紫野・雲林院の椿

 NHK大河ドラマ「光る君へ」の放映もあって、廬山寺をはじめとして、源氏物語紫式部ゆかりの地に多くの人が訪れているようです。その紫式部が生まれたとされる「紫野」は、京都市北区大徳寺船岡山から西へ堀川通に至る地域です。

 この界隈は、平安京の、いわゆる「洛外」に位置し、当時は人家もなく、野原の広がる地であったようですが、御所から近く、貴族による遊猟、行幸が盛んに行われたといいます。

 そんな紫野に淳和天皇が設けた離宮「紫野院」は、のちに「雲林院」と名が改められ、元慶八年(884)には僧正遍照の奏請によって官寺となり、天台宗の寺院として隆盛を誇り、最盛期の寺域は、紫野一帯に及ぶ広大なものであったと言われています。

 10世紀の後半からは、極楽往生を求めて法華経を講説する「菩提講」が「老少男女称南無声遍満如雷(小右記)」と記されるほど賑わい、「大鏡」のプロローグで、語り部の二老人が登場する舞台となっているのはよく知られています。

 かつて貴族が風雅を楽しみ、仏寺としても賑わいを見せるなど、歴史上に長く存在感を示した雲林院は、源氏物語枕草子和泉式部日記、古今和歌集等々、名だたる多くの物語などに登場します。

 しかしながら、その後は衰退をたどり、鎌倉中期の公卿・広橋経光は、日記「民経記」に、貞永元年(1232)の旧暦の5月末の記事で、「紫野雲林院辺荒巷草深、本院之遺跡無人跡、無何所断腸也」と、往年の繁栄の見る影もなく荒れ果てた姿を嘆いています。そして、後醍醐天皇によって、敷地が大徳寺に移譲され、さらには応仁の乱で焼失してしまいます。ようやく、江戸時代、宝永4年(1707)に大徳寺の門外塔頭の一つとして再建され、今に至ります。

 

 雲林院は、大徳寺の東を走る大徳寺通りを、北大路通との交差点から南に下がってすぐ西側に位置しています。大徳寺に向かう人の流れは多いのですが、逆方向に進む人はあまりいません。

 この辺から鞍馬口通りにかけては、狭い路地が入り組む昔ながらの町割りが連担し、町家やお地蔵さんがそこかしこに姿を見せ、レトロ感ある京都らしい町並みと生活感が残っています。

 

 さて、雲林院ですが、かつての大寺院の面影はなく、紫野の町並みに溶け込むように静かに佇んでおり、駒札がないと、うっかりすると見過ごしてしまいそうです。

 境内には、本尊・十一面観音を祀る観音堂が残されています。

 このお堂の周辺に、大木ではありませんが、多くの椿が植えられています。

 2月に入ると、まず、有楽椿が咲き始め、大徳寺通りからも塀越しに見ることができます。3月になって満開になると、落ち椿も美しく、上下に薄桃色に染める風情ある光景となります。

 山門脇には、参拝客を迎えるように立つ椿があり、これが一番印象に残るものでした。

 3月後半に訪れた時には、厚みのある真紅の花弁の花を咲かせていました。小ぶりな山門に寄り添う咲き姿は、実に絵になります。

 ほかにも、白椿、胡蝶侘助などが目を楽しませてくれます。

   ところで、今昔物語には、雲林院は、巻15第22話と巻17第44話に登場します。

 前話は、「菩提講」を創始した聖人のエピソードで、七度も盗みで捕らえられた悪人が足を切られようとしたときに、人相見が、「この人は極楽往生する人ぞ」と身を挺してかばい、そのおかげで許された悪人が一念発起して、ついにはこの聖人となったというお話です。「小右記」では、菩提講の開祖は、源信僧都とされていますが、民衆レベルで仏教が広がった時代の雰囲気を表す今昔物語の方が、いかにも説話らしいとはいえ、親近感を感じます。

