鎌倉の椿巡り⑦~化粧坂から、源氏山、葛原岡神社を経て浄智寺へ 

1 化粧坂

 京の都への出入口は、「京の七口」として知られていますが、鎌倉にも同様に「鎌倉七口」と呼ばれる出入口があります。

 鎌倉を囲む山の尾根を切り下げて造られた「切通」は、人馬や物資の流通ルートであるとともに、軍事上も重要な防衛拠点となりました。

 このため鎌倉が決戦場となれば、「切通」は激戦地となり、「太平記」にも新田義貞が三つの口から、鎌倉へと怒涛の如く押し寄せた際の決死の攻防が描かれています。

 扇ガ谷から武蔵国へと結ぶ口である「化粧坂」は、新田義貞が自ら突破を図ったものの、守将・金沢貞将らの奮戦により最後まで陥落しなかったと伝えられています。

 せっかく鎌倉に来たからには、「切通」の一つは見ておきたいと思い、「化粧坂」を抜け、源氏山、葛原岡神社を経由して、浄智寺へと至る「葛原岡・大仏ハイキングコース」を歩いてまいりました。

 「化粧坂」は、鎌倉七口の中でも、古の様相を残していると言われます。

 切通といえば、道の両側が切り立っているイメージがありますが、「化粧坂」は谷側は開けています。

 急勾配の坂に設えられた石段は、足掛かりとなる部分がすり減って深いくぼみができ、いかにも古そうな味を出しています。

 鎌倉のつわものたちが、ここを先途と戦ったことを考えると、ただの坂とは思えなかったですね。

 坂の上は、平坦な岡地となり、源氏山の公園もすぐそばにあります。

 サザンカの咲く公園に、頼朝公の像を見て、葛原岡神社へと足を延ばしました。

 「葛原岡神社」への途中に、後醍醐天皇の倒幕活動を支えた側近で、建武の新政を見ることなく、「化粧坂」上で斬罪となった日野俊基のお墓があります。

2 葛原岡神社のサザンカと椿

 元日の初詣を待つ大晦日の葛原岡神社。

 参道両側のサザンカが、赤い提灯、紅白幕、朱文字と綺麗にフィットしていました。

 鳥居前に見つけた椿。

 この後、ハイキングコースにしたがって山中に入っていきましたが、これが結構な山道のうえ、雨上がりで滑りやすく、少し後悔しつつ、汗ばみながら峠越えをすることになりました。

 途中、「天柱峰」と記された碑がありましたが、浄智寺が最も栄えていたころは、その付近までもテリトリーとしており、僧房の跡も発掘されているようです。

 半時間くらいの「ハイキング」で、ようやく人家が見えるようになったところで、周囲がガサガサと騒がしくなり、甲高い鳴き声とともに小動物の集団が現れました。

 これが、困りものとなっていると聞く「台湾リス」ですね。子猫くらいの大きさがあります。

 警戒心が強いと思っていたので、こんな至近距離になっても逃げようとしないので、こちらも驚きました。

 人を見て危険かどうかがわかるのか、案外、学習能力が高いのかもしれません。 

3 浄智寺

 ようやく「浄智寺」に到着。

 鎌倉五山第四位の名刹です。「甘露の井」を左手に見て、総門へと。

 総門から山門へは、苔むして古色蒼然とした鎌倉石の石段が続きます。

 風情があり、撮影スポットして人気の高いところです。

 「浄智寺」は、北条時頼の三男で、時宗を兄に持つ宗政の菩提を弔うために開創されました。

 宗政は、有能な人物であったらしく、時宗を支える存在として期待され、建治3年(1277年)には、元軍の再度の来襲に備え、警護を固めるため、博多を管轄する筑後国の守護に任命されています。

