修学院離宮の大パノラマ。客殿の脇に咲く椿。

1 王朝の山荘テーマパーク「修学院離宮

 京都には、西に「桂離宮」、東に「修学院離宮」の二つの離宮が現存し、ともに、およそ400年前の江戸時代初期に、平安時代の王朝文化の再現を図ろうと、「桂離宮」は後陽成天皇の弟の八条宮智仁親王、そして「修学院離宮」は後水尾上皇が造営したもので、宮内庁京都事務所が管理しています。

 この名だたる離宮のうち、今回は「修学院離宮」を2月4日に訪れました。

 事前に申し込みを行い、抽選により許可が下りると、当日は、時間帯に分けて、職員さんのガイド付きの見学ツアーのグループに参加するかたちで、離宮を一通り案内してもらえます。

 9時発の朝一番のツアーでしたが、早くから、入口の門前には、制服を着た職員さんがチェック体制を整えておられます。

 許可書と身分証明書を確認され、休憩所でツアーの開始を待ちます。さすがに、宮内庁管理ということで、厳重な手続きで、役所に入る時のような「緊張感」を少々感じましたが、職員さんは丁寧ですのでご安心を。

 この修学院離宮は、東山山麓の高低差のある丘陵に設置され、54万5千㎡という、京都御所の約5倍に及ぶ途方もない広さを有しています。

 上、中、下の御茶屋から構成され、それらをつなぐ松の並木道の両側には田んぼが広がり、また、一番高いところに位置する上茶屋は、差し渡し350メートルを超える、巨大な人造の堰き止め池「浴龍池」の中島に造られているなど、選び抜かれた土地の特性を活かし、取り込んだ、雄大な「王朝の山荘テーマパーク」ともいうべきものだと思います。

 ただ、建物自体は、王朝絵巻のような絢爛華美というよりも、質実簡素かつ機能を絞り込んだ、無駄のない洗練さを感じさせます。

 それでは、ツアーの順路に沿って、離宮に入りましょう。

2 下離宮

 板戸の御幸門から、下離宮に入ります。

 中門の向こうには、庭園が開けます。洛北らしく、まだ、先日の雪が残っていました。

 下離宮の「寿月観」です。

 右側「一の間」の床の間の前の上段は、上皇が座られる場所となります。

 「一の間」から直角に折れて「二の間」「三の間」が造られています。「二の間」の杉戸の絵は夕顔で、作者不詳とのことですが、つつましやかながらも、緑が映え、心惹かれます。

 下離宮の東門から出ると、比叡山を望む広大な光景が、いきなり眼前に広がり、圧倒されそうになります。

3 中離宮と椿

 高さを抑えながら形を整えている松並木の道を通って、中離宮へと向かいます。

 「客殿」横には、今回唯一、開花していた藪椿を見ることができました。

 中離宮は、一番多く、椿を見かけました。樹形を見ても、随分と手がかけられているのがわかります。

 「一の間」の飾り棚は、棚板が霞がたなびくようだとして「霞棚」と称され、桂離宮の桂棚、三宝院の醍醐棚とともに、天下の三棚と呼ばれているそうです。壁に貼ってある和紙には、和歌や漢詩が記されているとのことですが、名だたる棚を損ねないよう、配置のバランスにも気を使ったものと思います。

 杉戸には、祇園祭の鉾、鯉の絵が描かれています。この鯉は、夜な夜な、庭の池に逃げたということから、網を書き加えて閉じ込めたとの伝承があります。

 客殿は、内親王のお住まいだったこともあり、優しい雰囲気があり、装飾が最も凝っていました。

 