 後話では、雲林院に住む僧が、鞍馬参りからの帰途の月夜に、出雲路を抜けて一条の北の通りに差し掛かったところで、白い衣をしどけなくまとった見目麗しき童に会い、請われるままに、僧房へと連れ帰ります。僧は童にすっかり身も心も奪われますが、その童が懐妊し、子を産むということになってしまいます。ところが童は忽然と姿を消し、残された子と見えたのは黄金の石で、僧は悲しみに暮れつつも、以降不自由なく暮らしていけたのも、鞍馬の毘沙門天のおかげと感謝したというお話です。

 今昔物語は、小説ネタの宝庫ですが、この話も、なかなかいい題材になりそうです。

 オチを毘沙門様の霊験にもっていくのはともかくも、夢枕獏の「陰陽師」に出てきそうな、妖しく官能的で、また可笑しみもある伝奇的な味わいに惹かれますね。

 この童は、椿になぞらえると、どんな品種でしょう。白く、上品だけれども、やや妖艶さも漂わせる「羽衣」や「白牡丹」などのイメージでしょうか。

 

 堀川北大路を南に少し下がった西側に、紫式部のお墓があります。

 広大な雲林院の境内の東側に位置した塔頭「白毫院」の南にあったと伝えられ、実際にこの場所だったのかもしれません。

 何で小野篁のお墓と並んでいるのか?

 好色な物語を描いたために「地獄」に落ちた紫式部を、小野篁閻魔大王にとりなして救い出したとの伝説にちなむものとも言われているらしいですが、千年後も残る世紀の作品が人を惑わすとして地獄に落とされたというのは、閻魔様の裁定もいかがなものかと思いますね。





草津市・最勝寺の「熊谷」椿

 滋賀県草津市にある最勝寺には、市の天然記念物に指定されている椿「熊谷」があります。

 全国有数の大きさを誇るということで、機会があれば訪れようと思っていた椿の一つです。

 「熊谷」は、朱紅色の大輪に、花蕊が梅の花のように開くことが特徴であり、肥後椿の原種であると考えられています。

 このGWに、ちょうど草津に行く用事がありましたので、まだ咲いていればラッキーかなと、寄ってみることにしました。

 最勝寺は、寺伝によると、平安時代はじめの創建と伝えられますが、1465年に比叡山延暦寺の僧兵により京を追われた蓮如が、門徒の勢力下にあった近江金森に身を寄せると、たちまち、湖南の寺院はなびくように帰依することとなり、最勝寺も、1468年をもって、天台宗から転じて本願寺に属することになります。

 以来、18代550年にわたり、地元に根付いて、法灯をつないできたお寺です。

 東門は、上部に、太鼓櫓を構える面白い造りをしています。

 こちらをくぐり、本堂が北正面に構える境内を一巡りしましたが、それらしい椿は見当たりません。

 再度、東門を出て、塀沿いに北側に回ると、道路に面して、大きな椿が見えてきました。

 境内西側には、江戸時代初期に造られた枯山水回遊式庭園があり、その築山に高くそびえているもので、高さは10mを超え、幹回りも1.6mになるという、堂々たる巨木です。

 庭園には入れませんでしたが、その姿は、道路からも、よく見ることができます。

 平成15年10月1日に、草津市の天然記念物に指定されています。その直後の看板とすれば、20年経過して、また少し大きくなっているのだと思います。

 古木ですが、樹肌に節くれがなく、綺麗ですね。

 樹齢およそ400年とされる古木で、幹に、腐朽の手当がされていましたが、目立つ枝枯れもなく、なお樹勢旺盛な様子に見えました。椿の西側に、並んで大きな木がありましたが、椿は西日の直射に弱いと聞きますので、この木が、緩衝的な役割を果たしてくれているのかもしれません。

 これも、年期の入っていそうな樹です。

 下枝の方には、わずかに名残の花が残っていました。年によって、多少、花付きの違いはあるようですが、大輪が全樹を彩るさまは、見応えがありそうです。

 「熊谷」といえば、宝鏡寺の原木が有名ですが、最勝寺の方が大木であるとされています。残念ながら、宝鏡寺の熊谷は見ることが叶いませんので、こちらの椿で想像してみましょうか。