 しかし、宗政はこれからという29歳で逝去。

 浄智寺の開山は、時宗の痛嘆と慰霊の思いの深さを示すものなのでしょう。

 鐘楼門である山門は、中国風の意匠が異彩を放っています。

 関東大震災で、浄智寺も大被害を受け、鐘楼門も倒壊しましたが、現在の門は、2007年に復元したようです。

 「曇華殿」に安置されている仏様三体は、阿弥陀如来、釈迦如来弥勒如来で、過去・現在・未来の三世で衆生をお救いいただきたいという願いを体現したものということです。

 「曇華殿」の裏側にひっそりと祀られている観音様です。

 曇華殿の仏さまとは距離がありますが、こちらの観音様は、お近くで、優美な姿を見ることができます。

 「浄智寺」も鎌倉らしく、山に面するところには、やぐらが沢山出てきました。

 平行と垂直の構図。

 布袋さんのやぐらを彩る椿。

 境内には、ビャクシンやコウヤマキなどの巨木が散在し、様々な花木が植えられ、竹林や手入れされた庭園など、お堂の回りは樹々と緑でいっぱいで、気持ちよかったですね。

 これで、鎌倉五山は一通り訪れることができ、最後に東慶寺にお参りして、鎌倉を後にしました。
 















鎌倉の椿巡り⑥~海蔵寺

 鎌倉・扇ケ谷の奥に位置する「海蔵寺」。

 建長五年(1253年)、皇族初の鎌倉将軍となった宗尊親王が伽藍を再建したものですが、鎌倉幕府滅亡のときに兵火で焼け落ち、応永元年(1394年)に第二代鎌倉公方足利氏満の命により、扇谷・上杉家ニ代目の上杉氏定が源翁禅師(心昭空外)を招いて開山し、扇谷・上杉家の庇護を受けたとされます。

 JR横須賀線沿いの道から、北西に分岐して、お寺まで延びる専用道路のような道を進むと、過たずに門前に到着です。

 

 

 

 山門の両脇にサザンカが出迎えてくれました。

  

 山門を入ると、左手に鮮やかな朱色の椿が目に映りました。

 鎌倉の椿巡りといっても、年末のこの時期なので、椿の花をあまり見ることができず、少しフラストレーションもたまっていたので、気分も上向きとなりました。

 雨上がりの苔の上に、早咲きの白椿。

 藪椿一輪。

 庫裏の横にも、優しげな椿が咲いていました。

 住職が花木をお好きなのだろうなあと伝わってくるようなお庭でしたね。

 庭を見てまわった後、本堂にお参りしました。

   

 安永5年(1775年)に、浄智寺から移築された仏殿(薬師堂)には、本尊の薬師如来像が安置されています。

 この薬師如来には、言い伝えが残っています。

 寺の裏山の墓所から、夜な夜な赤子の泣き声が聞こえたため、源翁禅師が袈裟をかけると泣き止みましたが、あらためて、墓を掘ってみると、薬師如来のお面が出てきました。そこで、禅師は、新たに薬師如来を造って、胎内に、このお面を納めたとされています。

 胎内に納まるのなら、小さいものだと思いますよね。ところが、どうも、このお面は、入れ物である薬師如来様のお顔よりも大きいようです。ちょっとシュールな味わいもある像ですが、胎内のお面を見ることができるのは61年に一度とのこと。運が良ければ拝めるかもしれません。

 茅葺の庫裏です。

 本堂左手裏に廻ると、やぐらが現れました。

 境内側のお寺の雰囲気とは一変したような、岩山の出現に驚きました。

 自然の迫力だけでなく、やぐらの持つスピリチュアルな感じが、独特の異世界的な空気感を醸し出します。

 寺の裏手には、山の起伏を活かした庭園が造られていました。

 この岩山に沿った径の先に、「十六井戸」があります。

 岩のトンネルをくぐって進みます。

 井戸は、このやぐらの中に。

 恐る恐る覗き込むと、床面に16個の丸い穴が掘られて、透明な水をたたえています。

 闇の中で、青みがかって見える水は、幻想的で美しくもありました。

 16という数字は、十六大菩薩、十六善神十六羅漢などなど、仏教用語で頻繁に出てきますね。16は、総体や全体を意味する特別な数とされているようです。

 ちょっと怖くて、不思議な空間です。

 海蔵寺にはもう一つ「底脱ノ井」と呼ばれる井戸が、山門の右手にあります。

 安達泰盛の娘千代能が詠んだうたが伝わっています。

 千代能が水を汲みに来た時に、桶の底が抜けたことに、心の底も抜け、わだかまりも解けて、解脱の境地に至ったとの意だそうです。

 安達泰盛と一族は、「霜月騒動」で自刃して滅びましたが、千代能は出家して、無学祖元の弟子となったとされています。

 そんな悲劇を経験したからこその境地だったのでしょうか。

 「花の寺」海蔵寺。椿も愛されている感じのするいいお寺でした。

 

