
秋恒例の「京都非公開文化財特別公開」を毎年楽しみにしていますが、令和7年のラインナップで、「これは行かねば」と喜んだのが「大聖寺(だいしょうじ)門跡」です。

大聖寺は、京都の尼五山の筆頭に置かれた景愛寺の子院として、歴代24人の内親王が住持を務めたという由緒格式の高い尼寺で、滅多に拝観の機会がないのですが、今回は、5年ぶりの公開となりました。
比丘尼御所は、宝鏡寺、霊鑑寺をはじめ、椿の名木の「宝庫」でもあり、大聖寺にも「侘助」、「玉兎」など、大切に引き継がれてきた椿があるということで、椿好きにとっては是非とも訪れたい場所の一つです。
花咲くシーズンではありませんが、銘椿の姿を見られたらとの思いで、10月31日に行ってまいりました。
烏丸今出川を少し上がると、烏丸通りの西側、同志社大学の「室町キャンパス」の南に、白線五線の築地塀に囲まれた緑豊かな一角が現れます。
賑やかな洛中で、同志社大生が行き交う中に、静かで時の止まったかのような歴史ある空間が当たり前のように同居しているのは、いかにも京都らしい雰囲気です。
寺塀は、南面と東面に概ね70mに渡り、敷地は、ほぼ正方形です。
この地に移ったのは、1697年(元禄10年)頃で、延宝三年(1675)の大火で焼け野原となっていた聖護院門跡の跡地であったそうです。もともと、足利義満が、御台所・日野業子の叔母で、宮中に大きな影響力を持っていた日野宣子(法名:無相定円)のために、室町の「花の御所」内に建てた「岡松殿」を寺化したものということなので、創建の地へと里帰りしたわけですね。
立派な薬師門をくぐって、ニューイングランド風の同志社大学寒梅館を向こうに見上げながら、寺玄関へと進みます。いつもは、ここまでで門が閉ざされているのですが、初めて中に入ることができました。
玄関から本堂をつなぐ渡り廊下を通って、本堂へと。
本堂は、昭和17年(1942年)に、青山御所の表御殿の部材を移して建築されたもの。40坪ほどの建築面積の小ぶりな堂で、北側の室は仏間となり、南側の室は、大きな床の間を備えた「貴人の間」となっています。
その名にふさわしく、色とりどりの花々と優雅に飛び交う鳳凰を描いた「瑞鳥瑞花図」を背後に、いかにも貴人にふさわしいクラッシックな明治天皇の椅子が飾られていました。明治12年の製作で、イタリアの生地を使用したものだそうです。

本堂から、「枯流れ」の庭園を眺めると、南から東へと、小石の川が流れ、2つの石橋が架かっています。本堂東南角近くの川の淵だまりに面した築山に、石燈籠と大きな椿がありました。幹径20センチくらい、高さは3~4メートルほどで、本幹のほかに根上がりの株が2本伸びていました。大木ではないのですが、丁寧に樹形が整えられ、庭の大事なポジションを占めています。
お聞きすると、胡蝶侘助とのこと。京都府立植物園の椿展に出品されているのは、この椿なんですね。可愛らしくて上品な花は、高貴な庭を彩るにふさわしい椿です。

本堂北東角の廻り縁沿いには、椿垣が設えられていました。これは「西王母」とのこと。早咲きなので、もう咲き始めたとのことでしたが、この日は見つけることはできませんでした。新しく植えられた苗木もあり、庭の主木の一つとして椿を大事にされているのでしょう。
続いては、宮御殿。光格天皇の皇女・普明浄院宮が寺に入られた際に建てられた、約200年前の御殿です。
西側の棟は、四室を囲むように巡る畳縁から、室内の様子を見ることができました。江戸後期の絵師・望月玉川の描く鹿、鶏などの襖絵が飾られる各室には、宮が日常おそばに置かれた道具類や愛玩された人形などが展示され、他の比丘尼門跡とも共通する独特の文化世界を垣間見ることができます。
普明浄院宮は、わずか11歳で夭折。疱瘡によるものと言われています。華やかな牡丹の間には、宮の形見となった小菊の小袖が懸けられていますが、そう聞くと哀しさも感じましたね。存命中に描かれることなく残された下書きをもとに、昭和になって御所絵師が、牡丹の襖絵を設えたとのエピソードが心に残りました。
宮御殿と、その西に連なる茶室「残月亭」とに囲まれた庭に、大きな椿が二本。
副住職から、手前側の木が、光格天皇の后宮の名付けの「玉兎」とお聞きしました。白花の中心を、花弁が柔らかく宝珠のように包み込む優しく愛おしい椿です。奥側の木が「秋風楽」とのこと。
ほかにも、黒椿、奈良椿(朴白系とのこと)、「五節の舞」との名の椿をお聞きしました。
実は、大聖寺の椿の多くは、南面築地塀沿いに見ることができます。この椿群は、意外に、内側からはあまりよく見えません。春の盛りには、南面の路地から築地を見上げると、美しく咲きそろうことだろうと思います。この中にも、「玉兎」があるようです。ほかにも、名代の椿があるのですが、また、春の拝観の機会があることを楽しみにしておきましょう。




京都園藝倶楽部発行の会誌(第8号:昭和42年発行)に、花山院慈薫門跡が「大聖寺のツバキ」という随想を寄せておられます。「小町」という紅白咲き分けの椿、仁孝天皇の御供華の一枝を挿し木した「トウツバキ」、赤い八重に白まじりの、美しいが頭重たげで活けるのに一苦労という「九重」や、名椿と交配してできた新種の椿など、庭に咲く様々な椿を紹介されています。
「枯れてしまった花も思い出の中に時おり匂う。真紅を重ねた花弁に点々と斑のある美しい花が連子窓が明るいほど咲いた。
いま一つ鎌倉椿と呼ばれていたのは、明治の初め人力車で東京に行かれた慈綱様が、鎌倉円覚寺へ拝塔のおり、芽生をお持ち帰りになったという一重の素朴なツバキであった。
中庭で薄色の散椿が散り重なるころ、春もたけて庭のツバキは終わりである。」