 この椿は、かつて道路拡幅の際に伐採の危機があったそうですが、当時の住職のおかげで、何とか存続できたという経過があるそうです。

 時期はわかりませんが、高度成長期には、経済優先で、その手の話はたくさんあって、貴重な樹木が失われたのではないかと思いますね、確かに、椿のある辺りから、道路が迂回していました。

 例年4月7日に花まつりが開催されるとのことで、今年も、丁度この時期に満開を迎えたようです。

 このお寺では、花は、桜ではなく、椿なのでしょう。






 

 

 

奈良・伝香寺の「散り椿」(「もののふ椿」)

 奈良の三銘椿といえば、東大寺開山堂の「糊こぼし」、百毫寺の「五色椿」、そして、伝香寺の「散り椿」です。

 この3月末の奈良の椿巡りでは、百毫寺と伝香寺と元興寺とを巡りましたが、ボリューム感あふれる花盛りに出会えたのは伝香寺。

 「武士(もののふ)椿」の別名でも知られる椿を堪能してきました。

 

 伝香寺は、戦国時代の大名で、大和の国を治めた筒井順慶(1549~1584年)の菩提所として、1585年(天正13年)に、順慶の母・芳春尼の発願により建立されました。

 若くして亡くなった順慶のためにとの母の願いということですが、確かに、わずかに35歳とは、当時とはいえ、あまりにも早いですね。

 興福寺の衆徒から抬頭し、大和に割拠する豪族間での覇権争い、さらに、松永久秀との抗争、明智光秀織田信長豊臣秀吉の下で、何とか、生き残りを図った激動の一生は、尋常でないストレスフルなものであったろうと推察します。

 せめて、香花の絶えない寺で菩提を弔おうと、芳春尼は、お堂の前に、椿を植えたと伝えられ、今は、その三代目と四代目の椿が、後を継いで、見事な花を咲かせています。

 この椿は、「色まだ盛んなとき、桜の花びらの如く散る椿で、その潔さが若くして没した順慶になぞらえて、「武士(もののふ)椿」の名を得た」といわれています(「伝香寺HP」より)。

 

 この伝香寺は、JR奈良駅から真東に600メートルほどの近場にあります。

 町中にあって、あまり目立つことなく、さりげない感じで存在するお寺ですが、駐車場(有料)も付設してあるので、車で行くのも便利です。

 椿のシーズンなのですが、観光客は見当たらず、貸し切り状態でしたね。

 

 境内に入ると、すぐ、椿の花が迫ってきました。

 最初に見えるのが、4代目「もののふ椿」です。

 おそらく前週あたりがピークだったようですが、それでも、この花の波。

 こちらの大きい椿が、3代目「もののふ椿」ですね。

 散椿が桃色に地面を染めます。

 霊鏡寺散椿のようです。

(6.4.7 霊鏡寺散椿)

 本堂(重要文化財)の前の3代目。

 初代の椿と同じ場所なのだろうと思います。

 波打つ花弁が、ふくよかで、柔らかみのある、美しい椿ですね。

 散際の潔さから、「もののふ椿」と命名されていますが、私には、武辺の凛々しさというよりも、美しい儚さを感じました。母の思いとしては、そうだったのではないかと想像します。

 3代目の根元です。まだ、そこまでの風格はありませんが、「由緒正しき」名椿の系譜を引き継いでいます。

 本堂横の地蔵堂には、「はだか地蔵尊」として親しまれている、裸形地蔵菩薩重要文化財)が安置されています。

 胎内に、十一面観世音菩薩立像や舎利壺とともに、1228年の発願年記が発見され、春日社の本地仏であることがわかったという、歴史の古い客仏です。

 綺麗なお顔が印象的ですが、どことなくなまめかしさも感じる、不思議な魅力のある仏像ですね。もののふ椿の花とよく似合いそうです。

 かたわらには、島左近が筒井家に奉納したとされる「南無仏太子像」が控えています。

 