鎌倉の椿巡り⑤~寿福寺の静かな石畳み

 鎌倉駅から北鎌倉駅へJR横須賀線が走るエリアは、扇ヶ谷と呼ばれます。

 この地は、もともと亀ヶ谷という名で、頼朝の父である義朝が屋敷を構えていました。

 鎌倉に入った頼朝は、ここに館を建てて本拠としようとしましたが、すでに義朝の菩提を弔うお堂が建立されていたこともあって、大蔵の地を御所とし、幕府を開いたとされています。

 「寿福寺」は、この義朝邸跡に、頼朝が亡くなった翌年の1200年(正治2年)に、北条政子栄西を招いて創建したもので、鎌倉五山で、建長寺円覚寺に次ぐ高い序列を持ち、蘭渓道隆など名だたる僧も住持となるなど、大寺としての格を誇っていたそうです。

 現在、参道と裏山にある墓所については入ることはできますが、境内は普段は公開されていません。そのせいか、訪れた時にも、何人かの人を見かけた程度で、静謐な雰囲気に包まれていました。

 まっすぐな参道が、中門まで延びています。

 小雨の中、敷石の上を歩いていきました。

 中門から、境内を見せていただきます。 

 仏殿を臨み、巨大なビャクシンが目に入ります。両側にニ本ずつ、四本の大樹です。

 鎌倉は、ビャクシンの大木が多いですね。近くには寄れませんでしたが、寿福寺のビャクシンも年月を経た風格に溢れています。

 中門から鐘楼にかけての風情もいいですね。


 綺麗に手入れされた生垣、植木と、背景の鬱蒼とした山の樹々。

 岩肌が露出しているところには、やぐららしきものが見えます。

 静かな大晦日の朝。お寺も、正月の準備をされているのでしょう。

 さて、中門から左手から墓所のある山への道へと入ります。

 かなり大きな墓所の崖沿いには、やぐらの中につくられたお墓が並んでいました。

 その中の一つに高浜虚子のものもありました。

 しばらく崖沿いの径を進むと、政子と実朝のものらしき洞窟が。

 そう伝えられるだけのことはあり、相当に大きな横穴で、特別な区画であるような感じがありました。

 あまり覗き込むのも気が引けましたので、手を合わせて、墓所を後にしました。

 そうこうしているうちに、雨も小やみになったようです。

 再び、濡れた石畳みの道を山門へと歩みました。

 寿福寺を出て、英勝寺、海蔵寺へと。

 今回の鎌倉旅で見たかった椿は、「英勝寺」の英勝寺侘助と「覚園寺」の太郎庵椿でしたが、実は両寺とも年末は拝観休止とのことで、これは残念至極でございました。

 もしかして、開いているかなと期待していましたが、やはり英勝寺の門は閉じられていました。

 というわけで、肩を落としつつも、またの機会を楽しみに、海蔵寺へと歩いていきました。

 

鎌倉の椿巡り④~早朝の妙本寺

 

