鶴岡八幡宮の大鳥居の前を走る金沢街道を東に進み、小町大路に突き当たるところに宝戒寺はあります。
宝戒寺は、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が、北条氏の菩提を弔うために、建武2年(1335年)に建立を足利尊氏に命じたものです。
もともとこの地は、北条義時が邸宅の一つ、小町邸を建てて以降、執権の屋敷とされてきたところであり、1333年に、新田義貞による鎌倉攻めで、ついに最後の時が来たことを覚悟した北条高時をはじめ一族家臣が屋敷から出て、うちそろって自害した東勝寺(北条得宗家の氏寺)に近接していました。(東勝寺は廃絶し、自刃跡は、「腹切りやぐら」という名前で残っています。大変、生々しく、訪れるには少し躊躇しそうな命名ですね。)
北条一族郎党の最期は、太平記第十巻に記されていますが、まことに凄惨を極め、無情感あふれます。
血は流て大地に溢れ、漫々として洪河の如くなれば、尸は行路に横て累々たる郊原の如し。死骸は焼て見へね共、後に名字を尋ぬれば、此一所にて死する者、総て八百七十余人也。此外門葉・恩顧の者、僧俗・男女を不云、聞伝々々泉下に恩を報る人、世上に促悲を者、遠国の事はいざ不知、鎌倉中を考るに、総て六千余人也。嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。
後醍醐天皇が、建武の新政を始めるにあたって、非業の死を遂げた北条一族の霊を慰めて、人心を鎮め、国家安康を願おうとしたことがわかる気がしますね。
宝戒寺は、足利氏の庇護を受け、寺容を整えたようですが、天⽂七年(1538)には、伽藍が焼失してしまいました。江戸時代に入ると、源氏の系統を受け継ぐと標榜する徳川家が、源氏の武家政権発祥の地である鎌倉を大切にし、社寺の復興・保護に力を入れたとされ、宝戒寺も、あの天海大僧正が家康に進言し、再整備がなされたようです。
そんな歴史を持つ宝戒寺の境内にさっそく入りましょう。真っ直ぐに伸びる、八角形の大きな石畳の参道は本堂へと続きます。
まずは、多くの仏様がまつられている本堂へと上がります。
本尊は、国重要文化財の地蔵菩薩坐像。やや頭の大きな、優しげなお地蔵さんです。梵天、帝釈天がその脇を固めています。
お正月の能登半島地震は、大変な災禍をもたらしていますが、100年前に起こった関東大震災は、鎌倉の寺社仏閣にも多大な被害をもたらしました。
宝戒寺も、本堂、客殿、太子堂、表門など、ことごとく倒壊してしまったと記録されています。何とか残った庫裏には、「国宝修理場」が設置され、日本美術院が専門家を派遣し、多くの破損した貴重な仏像や神像などの修復作業が集中的に行われたとのことです。
本尊のお地蔵さんも震災により、割れてしまったそうですが、胎内から銘文が発見され、京都の三条仏師である憲円が1365年に制作したことがわかりました。
伽藍は兵乱や地震などにより、創建のものは残りませんでしたが、仏像は当時のものが守られてきているということですね。
宝戒寺は、秋に白い萩につつまれる「萩の寺」として親しまれていますが、椿についても108種もの品種が晩秋から春にかけて咲き連ねるという、椿好きには見逃せないお寺です。
確かに、そこかしこに椿が見受けられました。まだ、椿のシーズンには早かったのですが、いくつか早咲きのものがあり、目を楽しませてくれました。
「⼤聖歓喜天堂」の前には、花弁の紅白の交じる様が優雅で美しい「鎌倉絞り」が咲いていました。
鎌倉の地で、ネーミングがドンピシャですが、この品種は中部地方で作出され、ハルサザンカの一種です。
私も好きな花で庭に植えていますが、樹勢が弱いので少し気を遣わなければいけません。なかなか大きくならず、花を付けすぎると枝枯れを起こしてしまいます。
本堂に向かって左側は、園内を巡るように回遊道が設けられています。
多様な樹々が植栽されていますが、椿も主木の一つとなるほど沢山ありました。
開花しているものはわずかでしたが、ハイシーズンになれば、なかなかに見応えがありそうでしたね。
年末は、穏やかな天候に恵まれました。
本堂前にある、このビャクシンも非常に立派なものでした。東久邇宮お手植えとありますが、年代からして、既に大木となっていたのを植えられたのでしょうか。
帰りに、受付の方とお話をしましたが、萩はもちろんですが、春から初夏にかけての花咲くお寺もまた格別のようです。美しい牡丹の写真も見せてもらいました。
次は、ぜひ3月に訪れることと心に決めて、次は、少し足を伸ばして、瑞泉寺へと向かいました。