 

 

 

亀岡「苗秀寺」の椿

1 苗秀寺の対の大椿

 亀岡から丹波篠山へと通じる国道372号線、通称「篠山街道」。

 亀岡市街を抜けて、山あいへと進むと、京の奥座敷といわれる「湯の花温泉郷」へと至りますが、その手前の山すそに古くから開け、街道の宿もあった「稗田野地域」に苗秀寺はあります。

 このお寺は、紅葉の美しい穴場的スポットです。

 もともとは、奈良時代丹波国分尼寺の流れをくみ、寺勢盛んであったと伝わりますが、明智光秀丹波攻めの際に、記録も一切失われてしまったようです。

 亀山藩の山城跡であった現在地に、藩主松平 信岑(1696~1763)が再興したとされ、およそ300年が経っています。

 寺には3つの門がありますが、最初の2つの門は、どっしりとした石の門で、とりわけ2番目の門は「白象門」と名付けられ、佐賀県産の63トンもある花崗岩といいますから、なかなかの迫力があります。

 出家の覚悟を決めてこの門をくぐるべしという、決意の重みを表すそうです。

 「白象門」にはためく旗には、不思議な「世界観」が感じられますが、その左手「薬医門」への、モミジの並ぶ苔むす参道は、山寺の風雅な雰囲気も感じられ、秋の紅葉が映える場所として人気があるというのもよくわかります。


 この「薬医門」をくぐると、法殿前の両脇に、提灯型に見事に仕立てられた椿が対になって植えられています。

 

 枝張りは、どちらも直径5mほどもありそうな大椿です。

 庭木によくある刈り込み方ですが、こんなに大きなものは、これまでの寺社巡りでは見かけなかったですね。

(赤椿)

 

 樹の地面近くを覗き込んでみると、差し渡し30cm以上のがっしりとした幹が立ち上がっています。

(白椿)  

 訪れたのは、3月の上旬と、4月下旬のGWでしたが、3月はまだ花が咲いておらず、GWはほぼ咲き終わりの状態でした。

 右手側の白椿の方は、まだ花がいくらか咲いていましたが、赤椿は、わずかに一輪、二輪の最後の花を残すのみ。それでも、どんな花かを知ることができてよかったかな。

 赤椿の方は、樹下の落椿の様子からは、おそらく開花時には、華やかな紅い模様の毬のような姿を楽しめたことでしょう。

 4月上旬くらいが見ごろと思われますので、また、来年、再訪したいと思います。

 南北朝時代のものと伝わる宝篋印塔です。

2 中庭の五色椿

 お寺の裏手に廻り、中庭をふと見ると、赤と白と絞りの大輪の椿の花が目に入りました。

 株太刀の大枝がくねるように高く伸びた立派な椿の木に、美しい花が咲き分けています。

 幹の太さからして、優に100年以上になりそうなものでしたね。

 濃い灰緑と灰白の斑を持つ独特の木肌です。

 裏庭の静かな空間に、人知れずそっと咲く姿に、金蔵寺の椿を思い起こしました。 

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 この椿は、3月に訪れた時にすでに咲いており、GWには花はなく、若葉に移行していましたので、早咲きの系統と思われます。

3 新緑の苗秀寺

 4月下旬の参道は、すでに一面の青紅葉。

 爽やかな緑陰の中、遅咲きの桜とツツジも見ることができ、新緑の季節を満喫することができました。

 亀岡の名木に選定された、アラカシとモミ

 

 

洛南の椿寺~浄安寺

 久御山町・佐山地域には、前回紹介した雙栗神社とともに、椿で知られる浄安寺があります。

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 境内には、248種類もの椿を数え、寺の名を冠した「浄安寺椿」は、門外不出とされ、ここでしか見ることはできません。

