1 大徳寺の椿散策
今年の京都の冬は、雪も何度か積もり、底冷えのする寒さも続き、冬らしい冬だったですね。
2月の月末の土曜日、まだまだ冷え込みの強い日となりましたが、「京の冬の旅」の非公開文化財特別公開の初お目見えとなる「大徳寺 三玄院」を訪れるとともに、広大な寺域を、椿を探して散歩することにしました。
今回も、素晴らしい椿との出会いもあり、やはり、大徳寺は椿の宝庫であり、訪れるたびに、その「引き出し」の多さを感じさせるところだと思います。
2 「三玄院」の椿
「三玄院」は、天正17年(1589年)、浅野幸長、石田三成、森忠政の三人が、春屋宗園和尚を開祖として創建したものです。
これをきっかけとして春屋宗園和尚と石田三成の縁は深く、三成の請いにより、和尚は、三成が母の菩提を弔うために佐和山城内に建立した寺に住持を送りましたが、住持の弟子として同行していたのが、かの沢庵和尚であります。
関ヶ原の戦いの後、沢庵和尚は、佐和山城から落ち延び、三玄院に身を寄せ、三成の処刑後は、春屋宗園和尚とともに、遺骸を引き取り、三玄院に丁重に葬ったとされています。
明治40年に、三成の墓の調査が行われ、発見された遺骨から、三成が華奢な体格で、いわゆる才槌頭で、反っ歯だったとされたということは、よく知られています。
午前10時の開門時、20人近くの方が、門前に。
受付のところからは、一切撮影禁止でした。
まずは、方丈の室中の部屋(春屋宗園和尚を祀る仏間)に案内され、原在中が描いた、虎と龍の襖絵を観覧しました。
この虎は、「八方にらみの虎」と呼ばれ、確かに、どこから見てもこちらを睨んでいるように見えました。
方丈前には「昨雲庭」の枯山水庭園が広がります。
向かって左側奥にある「滝石」から、水が流れ出し、大海へと広がる様子を表す庭ですが、その滝石の後ろの植え込みには、椿の木が何本か見えます。
渡辺武氏の「京椿」には、三玄院の銘椿は、「やすらい椿」「赤玉」と記されており、これらの椿のいずれかかもしれないと思いつつも、まだ花が咲いておらず、判別できませんでした。
案内ガイドの方にお聞きしましたが、流石にマニアックなことなので、ご存じありませんでした。
他の庭にも多くの、椿が植えられており、茶室を回ったところの中庭には、おそらく「胡蝶侘助」と思われる大木がありました。
三玄院の北側の塀越しに見えたいくつかの椿をご紹介します。
ピンク色の優しい花です。「曙」でしょうか。
上の白い椿の隣で咲く紅い椿です。
花弁がお椀状に開き、雄蕊もやや開き気味です。
(追記)滝石の後ろの植え込みの椿の一つです。遠目ですが、「日光」椿です。
屋根瓦の菊模様を見ても、手の込んだつくりとなっているのがわかりますね。
3 「総見院」の胡蝶侘助
三玄院の北向かいの「聚光院」の西側には、秀吉が信長の菩提を弔うために建立した「総見院」があります。
ここには、秀吉が利休から譲り受けて植えたものと伝わる「胡蝶侘助」が有名で、400年の歴史を生き延びた、京都の椿を代表するものの一つとして、大切にされていました。
1982年の調査では、樹高6.4メートル、根回り周囲1.83メートルという巨木でしたが、当時から、樹勢の衰えが進んでおり、惜しくも主幹は枯れてしまいました。
ただ、当時の調査に、「主幹の南約20センチのところに萌芽(直径8センチ、樹高2.2メートル)がでている」とあり、この萌芽が、この歴史ある銘椿を引き継ぎ、成長しているということになります。
この日は、まだ、開花しておりませんでしたので、また日を変えて訪問したいと思います。
(追記)再度訪問も花を見られず。蕾もわずかで、今年は、花の当たり年ではなかったのでしょう。