 中離宮に隣接して、「林丘寺」があります。

 このお寺には、後水尾天皇お手植えの「白侘助」があり、ぜひ見たい銘椿なのですが、コロナでしばし拝観中止となっており、再開を待っている状況です。

 「白侘助」は早咲きなので、もしかしたら塀越しにでも、この機会に見れるかなと期待していたのですが、残念ながら門は閉じられていました。

4 上離宮と眼下に広がる大パノラマ

 気を取り直し、中離宮を後にして、再び、松並木を登り、上離宮へと向かいます。

 坂を上がった頂上に「隣雲亭」が現れます。

 ここからの眺望は、まさに、絶景というべきパノラマが広がります。

 北は、鞍馬、貴船、西は、愛宕、そして、西山連山を一望し、京都市街を眼下に、南は天気の良い日は、あべのハルカスまで見ることができるそうです。

 北の山々を望みます。

 この「浴龍池」は、掘削ではなく、谷川の流れを、200メートルに及ぶ堤防を築造して、堰き止めたものです。京都盆地全体を借景にするという、何とも壮大な庭園ですね。

 愛宕山から西山連山、市街を望みます。

 実にシンプルな「隣雲亭」。この縁側に座って、遠大な景色を眺めることができます。三和土には、1個、2個、3個と小石が並べられ、「一二三石(ひふみいし)」と呼ばれています。

5 「浴龍池」を回遊

 「隣雲亭」から降りて、池の回りを回遊していきます。

 しばらくすると、浴龍池に浮かぶ中島と「万松塢(ばんしょうう)」という名の島をつなぐ「千歳橋」が見えてきます。

 いかにもフォトジェニックなスポットですが、もともと離宮にあったものではなく、1824年から1827年にかけて建造されたもので、宮内庁のパンフレットでは、「いかにも中国的な感じで自然に溶け込まず違和感があるが、それもまたアンバランスの美といえる」と、やや突き放したような記述があるのが面白いです。

 水野忠邦が屋形部分を寄進したとされていますが、彼は、審美眼をあまり持っていなかったとの評価でしょうか。でも、我々素人目には、写真映えするところですよね。

 中島に架かる「楓橋」です。その名の通り、紅葉の頃は、大変美しく彩られる中を渡ります。

 中島の頂上にある「窮邃亭(きゅうすいてい)」です。創建当時から残るもので、扁額は、後水尾上皇の宸筆です。

 上段の窓は、上部を軸にして障子を外側に開く設えとなっており、外の景色を存分に楽しめるよう、開口部を大きくしてあり、開放感があります。ガラス窓のない時代の工夫なのでしょう。

 西側窓下には、長さ二間の欅の肘掛板が誂えてあり、上皇が、ここで肘をつきながら、池を巡る四季折々の風景を楽しまれたところです。

 屋根に、菊の御紋の宝珠がのっています。

 かつては、池の水深はもっとあり、二階建ての遊覧船による舟遊びが行われたと、ガイドの職員さんが仰っていました。

6 堤防と「大刈込」

 池の水を堰き止めている堤防です。「大刈込」を間近で見ると、このようです。

 堤防は、石垣で強固にされていますが、そうとはわからないように、三段の生垣と「大刈込」で覆われています。

 昭和13年の調査では、47種の樹木と、後年混入した19種の樹木が混栽されているとされており、混入したもののうち、柿やネムノキなど、枝葉が疎らになりがちなものは除去して、均斉の美を保つべしと記されています。(「修学院離宮上之御庭大刈込の樹種」丹羽鼎三氏より)

 緻密な垣根の維持に、多大な労力と時間をかけてこられたことと思います。

 桜が咲くと、一段と美しい光景になることでしょう。

7 見学ツアーを終えて

 今回は、椿よりも、庭園の壮大さに、ただただ、驚くばかりでした。

 それにしても、これほどの規模の離宮を造営できるほど、上皇の力は大きかったのでしょうか。

 後水尾天皇は、幕府権力の強化の中で、朝廷の権威と、それを統制下に置こうとする幕府とのせめぎ合いが激化した渦中の天皇であり、幕府の干渉に不本意で、心収まらない日々が続いていたことと思われます。

 離宮造営は、幕府としては強硬策だけでなく、上皇や朝廷の懐柔策としての意味もあったものと推測されますが、上皇もそれをわかりつつ、文化を受け継ぐ権威者として、侵されない境地を矜持をもって示そうとされたのではないかと思います。

宮内庁ホームページより