 と言っても、敷居が高いというわけではなく、私のような一見さんにも親切にご案内いただき、昔ながらの地元のお寺さんという雰囲気のあるところです。

 今回は、この洛南の椿寺と呼ばれる「浄安寺」をご紹介します。

1 浄安寺の椿たち

 寺伝によれば、もともとは、1053年に創建された「浄福寺」というお寺を起源とします。

 この「浄福寺」は、雙栗神社が石清水八幡宮の分霊を祀り、椏本八幡宮と呼ばれていた時代には、その神宮寺となっていましたが、次第に衰微していったようです。

 天正元年(1573年)になって、平等院の玄誉徹公上人によって再興され、正親町天皇(在位1557~1586年)により、浄安寺の寺号と勅額を賜ったとされます。

 寺号については、「浄福寺」の「浄」と、同じく神宮寺であった「安楽寺」の「安」を引き継いだらしいと、お寺の方にお聞きしました。

 庫裏の軒下の縁台に、椿の一輪挿しが飾られ、来訪者を迎えてくれていました。

 これだけでも、たくさんの種類の椿があることがわかります。今見頃の花を教えてくれているようですね。

 「椿寺」と呼ばれるだけあって、境内には、椿が所狭しと植えられています。

 このお寺オリジナルの「浄安寺椿」は昔からあったのでしょうが、先代のご住職と、とりわけ奥さんが椿好きで、各所の椿の枝を挿し木で増やしていくうちに、椿寺と言われるほどになったということです。

 寺にある椿のリストには、「小式部」(長福寺)や「貴椿」(法然院)など、原木以外ではお目にかかれないようなものもあります。

 おそらく、いろいろな伝手をたどられて、枝を譲り受けられたのだろうと思います。

  