1 早朝の妙本寺

 鎌倉での宿は、若宮大路に面したところでしたので、ほど近い「妙本寺」へ早朝の散歩に行ってきました。

 若宮大路から「大巧寺」を通り、小町大路に出て、夷堂のある「本覚寺」の道向かいに、「妙本寺」への長い参道が続きます。 

 総門をくぐり、まっすぐな参道を、両側に広がる木立を分け入るように歩いていくと、別世界に入ったような気持になります。


 石段を上ると、薄闇の中に「二天門」が姿を現します。

 門を護る持国天多聞天が、常夜灯に照らされ、浮かび上がっています。

 彫像の陰影がほどよく、感性に訴えますね。煌々としたライトアップであれば、こうはならないでしょう。

 昔の燈明であれば、影のゆらぎも加わり、なおのこと効果があったものと思います。

 「二天門」から広い境内に入ると、正面に、日蓮上人を祀る「祖師堂」が威容を誇っています。

 「妙本寺」が存する比企谷は、比企氏の本拠があったところです。

 当主の比企能員は、頼朝の乳母を母に持ち、娘の若狭局は頼家との間に長子の一幡を産むなど、その勢力が強大になりつつありました。覇権を争う、北条時政と政子の謀略により、比企能員は討たれ、一族はこの地で攻め滅ぼされます。かろうじて逃れ出た若狭局も一幡も、日を置かずして、命を奪われることとなります。

 「祖師堂」の右手側には、比企一族を弔う石塔、また、一幡の形見となった小袖を埋めて供養した塔が静かに立っています。

 800年以上も前のことですが、そんな悲劇の地に足を停めれば、やはり粛然とした気持ちとなりました。

 小雨模様でしたが、次第に明るくなってきました。

 書院前の庭には、唐子咲の椿。

 参道脇には、早咲きの藪椿。

2 「常栄寺」(ぼたもち寺)

 総門前を左に折れて、小径を進むと、「常栄寺」という小さなお寺が道沿いに見えてきます。このお寺は、通称「ぼたもち寺」といいます。

 この地に住んでいた尼さんが、龍ノ口刑場へ護送されていく日蓮上人に「胡麻入りのぼたもち」を捧げましたが、御存じの通り、日蓮上人は奇跡を起こされ戻ってこられたことから、厄除けの「首つなぎぼたもち」として名物として今に伝わっているということです。「腹切りやぐら」だの「首つなぎぼたもち」だの、直截でリアルな命名は少しギクッとはしますが。

 門前の藪椿。紅い門と合います。

3 「大巧寺」の椿道

 再び、小町大路へと戻り、「大巧寺」にお参りしました。

 細長い境内に、所狭しと椿が植えられています。

 春には、多くの品種が咲きそろい、見ごたえあるだろうと思います。

 「妙蓮寺」です。

 椿ロードです。

 鎌倉駅からごく近くで、若宮大路に面しているので、まさに鎌倉の中心部にあります。

 少し歩くと、様々なお寺や神社、旧跡に出会います。思わず時間を忘れて遠出してしまいますね。

 



 

 



















 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鎌倉の椿巡り③~瑞泉寺

 鎌倉の西、紅葉ケ谷の奥深くにある「瑞泉寺」は、嘉暦(かりゃく)2年(1327年)に、夢窓疎石が開創し、その庭園は、鎌倉において唯一、鎌倉時代のものが現存するものとして知られています。

 この寺もまた「花の寺」として、梅、桜、紫陽花、酔芙蓉、シュウメイギクスイセン等々、四季にわたり途絶えることなく花を楽しむことができ、椿も目立つことはありませんが、存在感を示しています。

 鎌倉はコンパクトなまちなので、どこへでも歩いていくのはそれほど苦労はないのですが、この「瑞泉寺」は鎌倉駅から3km弱あるので、自転車だと快適です。

 金沢街道を途中から岐れて、谷筋への道を進むと、次第に道幅が狭くなり、突き当りに「瑞泉寺」の総門へとたどり着きます。

 

 門をくぐると、景色は一変し、「深山幽谷」の世界に誘われた感がありました。

 人の姿が見えず、葉のざわめきと、鳥のさえずりが聞こえる中、苔むした階段道を上ります。

 左が急な「男坂」、右がややゆるやかな「女坂」。

 山門の向こう、本堂を、多種の樹々が植えられた前庭が囲んでいます。

 時刻は15時、背景となる錦屏山を、午後の陽光が照らしています。

 吉田松陰もここを訪れたのですね。伯父が瑞泉寺住職だったそうです。

 サザンカがやさしく寄り添うように枝を伸ばす、「吉野秀雄歌碑」

 "死をいとひ生をもおそれぬ人間のゆれ定まらぬこころ知るのみ"

