1 久々の雪景色の松尾大社
先週の1月25日は、10年ぶりの強烈な寒波による風雪が列島を吹き荒れ、京都でも市内で14センチという、久々の積雪となりました。
この日以降も、日中の気温が上がらず、土曜日になっても雪が融け切らないままなので、遠出は控えて、近場の松尾大社を訪れることにしました。
金曜日の夜半からは再びの雪模様で、山沿いということもあってか、意外なほど雪が残っており、寒さに凍えながらも、雪景色を楽しむことができました。
楼門は檜皮葺のため、雪が柔らかく積もりやすそうな気が。白い屋根が、漆喰の白壁とよく似合います。
2 「一の井」ほとりの藪椿
お参りをした後、境内をぐるりと椿探索しましたが、残念ながら、これはという椿には出会いませんでした。雪と椿という絶好のショットを撮れるチャンスと意気込んでいたのですが、事前のリサーチが不足してましたね。
神苑の方も、受付の方にお聞きする限りでは、椿はなさそうな感じでしたので、今回は神苑はスルーさせていただき、大社周辺を少しぶらついてみることにしました。
菰樽が並ぶ「神輿庫」の裏手に、渡来氏族の秦氏が開削したと言われる「一の井」が流れていますが、その土手に、一本、開花し始めている藪椿がありました。
水曜日からの雪に痛みが目立ちながらも、紅色に咲く花を見ると、わずかながら、春の兆しも感じ取れます。
3 月読神社へ
大社から南へと山沿いの道を進むと、松尾大社の摂社である「月読神社」が見えてきます。
御朱印授与所の前には、有楽椿が咲いており、枝には、御神籤が結わえられていました。
境内林に混じって、咲く有楽椿。
境内には、「月延石(つきのべいし)」と呼ばれる石が祀られており、この石をおなかにあてたおかげで、神功皇后が応神天皇を安産できたという伝承があり、昔から、安産祈願の参拝がされています。
私が訪れた日は、ちょうど、安産を祈る「戌の日まいり」の日だったため、何組かのご夫婦が、御祈祷を受けに来られていました。
月読神社に行く途中、「一の井」と交差する道際に、縦横2メートルほどにこんもりと刈りこまれた椿があり、ふと根元を見てみると、これが太いことにびっくり。
1メートルを超えそうな幹周だけに、元はかなりの巨樹であったと思いますが、通行の支障か何かの理由で、寸胴切にされてしまったのでしょう。枯れずに芽吹いて、このような形状になっているようですが、椿らしい再生力の強さを見せています。
桃色の蕾がついており、藪椿ではなさそうですが、また通りかかる機会に確かめておきましょう。
4 松尾大社、月読神社と秦氏
松尾大社は、飛鳥時代、大宝律令が制定された大宝元年(701年)に、文武天皇の勅命により、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が社殿を造営したと言われる、大変に歴史の古い神社です。
大社の祭神は二座あります。
一座である『大山咋神』(おおやまぐいのかみ)は、社殿のできる前代から、在住の人々が、松尾山の霊を、暮らしを守っていただく神として崇め、祀ってきたものであり、もう一座である『市杵島姫命』(いちきしまひめのみこと)は、航海の安全を守る、九州の宗像三女神の一神であり、秦氏との関係が深い神です。
5~6世紀にかけて、この地に集団で移住してきた秦氏が、従来から信仰されてきた松尾山の神を氏神として崇めるとともに、大陸文化と技術を携えて海を渡ってきた一族のシンボルとして、航海の守護神を祀ることにより、誇りと気概をもって、一族が団結して、開拓に取り組んだことが想像できます。
また、月読神社の歴史は、松尾大社よりもさらに古いとの伝承があり、その祭神は、壱岐の国から移された『月神』(海の干満をつかさどる神)となっています。この移転についても、秦氏が関わっていた可能性が強いとされています。
『市杵島姫命』も『月神』も海の神ですが、桂川の治水の大事業に当たって、水の守り神として、安全と成功を祈願する意味もあったのではないかと、気ままに空想しています。
松尾山一帯は、両神社だけでなく、古墳が集積し、秦氏によって開かれた水路が今も流れるなど、古墳時代からの歴史が、ところどころに息づいています。