 境内を回り、椿を楽しんでいましたが、「浄安寺椿」がどこにあるかわかりません。

 呼び鈴を押しますと、現住職の奥様が出てこられ、案内していただきました。

 「浄安寺椿」は、本堂の裏手の狭い通り道にありましたので、これは案内いただかないと見つけるのは難しいかもしれませんね。

 開花が遅いらしく、「まだ咲いていないかも」と仰られていましたが、小柄な白い八重咲の花がちらほらと見えました。

 一輪の派手さはありませんが、満開時には見応えがあると聞きましたので、おそらく多くの花が一斉に咲きそろう姿が愛されてきたのだろうと思いました。

2 茶室「聞名庵」

 ネットの情報で、松花堂昭乗が好んだ手水鉢があるとあったので、あわせてお聞きすると、庫裏の奥にある茶室と中庭に案内いただきました。

 茶室には、先代住職の奥様の妹さんがおられ、手水鉢以外にも、お寺の縁起など、いろいろとお話していただきました。

橋桁に使われていた石を利用した手水鉢と聞きました。

 この茶室は、「聞名庵」といい、京都市長を務めた第8代京都市長の安田耕之助(1883年~1944年)の別邸内にあったものを昭和52年に移されたそうです。

 中庭の燈籠や井戸もあわせて移されたとのこと。

 大きな白侘助が枝を広げ、紅侘助も傍らに植えられていました。

 もう花は終わっていましたが、少し前まで茶室から楽しんでおられたということです。

 縁側には、椿花が飾られ、つばきに囲まれて暮らされている様子でした。

3 本堂の椿の一輪挿し

 再び本堂へと戻ると、今、涅槃図を開帳しており、ご住職がお話しいただけるとのことで、喜んで、堂内に上がらせてもらいました。

 お堂には。様々な品種の一輪挿しが並んでいます。

 花器も、備前信楽唐津など、各地の焼物を収集されたとのこと。

 先代の頃から始められたこの椿のお供えは、今も、毎年の行事として続けられているのですね。

 涅槃図の開帳は、3月いっぱいまでということで、ちょうどタイミングが合いました。

 涅槃図に描かれているものの意味や教えをはじめ、お寺の椿に関わるお話を聞き、住職が撮影された椿のアルバムも見せていただきました。

 ほかにも、いろいろと興味深いお話をうかがいましたが、扁額の「浄安寺」の鳥字は面白かったですね。

 字の中に鳥の姿が隠されているのですが、それと教えてもらわないと見過ごしてしまいます。

4 境内あれこれ

 境内右手にひっそりと建っている観音堂は、明暦年中(1655~1658年)に浄福寺から引き継いだものと言われています。

 堂内には、平安時代後期、仏師・康尚の時代の作風が現れているとされる、欅の一木造りの聖観音菩薩立像が安置されています。

 少年のような顔つきの見目麗しい仏像らしく、年に一度、8月に開扉され、その姿を拝むことができます。

 ご住職のお話を聞くうちに、降り続いていた雨も小やみとなり、最後に境内をもう一回りすると、本堂左手奥に、巨大輪の紅い椿が咲き誇っていました。

 

 

 これは「唐椿」で、平等院塔頭・最勝院の名木の挿し木を育てたものだそうです。

 玄誉徹公上人が平等院からこの地へと至り、お寺の中興の祖となったという寺伝にふさわしい椿ですね。

 久御山町は、あまり観光地というイメージはなく、浄安寺も椿シーズンに取り上げられることもありますが、大挙して人が押しかけるということもないようです。

 椿を見ながらのんびりと時間を過ごせる、椿好きにとっては、幸せな気持ちになれるお寺です。

 

 

久御山町「雙栗神社」の椿林と黒椿

 京都市伏見区南部の淀・向島から久御山町にかけては、山城盆地の底にあたり、かつては、桂川宇治川、木津川の三河川が合流し、流域が網の目状に分岐する低湿地帯が広がり、800ヘクタールにも及んだ遊水池「巨椋池」が存在しました。

 この地域は、時代を遡ると、豊臣秀吉による大規模な築堤工事から始まり、明治から昭和の初めにかけて、治水、衛生、農業振興のための改造、開発が行われ、昭和16年には池の干拓が完了し、今では田園や工場地へと姿を変えています。

 京滋バイパス久御山ジャンクションから東の「巨椋IC」付近は、一面、平坦で広大な田地が広がり、巨椋池の在りし姿を想像させます。

 久御山町は、昭和29年に、池の西側に位置した御牧村と、南側の佐山村が合併して誕生しました。佐山地域は、弥生時代の遺物が出土するなど、早くから農耕が営まれ、平安時代後期以降、水上交通が発展すると、物資流通の拠点の一つとして、経済的に力を蓄えるようになったと考えられています。

 佐山地域の中心に鎮座する雙栗神社の周辺には、今でも多くの寺が残り、藤原時代から鎌倉時代にかけて、薬師如来坐像をはじめとする幾体もの半丈六(四尺)仏が集中して造られるなど、財力を背景に、文化的にも開けた土地であったことがうかがわれます。

 この雙栗神社の社叢には、藪椿の群林が見られるとともに、なかでも、「黒椿」と呼ばれる濃紫色の椿があると知り、探訪に出かけてまいりました。

1 雙栗神社の鮮やかな本殿

 雙栗神社は、延長5年(927年)にまとめられた全国の神社一覧である「延喜式神名帳」に載る古い社で、天安2年(858年)から仁和3年(887年)までの三代にわたる天皇の時代の国史である「三代実録」の貞観元年(859年)の条に見える「雙栗神」であると考えられています。

 ところで、久御山町には、町域外にぽつんと数キロ離れた、飛び地ファン?に知られる場所があります。

 そこは、宇治市と宇治田原町にまたがる山間地にある「三郷山」で、古来、雙栗神社の宮地として、佐山地域の佐古、佐山、林の三郷が共有管理してきました。

 一方、宇治田原町には、雙栗天神社という古社があり、田原郷の氏神が降臨されたという岩山を祀って鎮座していますが、三郷山は、この岩山にほど近く、氏神さまが「雙栗神」であるとすれば、佐山三郷のルーツは、田原郷ではないかと言われています。

 飛び地の謎解きというのも、なかなか面白いですね。

 中世以降は、石清水八幡宮の分霊を祀り、椏本(あてもと)一品八幡宮と呼ばれ、5つの神宮寺が設置されましたが、明治の神仏分離廃仏毀釈の流れの中で、神宮寺は廃止され、雙栗神社の名称に戻りました。