 本堂(仏殿)です。この後ろに、岩の庭園があります。

 花弁が退化した古来品種の梅。なかなかこのような大木にはならないようです。

 本堂の奥側に廻ると、「瑞泉寺庭園」が眼前に現れます。

 これは実に印象に残る、インパクトのあるお庭ですね。

 正面を、岩盤の露出している、屏風のような山肌が扇形に囲み、そこに、横穴が穿たれ、底面には、池が掘られる・・・起伏にとんだ岩山彫刻に思わず引き込まれました。

 この大きな洞窟は「天女洞」と呼ばれ、実際に、座禅の場として使われていたといいます。

 鎌倉は、「鎌倉石」のように加工しやすい凝灰岩の地層が多く、土地の狭さもあって、墓地や廟として洞窟を穿つ「やぐら」が集中して存在しており、山に穿たれた穴を至るところで見ました。

 「やぐら」と用途は異なるとはいえ、地形と地質の特徴を活かした鎌倉らしい光景だと思いました。

 池に架かる橋から、急な崖を登るように階段が続き、十八回曲がって山の頂に至ると、そこには、「偏界一覧亭」と名付けられた小亭が建てられているそうです。その名のごとく、亭からは、正面には富士山が、左には相模灘、鎌倉の街並みが広がるといいます。

 さすがに作庭の名手でもある夢窓疎石が選んだ場所だけに、まさに絶景なのでしょうが、残念ながら立ち入ることはできません。

 錦屏山と一体となったこの雄大な庭園も、昭和45年に発掘されるまでは、すっかり荒れ、埋没してしまっていたそうです。

 初代鎌倉公方足利基氏夢窓疎石に帰依し、鎌倉公方菩提寺として敬われてきた「瑞泉寺」も、将軍の座をうかがおうとした4代目公方の足利持氏が敗死し、鎌倉府の衰退に伴い、寺も廃れていく中で、この名園もいつしか埋もれていたようです。

 でも、かえってその結果、当初の形状がそのまま残され復元できたともいえるのでしょう。

ここを登るのは、まるでロッククライミングのようですね。

 前庭をゆっくりと歩くうちに見つけた椿たちです。

 紅葉の時候は、さぞ美しかったでしょうね。

 帰りは、梅園を通っていきました。

 少し、奥地にあり、交通の便は決してよいとはいえませんが、この庭園は足を運ぶ価値があると思いました。俗界を離れた静けさを好む人にとっては、なお、おすすめです。

 鎌倉近郊の方は、四季の様々な姿を身近に、気軽に見ることができてうらやましいですね。遠方からの人にとっては、ピンポイントのタイミングになってしまいますし。

 そこが、その地に住む利で当然といえば当然なのですが。

鎌倉の椿巡り②~宝戒寺の早咲き椿

 鶴岡八幡宮の大鳥居の前を走る金沢街道を東に進み、小町大路に突き当たるところに宝戒寺はあります。

 宝戒寺は、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が、北条氏の菩提を弔うために、建武2年(1335年)に建立を足利尊氏に命じたものです。

 もともとこの地は、北条義時が邸宅の一つ、小町邸を建てて以降、執権の屋敷とされてきたところであり、1333年に、新田義貞による鎌倉攻めで、ついに最後の時が来たことを覚悟した北条高時をはじめ一族家臣が屋敷から出て、うちそろって自害した東勝寺(北条得宗家の氏寺)に近接していました。(東勝寺は廃絶し、自刃跡は、「腹切りやぐら」という名前で残っています。大変、生々しく、訪れるには少し躊躇しそうな命名ですね。)