かつての幹が除去されずに、往年の姿をとどめています。
総見院前の椿垣に、一輪だけ、綺麗な藪椿が。
4 「龍翔寺」の竹垣越しの椿
さらに、西へと進むと、「龍翔寺」が見えます。
「龍翔寺」の竹垣越しの藪椿です。この辺は、観光客もあまり歩いておらず、静けさ漂うなかで、はっとする鮮やかさを見せてくれます。古竹のくすみと、椿の木肌、濃い緑に浮かぶ紅と薄黄のアクセントは、絵になりますね。
竹藪を背景に、藪椿一輪。
5 「高桐院」の有楽椿
「三玄院」の一筋西側には、細川家の菩提寺「高桐院」があります。
この塔頭も、椿の名所であり、細川三斎とガラシャ夫人のお墓の近くに「雪中花」と「いほく」、楓の庭には「天津乙女」があるということですが、残念ながら、コロナで当面拝観休止となっています。
門は、この石畳の道を曲がって見えてきます。木立の静謐さを感じますね。
塀越しに、竹林をバックに「有楽」が咲いていました。
拝観休止が解けるのを心待ちにしています。
6 「玉林院」の美しき椿
「高桐院」の南側には、「玉林院」があります。
「玉林院」は、戦国、安土桃山時代に活躍し、日本医学中興の祖とも称される曲直瀬道三(まなせどうさん)を供養するため、慶長8年(1603年)に創建されたものです。
ちなみに、私は、この曲直瀬道三なる人物を知らなかったのですが、近代的な診断方法を導入し、先進的な中国医学を活かした医療を進め、正親町天皇、足利義輝、信長、秀吉、家康にも重用され、さらに、京都に医学校、「啓迪院」 (けいてきいん) を開いて門人を育成し、当時の医学界に君臨したという、医のオールラウンダーであったようですね。
大徳寺の塔頭は、大名関係ばかりと思っていましたが、「玉林院」は、曲直瀬家による創建ということで、大名に匹敵するくらいの相当の格式を持っていたのでしょう。
「玉林院」は、拝観謝絶ですが、門を入ったところに、素晴らしい椿の巨木が佇んでいました。
ふんわりと柔らかな薄桃色の花弁が、何とも気品があり、思わず見惚れる美しさでした。花弁と同じくした、葯の色合いも本当に綺麗ですね。これまで見てきた椿のうちでも、屈指のものだと思います。
幹周も1メートル近くあるのではないでしょうか。年期を経た風格のある樹容です。
思いがけないところで、このような椿に出会え、あらためて、大徳寺が椿のメッカであることを再認識いたしました。
赤松と楓の間の藪椿。
7 大徳寺一久の暖簾をくぐり、大徳寺納豆を求める
さて、京都にかれこれ40年以上暮らしていますが、今まで大徳寺納豆を食したことがありませんでした。甘納豆のようなお菓子なのかと思っておりました。
今回、大徳寺に面して、北大路通近くにある老舗「大徳寺一久」の暖簾をくぐり、試食させていただくと、柔らかい塩辛さの後に、梅干しのような酸味が口中に広がり、同時に濃厚な旨味が押し寄せるという、実にインパクトのある風味に驚きました。
日本酒によく合うと思いますし、料理の隠し味、薬味としても利用できるし、500年の歴史ある発酵食品として、体の調子を整える効果がありそうです。
たまたま、晩御飯が雑炊でしたが、一粒いれるだけで、存在感を発揮し、おいしくいただきました。
ご主人からは、ここは、もともと大徳寺に野菜を納めていたが、秘伝の製法を伝授された大徳寺納豆だけでなく、寺の料理方として、精進料理を賄うなど、寺とともに500年の歴史を歩んでこられたことをお聞きしました。
このような歴史と伝統の重みが、大きな付加価値につながるのが、京都ブランドの強みであると実感いたしました。
大徳寺納豆に、庭の椿を飾ってみました。
上から、「松波」、「千羽鶴」、「玉の八重曙 」です。