 境内は、L字を倒した形で、西の大鳥居から長い参道が続き、90度に北に折れて、本殿へと向かいます。

 神社を囲むように、府営東佐山団地やUR久御山団地が建ち並んでいるので、神社の西の入口を見つけるのに少し迷うかもしれません。

 誰もいない静かな参道からは、古色蒼然としたお社をイメージしていましたが、目の前に鮮やかな彩色と彫刻に飾られた朱塗りの本殿が現れて、少し驚きました。

 

 室町時代末、明応3年(1494年)頃のもので、重要文化財指定を受けていますが、昭和55~56年にかけて塗替えと根の葺替えが行われ、令和4年度には、再塗替えと金具工事などが施されたばかりなので、往時の荘厳できらびやかな姿を見ることができます。

2 藪椿の群林と黒椿

 この本殿の周りを中心に、多くの椿が林立しており、紅い花を咲かせ、落ち椿が地面を染めています。本殿の朱色が色移りしたようです。

 

 椿たちは、自然のままに育っているので、高木となり、相当の巨樹になっているものも多くあります。

 あいにくの雨でしたが、椿の木肌が濡れると、独特の質感が一層味わい深く感じられましたね。

  

 お目当ての「黒椿」は、本殿裏に立っています。

 思ったよりも細い椿でしたが、ちゃんと表示柱があるので、すぐにわかりました。

 高く伸びている先に数輪咲いているようでしたが、かなり遠目だったので、花形と色合いを間近に見ることはできませんでした。八重咲の黒椿なのか、藪椿の中でも色の濃い選抜種なのかどちらなのでしょうか。

 そばの椿にも、濃い花色をしているものを見かけました。

3 椿と大クスノキ

 社叢にひときわ高く聳え立つのが、御神木のクスノキです。

 樹高30m、幹回り535センチもある巨木で、樹齢は400~500年と推定されています。

 根元には小さなお稲荷さんの祠が祀られています。

 クスノキの巨樹といえば、太い根が地表を這い、凹凸に富む幹というイメージですが、このクスノキは、すっと真っ直ぐな立ち姿が非常に美しいですね。

 「京都の自然200選」(植物部門)に選ばれ、町の天然記念物に指定されています。

 境内に群れて生える椿は、ほとんどが藪椿で、濃い緑に、紅い花が灯のようにうつります。藪椿といっても、色の濃淡、形や大きさも異なり、椿好きには楽しみの多いスポットでおすすめです。

 雙栗神社の近くには、洛南の椿寺として知られる「浄安寺」もあります。

 八幡市の椿名所も含めての椿巡りツアーを組んではいかがでしょうか。















 

 

 

 

 

 

 

 

 

百毫寺「五色椿」を訪ねる~奈良銘椿①

 奈良市の東部、北の春日山、西の高円山の麓に位置する「高畑」は、春日大社の社家町の名残を残す風情ある街並みを楽しめ、新薬師寺や百毫寺など「個性的」な名刹に出会える、散策に好適なエリアです。