 北条一族郎党の最期は、太平記第十巻に記されていますが、まことに凄惨を極め、無情感あふれます。

血は流て大地に溢れ、漫々として洪河の如くなれば、尸は行路に横て累々たる郊原の如し。死骸は焼て見へね共、後に名字を尋ぬれば、此一所にて死する者、総て八百七十余人也。此外門葉・恩顧の者、僧俗・男女を不云、聞伝々々泉下に恩を報る人、世上に促悲を者、遠国の事はいざ不知、鎌倉中を考るに、総て六千余人也。嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

 後醍醐天皇が、建武の新政を始めるにあたって、非業の死を遂げた北条一族の霊を慰めて、人心を鎮め、国家安康を願おうとしたことがわかる気がしますね。

 宝戒寺は、足利氏の庇護を受け、寺容を整えたようですが、天⽂七年(1538)には、伽藍が焼失してしまいました。江戸時代に入ると、源氏の系統を受け継ぐと標榜する徳川家が、源氏の武家政権発祥の地である鎌倉を大切にし、社寺の復興・保護に力を入れたとされ、宝戒寺も、あの天海大僧正が家康に進言し、再整備がなされたようです。

 そんな歴史を持つ宝戒寺の境内にさっそく入りましょう。真っ直ぐに伸びる、八角形の大きな石畳の参道は本堂へと続きます。

    

 まずは、多くの仏様がまつられている本堂へと上がります。

 本尊は、国重要文化財地蔵菩薩坐像。やや頭の大きな、優しげなお地蔵さんです。梵天帝釈天がその脇を固めています。

 お正月の能登半島地震は、大変な災禍をもたらしていますが、100年前に起こった関東大震災は、鎌倉の寺社仏閣にも多大な被害をもたらしました。

 宝戒寺も、本堂、客殿、太子堂、表門など、ことごとく倒壊してしまったと記録されています。何とか残った庫裏には、「国宝修理場」が設置され、日本美術院が専門家を派遣し、多くの破損した貴重な仏像や神像などの修復作業が集中的に行われたとのことです。

 本尊のお地蔵さんも震災により、割れてしまったそうですが、胎内から銘文が発見され、京都の三条仏師である憲円が1365年に制作したことがわかりました。

 伽藍は兵乱や地震などにより、創建のものは残りませんでしたが、仏像は当時のものが守られてきているということですね。

 宝戒寺は、秋に白い萩につつまれる「萩の寺」として親しまれていますが、椿についても108種もの品種が晩秋から春にかけて咲き連ねるという、椿好きには見逃せないお寺です。

 確かに、そこかしこに椿が見受けられました。まだ、椿のシーズンには早かったのですが、いくつか早咲きのものがあり、目を楽しませてくれました。

 「⼤聖歓喜天堂」の前には、花弁の紅白の交じる様が優雅で美しい「鎌倉絞り」が咲いていました。

   

 鎌倉の地で、ネーミングがドンピシャですが、この品種は中部地方で作出され、ハルサザンカの一種です。

 私も好きな花で庭に植えていますが、樹勢が弱いので少し気を遣わなければいけません。なかなか大きくならず、花を付けすぎると枝枯れを起こしてしまいます。

 秘仏歓喜天は、非公開で、厨子の中に納まっておられます。

 本堂に向かって左側は、園内を巡るように回遊道が設けられています。

 多様な樹々が植栽されていますが、椿も主木の一つとなるほど沢山ありました。

 開花しているものはわずかでしたが、ハイシーズンになれば、なかなかに見応えがありそうでしたね。

 年末は、穏やかな天候に恵まれました。

 本堂前にある、このビャクシンも非常に立派なものでした。東久邇宮お手植えとありますが、年代からして、既に大木となっていたのを植えられたのでしょうか。

 帰りに、受付の方とお話をしましたが、萩はもちろんですが、春から初夏にかけての花咲くお寺もまた格別のようです。美しい牡丹の写真も見せてもらいました。

 次は、ぜひ3月に訪れることと心に決めて、次は、少し足を伸ばして、瑞泉寺へと向かいました。

 

