができます。

 茶室の雰囲気も良いのですが、露地がまた格別でした。

 ビロードのように広がる苔と、植え込みの合間に飛石、石燈籠、蹲、庭石が絶妙に設えられ、文人墨客を招くにふさわしい景色となっています。

 蹲は、椿の花々で彩られていました。方丈周りの庭には、乙女椿以外は見当たりませんでしたので、これらは山門からの参道にある椿の花ですね。

 その参道に、今を盛りに咲いていたのが、加茂本阿弥です。

 名残りの「有楽」です。

 薄い絞の入った上品な椿です。白地の多い「和歌の浦」のようです。

 山門に入ってすぐに見える、葉の形が特徴的な百合椿です。

 興臨院は、間口が35メートル、奥行きが50メートル程度と、規模は小さいですが、コンパクトで洗練された美しさを体感できる塔頭です。

お彼岸の大原野

 暑かった夏も、ようやく終わりを迎えたようです。

 涼しい風と、和らいだ日の光が、どことなく秋めいてきたのを感じます。

 お彼岸の大原野の里は、既に刈り入れの終わった田んぼ、刈り入れを前に、稲穂の垂れる田んぼが広がり、畔のあちこちには、彼岸花が咲いています。

 彼岸花には毒があると、子供のころに聞いた印象のせいもあって、あまり親しみ深い花ではないのですが、この季節、田園を鮮やかに彩る様子は、秋の原風景の一つですね。

 

 灰方町の集落内の彼岸花。

 大歳神社付近

 大椿の実がもう開いて、種が顔を出しています。小花に見合った小さな種です。

 フジバカマも咲いています。

 しばらくすると、アサギマダラが飛来するのでしょうか。

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不退寺の「業平椿」

 不退寺は、在原業平が創建したと伝えられる古刹です。

 業平にまつわるお寺としては、京都市西京区の大原野にある「十輪寺」も有名で、業平が晩年に閑居し、塩焼きの風情を楽しんだと言うお寺ですが、ここには「ありひら桜」という枝垂桜の名木と、「ありひら紅葉」というモミジが知られています。

 在原業平の名前を冠する樹木としては、不退寺には「業平椿」という名椿があり、このお寺は「椿寺」と呼ばれていたこともあると耳にして、一度訪れたいと思っていました。

 

 佐保路と国道24号奈良バイパスとの交差点から一筋西の狭い道を北へ、JR大和路線の踏切を越えて進むと、市街から急に景色が一変して、鬱蒼とした林に囲まれた古風な門が見えてきます。

 この南門は、鎌倉後期の1317年に建てられた四脚門で重要文化財指定を受けている古風で立派な山門です。

 柱には、近郷の農民が鎌を立てかけた跡と見られる傷が残っているということで、そういわれれて見ればそうかと思いましたが、結構古い柱なのでいろいろと歴史を刻んでいるようで味わいがあります。

 境内に入ると、鬱蒼感はより一層深まります。

 「不退寺」は、約500種の草花が植えられている「花の寺」としても有名ですが、本当に、あたり一面緑に埋もれています。参道を進むと、緑の合間に本堂が見え隠れするという感じです。

 この本堂は、室町初期の建造の重要文化財ですが、古堂らしく、経年により現れた素地の木肌の色と、扉、軒裏の色褪せた朱塗りが、自然味の濃い境内の雰囲気とぴったりマッチしています。

 本堂の内陣には、業平の作と伝わる本尊・聖観音菩薩像が安置されています。やや特異な外見を持つこの仏さまは実に印象的です。

 業平が理想とする女性をイメージして創られたとの言い伝えもあるようですが、化粧気を強く感じるモダンさが面白いですね。頭の両脇に長く垂らした一条の髪と、それに結わえた大きなリボン飾りがお洒落?で個性的です。

 本尊を護るのが、五大明王たち。このうち金剛夜叉明王、降三世明王、軍荼利夜叉明王、大威徳明王の4明王は、不動明王と比べてより古い藤原時代後期の作ということですが、150センチ程度の身長で、形相・ポーズが抑制的また繊細で、不思議な静謐さが魅力的でした。