 やや山手の高台にある「百毫寺」には、奈良三銘椿の一つとして名高い「五色椿」があります。

 桜もようやく咲き始めた、3月最終週の土曜日、奈良の銘椿を訪ねて、まずは「百毫寺」に行ってきましたのでご紹介します。

1 百毫寺の石段を上ると眼下に広がる奈良のまち

 百毫寺へ行くには、バスの本数も限られているので、車ということになると思いますが、かなり入り組んだ狭い道を進んでいくことになります。

 寺には駐車場がありませんが、門前近くの民間の青空駐車場に停めることができます(1回700円)。

 石段を上がり、初めの門をくぐると、両脇に椿垣の続く石段が100段あまり山門まで続いています。

 見上げると、ところどころに紅い花が、足元には落ち椿がはらり。

 椿の有名な寺らしさに期待が高まります。

 段の一番上近く、右手に大椿が梢を伸ばしています。

 ようやく石段を上がり、おもむろに後ろを振り返ると、奈良の市街がパノラマのように広がっています。思わず感嘆の声を上げました。これはサプライズでしたね。

2 奈良三銘椿の一つ「五色椿」

 境内に入ると、そこかしこに椿の樹々があります。

 まずは、「五色椿」に御対面です。

 この椿は、寛永年間(1624~1645年)に興福寺塔頭喜多院から移されたものとされ、400年の樹齢を誇ります。

 3月の寒さもあり、開花が少し遅いようですが、いくつか花を咲かせてくれていました。

 白地に桃色の縦絞りが入った花、紅い花が見れましたが、咲き進むと、名前の通り、多彩に咲き分けていくのでしょう。

 蕊の一部が花弁化している八重咲で、豪華というよりも、上品な花という感じがしましたね。落ちている椿は、花弁がバラバラになっていませんでしたが、散椿系統ではないのでしょうか。

 根元からの最初の枝分かれのところに空洞が見えるのが気になりましたが、樹勢が衰えているという様子はなかったですね。

 奈良だけでなく、全国レベルに名高い椿だけに、できるだけ永らえてほしいものです。

3 樹齢500年の「白毫椿」

 「五色椿」の隣、一段上に、実に立派な椿の巨木が堂々とした姿を見せています。

 もともと多宝塔が建っていたという場所にあり、「白毫椿」との命名がされています。

 藪椿ですが、花にわずかに白い斑が入るさまを、仏さまの白毫になぞらえて、椿の大家である渡邉武博士が名付けた椿です。

 太く重量感ある幹、横に広がる力感あふれる枝が深い皺を刻み、年季の入った椿独特の「霊力」さえ感じられる存在感ある大椿です。

 樹齢は推定500年、「五色椿」をしのぐ最古参のもので、知名度は「五色椿」に座を譲るものの、「白毫椿」は、名前、樹齢、樹容といい、名椿として屈指のものであると思います。

 確かに白斑が入っています。可愛らしいですね。本当にぴったりのネーミングです。

4 境内の椿たちと仏像

 名づけのある椿たち。

 「八重白椿」

 「五色椿」「白毫椿」と並ぶため目立っていませんが、これもなかなかの巨木です。

 残念ながら、まだ花を見ることができませんでした。

 「緋車椿」

 本堂の左前に据えられた、樹形の整えられた椿です。これもセンスある、いいネーミングです。

 確かに、シンプルですっきりした造りですね。

 ほぼ180度の展望が楽しめますが、いかんせん、訪問日には黄砂が来襲していたということで、遠景はもやがかかってしまいました。残念。

 それにしても、椿の多いこと。それも相当の巨樹があちこちに。

 加えて、「百毫寺」には、平安時代後期から鎌倉時代にかけての作で、重要文化財に指定されている仏像も数多く宝蔵に納められています。

 なかでも、閻魔王とその眷属である司命・司録像と太山王が有名です。

 太山王は、運慶の次男の子と伝わる康円の作、閻魔王一族は康円一派の作とされています。

 司録は、右手に筆をとり、左手に持つ木札に裁きの結果を記す姿で現されますが、この百毫寺の司録像のポーズが一番格好よく決まっていると、私は思っています。

 椿だけでなく、見晴らしを楽しめ、仏像の名品を見ることもできる、百毫寺は、お値打ちなところだと実感しました。

 「子福桜」は咲き終わりでした。

 再度、パノラマを楽しみつつ、石段を下りていきました。


5 鏡神社の椿

 吟松・高畑本店で、天ざるの昼食をとった後、界隈を散歩してきました。

 新薬師寺までは、土塀が似合う静かな小径です。

 新薬師寺の通用門です。

 十二神将は大好きなのですが、今回は、新薬師寺は門前を通るだけにして、隣にある寺の鎮守社である南都鏡神社をお参りしました。

 大きな藪椿が静かに花咲かせていました。

 鎮守の椿として親しまれているのでしょうか。不思議と心惹かれました。