鎌倉の椿巡り①〜安国論寺の白サザンカ

 日蓮上人が残した著作の中でも、最もポピュラーなものが「立正安国論」でしょう。

 JR鎌倉駅から南東の方角に約1kmほどのところにある「立正安国寺」は、その名の通り、日蓮上人がこの寺内の岩窟で「立正安国論」を書きあげた(文応元年(1260年))とされ、また、建長5年(1253年)に鎌倉での布教を開始した庵があったという、まさに上人ゆかりの場所として、弟子の日朗が建てた寺が始まりとされます。

 この寺には、樹齢350年と言われる山茶花があるということで、鎌倉巡りの最初に訪れることにしました。

 

 12月29日、穏やかに晴れた日和の鎌倉。

 駅の東口で電動レンタサイクルを借りて、早速出発しました。大町大路を進み、安国論寺の付近まで来ると、鎌倉中心部の賑わいも、すっかり静かになります。参詣に訪れる人も数えるほどでした。

 

 手水舎のお地蔵さんにサザンカの花が・・・。

 鎌倉は、京都と比べると温暖なのでしょうか。参道には、まだ、紅葉の名残がありましたね。

 本堂の左手に、白い花を咲かせるサザンカがありました。

 鎌倉市指定の天然記念物で、その数31件のうち、サザンカとしては唯一のものです。

 木全体が白一色になるくらいに、一斉に開花していました。お寺の方にうかがうと、ここ数日の温かさで一気に花開いたようでした。花の咲き具合は気まぐれなので、たまたま見ごろに行き会えたという感じですね。

 地表近くで二股に分かれ、参道側に伸びる枝は腐食が見られるものの、これだけの花を咲かせることのできる樹力は保っているようでした。

 このサザンカの樹齢は350年と言われます。

 日蓮聖人が籠った御法窟に連なるように建てられている「御小庵」は、元禄の頃に尾張徳川家より寄進されたものとされることから、その頃に植えられたものかもしれません。

 寺のHPでは、「江戸時代に品種改良されて生まれた山茶花の姿をそのままに残している銘木」と記されています。

 素朴で、蝶のような可憐さも感じるサザンカでした。ほんのりと桃色を花弁にのぞかせているところも魅力的ですね。

 残念ながら、「御小庵」の中には入れません。

 手の込んだ木彫りの獅子たちです。

 「御小庵」そばにある、日蓮上人がついた杖から根付いたとの伝説の桜「妙法桜」です。

 樹齢は760年といわれ、この伝説と符合しますね。

 品種は、「市原虎の尾」といいます。この名は、京都市左京区市原にあった桜が、花の咲く枝が虎の尾の様にみえることから名付けられたということですが、近年の命名であり、樹齢が伝説通りであれば、鎌倉の時代から愛されてきた品種ということなのでしょう。

 寄る年波には・・・という感じですが、残る枝幹には、今も美しい花が咲き、多くの方が訪れるそうです。

 「御法窟」です。この岩肌に彫られた岩窟で、上人が一心不乱に著作に励んでおられたということですね。

 熊王殿の脇から、急な階段を上り、富士見台へと出ると、視界が開け、鎌倉市街から由比ヶ浜まで一望できます。

 上人は毎日ここから富士山に向かって法華経を唱えたとされています。

 天候によっては、富士山を臨めるのでしょうね。

 こうし見ると、鎌倉は、限られた土地のため、山あいまで住家がぎっしりと経っているのがわかります。

 富士見台から先に進むと、草庵を焼き討ちされた上人が避難された「南面窟」などを回るコースとなります。今回の旅は、できるだけ多くの社寺を訪れたかったので、またの機会にということでショートカットしましたが、折角のことなので行っておいたらよかったと後から思っています。そんなに歩きやすい道ではなかったようですが・・・。

 ともあれ、日蓮上人に関わる歴史的な出来事の現場で、当時のことに思いを馳せることができるとともに、山茶花、桜、紅葉、そして海棠や百日紅など、どんな季節でも彩りを楽しめるだろうところでした。

 何とも年季の入った百日紅です。

 安国論寺の山門を出て、大きなサザンカを見つつ、再び大町大路へ。

 安養院などを横目にしつつ、次は宝戒寺へと向かいました。