 もう一つの重要文化財は、本堂右手、池の向こうに立つ多宝塔です。現存するのは、1階部分だけで、明治の初期に取り払われたとのことで、見た目は「塔」とは思えないのですが、南都焼討後、叡尊による中興後のお寺最古の建物ということです。

 さて、業平が恋の成就を祈ったといういわれのある「業平椿」です。

 案内を請うと、本堂左手にある椿だと教えていただきました。それなりの大きさにはなっていますが、幹径は20cmあまりで、そう目立つ樹ではありません。

 聞くと、原木は、昭和36年(1961)に襲った第2室戸台風により倒れてしまったあと、とみに樹勢が衰え、しばらくして枯れてしまったそうです。ただ、その跡に残った枝幹がこのように成長して、二代目として名前を継いでいるとのこと。

 霊鑑寺の「日光椿」のように、ひこばえが育ち、同じ遺伝子を今に伝えているのでしょうね。

 花は、やや濃い目ですが、普通の藪椿と変わりはありません。

 原木は、枝が絡んで連理するという特徴があり、このことが、業平の恋の成就の願いに連想されたようですが、二代目は、枝分かれは細かかったですが、連理までは確認できず。もう少し年期が必要かもしれませんね。

 副住職さんから、本堂の軒下に置かれている、原木「業平椿」の幹の一部を見せていただきました。

 根元付近から大枝が二手に岐れるところまでの2メートル弱の部分ですが、確かに、樹齢千年と言われただけのことはある、ずっしりとした古株で、業平の名を有するにふさわしい歴史を感じさせる風格がありました。

 保管が万全とは言えない状態でしたが、貴重な椿のありし姿をしのぶことができてよかったです。

 全山、草木に覆われる境内には、椿も200種程度あるとのこと。この時期、花も終わりを迎えていましたが、至る所に群落や、鉢植えの椿を見かけましたので、3月下旬ころに訪れると多様な椿花の競演を楽しめると思います。

 

祇園祭の山鉾に咲く椿~『後祭編』

 祇園祭の「後祭」は、「前祭」と比べると、山鉾が11基と半分以下で、全体に地味目なこともあって、人出の方も、「前祭」のほぼ20分の1程度にとどまります。

 ということで、頃合いの賑わいの中で、のんびりと会所巡りをすることができるので、私は、「後祭」派ですね。

 「後祭」の山鉾は、大船鉾以外は、錦小路以北にまとまっています。

 早速、椿に関わる山鉾から見ていきましょう。

 室町通六角に立つ「黒主山」は、名前の「黒」がトレードマークとなっていますが、この山の欄縁には、菊、牡丹、芍薬、桜、そして椿の透かし彫りが施されています。

 肉厚でボリューミーな椿が、漆黒の欄縁に、金色に浮かび上がっています。

 手の込んだ仕事ですね。

 大伴黒主さんが、桜を仰ぎ眺めています。

 「黒主山」を一筋南下して、蛸薬師通に立つ「橋弁慶山」。

 開け放たれた会所の2階の舞台には、五条の橋の上の牛若丸と弁慶。

 この山の前懸は、富岡鉄斎の「椿石霊鳥図」を写したものです。名前からして、椿の花が描かれているものと期待していましたが、当てが外れたようです。

 「後祭」で、椿に関連しそうな山鉾はこの2基でした。「蟷螂山」にも椿の意匠があるとのことですので、来年は、また、リサーチして出かけようと思います。

 ほかの「後祭」の山鉾を見ていきましょう。

 「橋弁慶山」のすぐそば、室町蛸薬師に立っているのは「鯉山」。

 まさに鰻の寝床の、奥行き長大な会所には、重要文化財の前懸、胴懸、水引、見送が展示されており、無料で観覧できます。16世紀にブリュッセルで製作されたタペストリーを、鑿で裁断して仕立てたという、大変贅沢な造りとなっています。

 伝・左甚五郎の鯉。結構、リアルで生臭ささえ感じますね。

 室町通姉小路の「役行者山」。

 烏丸六角西入る「浄妙山」。

 室町通三条の「鷹山」。

 鷹匠の左手に鷹が留まります。

 新町通六角の「八幡山」

 この山の会所も味があります。

 伝・左甚五郎の鳩さんも展示されていました。

 新町通蛸薬師に立つ、「後祭」で最も華やかな「北観音山」。

 鉾町の商家。祭りらしさを演出しています。

 新町通錦小路の「南観音山」

 四条新町下る「大船鉾」。

 煌びやかな艫と舵。舳先よりもかっこよいかも。

 人出で身動き取れない「前祭」と違い、人とぶつからずに、自分のペースでゆっくりと見て歩るける余裕がある「後祭」はおすすめです。

 それにしても、今年の祇園祭は暑かったなあ。

祇園祭の山鉾に咲く椿~『前祭編』

 京都の7月は「祇園祭」。

 クライマックスの山鉾巡行は、前祭が17日、後祭が24日に繰り広げられました。

 前祭の鉾建てが始まってからの2週間、天候に恵まれましたが、恵まれすぎて、強烈な日差しに照らされて、40℃に迫る酷暑の中でのお祭りとなりました。

 さて、34基に及ぶ山鉾は、絢爛たる装い、個性ある造形が目を楽しませてくれますが、それぞれを守り伝えてきた鉾町の歴史と文化の蓄積によって、まち一帯が魅力のあるコンテンツともなっています。

 巡行も素晴らしいですが、宵々山くらいに、鉾町を巡ると、既に建てられた山鉾と、賑わう会所には貴重な懸装品を間近に展示してくれるところも多く、また、古くからの町家には屏風などを飾るところもあって、お祭りの雑踏の中にも、雅な雰囲気に包まれているのが京都らしいです。

 そんな山鉾ですが、その懸物や、軒裏に椿が描かれているもの、また、彫り物として椿が飾られているものがいくつかあります。

 「前祭」の山鉾から見ていきましょう。

 今年の宵々山には28万人、宵山には38万人もの人、ひと、ヒトであふれかえった四条烏丸から、ようよう四条室町を南に下がると見えてくるのが「鶏鉾」です。



 欄縁の下部に、4面ぐるりと懸けられている「三番水引」は、2022年に200年ぶりに新調され、西陣織の四季の花鳥が描かれています。

 冬の面の花鳥図には、保護のビニールシートで少し見づらいですが、白椿とその枝に止まる2羽の小鳥がいますね。

 花弁からすると、もしかしたら、サザンカかもしれませんね。

 「鶏鉾」から南下し、仏光寺通を曲がり、新町通を南に行くと「岩戸山」が見えてきます。

 

 この山の屋根の両側の軒裏には、今尾景年(1845~1924)73歳の作、「極彩色四季草花図」が描かれています。山に上がらせていただき、身を乗り出すように、四季折々の草花を観覧してきました。

 東側の軒、秋の色鮮やかな紅葉から、菊花、そして冬へと移り変わり、北の端には、ふくよかな「白椿」が2輪咲いています。

 シンプルで清らか。

 確かに、ここは、紅椿でない方がしっくりくるかもしれません。

 「岩戸山」から南へ、高辻通を曲がって西へ、油小路通まで進むと、一番西端にある山鉾「太子山」が見えてきます。

 この辺まで来ると、人の波もやや引いて、ゆったりと落ち着いた気分で祭の雰囲気を楽しめます。

 「太子山」の左右を飾る「胴掛」は、2018年にベトナムに刺繍を発注して新調したもので、「生命の樹」が描かれているとのことです。

 私は、これを写真で見て、ベトナムということもあるし、ハイドゥン椿をもとにしたものではないかと思って、今回確かめに来たのですが、見当たらず、会所の方にお聞きすると、巡行当日には懸ける予定だが、会所の展示には出していないとのことで、残念ながら見ること叶わずでした。

 でも、会所には、18世紀前半のインド産の胴掛など逸品が飾ってあり、それはそれで十分に見応えがありました。

 「太子山」からの帰路、高辻通を東に戻ると、何とも風情のある石畳の路地が現れ、思わずふらりと入ってしまいました。

 両側に町家が軒を連ねる狭い道の突き当りには、薄昏に浮かぶ祭提灯がほんのりと。

 たった一筋で、祭のにぎやかさとは、別世界。

 こういう、少し幻想的な感じもいいですね。







 



 

法華寺「華楽園」の椿

 法華寺は、天平13年(741)に、光明皇后が、日本総国分尼寺として創建した官大寺で、また、近世には「中宮寺」、「圓照寺」とともに「大和三門跡」としての格式を備えるなど、特色ある歴史を有する尼寺です。

 先代の久我高照門跡は、名家の誇りを持ちながら、時代に合わせた柔軟な行動力を発揮し、法華寺の整備に尽力された中興の祖ともいうべき著名な方でしたが、草花を大層愛され、仏様に供えるお花を育てる花園「華楽園」を開かれました。その「華楽園」には、多くの椿が植えられ、見応えがありましたのでご紹介します。

 海龍王寺の山門を出て、法華寺の交差点から西に行くとほどなく、法華寺の門と長く続く築地塀が見えてきました。令和8年4月9日、この日は、雲一つない快晴。気温も頃合いで、遅咲きの桜を眺めつつ歩くと、この季節が一番気持ちよく感じます。最近は、春が短いので、なおさらですね。

 境内に入ると、左手に、鐘楼と本堂、その先に諸堂が、右手には園庭が奥へと、パノラマのように広がる寺域に、さすが、総国分尼寺であったという、在りし日の壮大な姿を感じさせますが、実は、現在は当時の境内の半分にも満たず、かつては、さらに南に、金堂や東西両塔が並び立つ伽藍を備えていたといいます。

 時を経て、平安京への遷都、そして南都焼討などによる衰退と復興をたどりながら、慶長6年には、淀君の発願により、豊臣秀頼が本堂、鐘楼、南大門を再建し、これらが現在の主要建物(重要文化財)となっています。

 そして、桃山時代になって、後水尾天皇の皇女・高慶尼が入寺されて以来、尼門跡寺院となり、寛文13年(1673)に、そのお住まいとして、本堂の北西に、客殿を整備された際に造営された、前庭・内庭・主庭の三庭から構成される法華寺庭園が広がっています。石や庭木には、京都仙洞御所から移されたものがあると伝わっています

 さらに、光明皇后が、ハンセン病患者のために営んだとされる蒸し風呂を伝えようと江戸時代によみがえらせた「から風呂」のある場所から東にかけてのエリアには、久我高照門跡が整備された茶室と庭園、「華楽園」などが広がっています。

 こうしてみると、天平の時代の創建から、尼門跡寺院への変化、昭和の復興と、伝統を引き継ぎつつ、それぞれの時代の強い個性が際立ちながら共存している、ある意味、多様性と先進性を有するお寺でもありますね。

 さて、「華楽園」の椿です。

 昭和にできた庭園なので、年代物の椿はないだろうと思っていましたが、幹径20センチ以上になるような「五色椿」や「肥後椿」など、結構大きくなったものも含めて、数多くの椿が植えられており、椿園といってもよいくらいでした。これらの椿は、華楽園が出来た時に寄進されたものだそうですが、東大寺の銘椿「糊こぼし」をはじめ、由緒あるところからの椿も多そうでしたね。

「ヒゴツバキ」との表示がありました。

 花盛りの「天津乙女」

 

 「南大門」そばの五色椿

 「法華寺庭園」で見かけた椿。凛として美しい。

 ちょうど、前日までが、国宝・十一面観音立像の特別公開だったせいか、訪れる人もほとんど見当たらず、法華寺庭園も華楽園も貸し切り状態で、ゆっくりと見て回ることができ、春の一日を満喫することができました。

 堂内に静かにおられる仏さまたちに、お供えされていたお花は、椿の花。仏によく似合います。次の機会には、椿を供えられた十一面観音立像を見たいと思います。どの椿がその役目を担っているのでしょうか。