紫野・雲林院の椿

 NHK大河ドラマ「光る君へ」の放映もあって、廬山寺をはじめとして、源氏物語紫式部ゆかりの地に多くの人が訪れているようです。その紫式部が生まれたとされる「紫野」は、京都市北区大徳寺船岡山から西へ堀川通に至る地域です。

 この界隈は、平安京の、いわゆる「洛外」に位置し、当時は人家もなく、野原の広がる地であったようですが、御所から近く、貴族による遊猟、行幸が盛んに行われたといいます。

 そんな紫野に淳和天皇が設けた離宮「紫野院」は、のちに「雲林院」と名が改められ、元慶八年(884)には僧正遍照の奏請によって官寺となり、天台宗の寺院として隆盛を誇り、最盛期の寺域は、紫野一帯に及ぶ広大なものであったと言われています。

 10世紀の後半からは、極楽往生を求めて法華経を講説する「菩提講」が「老少男女称南無声遍満如雷(小右記)」と記されるほど賑わい、「大鏡」のプロローグで、語り部の二老人が登場する舞台となっているのはよく知られています。

 かつて貴族が風雅を楽しみ、仏寺としても賑わいを見せるなど、歴史上に長く存在感を示した雲林院は、源氏物語枕草子和泉式部日記、古今和歌集等々、名だたる多くの物語などに登場します。

 しかしながら、その後は衰退をたどり、鎌倉中期の公卿・広橋経光は、日記「民経記」に、貞永元年(1232)の旧暦の5月末の記事で、「紫野雲林院辺荒巷草深、本院之遺跡無人跡、無何所断腸也」と、往年の繁栄の見る影もなく荒れ果てた姿を嘆いています。そして、後醍醐天皇によって、敷地が大徳寺に移譲され、さらには応仁の乱で焼失してしまいます。ようやく、江戸時代、宝永4年(1707)に大徳寺の門外塔頭の一つとして再建され、今に至ります。

 

 雲林院は、大徳寺の東を走る大徳寺通りを、北大路通との交差点から南に下がってすぐ東側に位置しています。大徳寺に向かう人の流れは多いのですが、逆方向に進む人はあまりいません。

 この辺から鞍馬口通りにかけては、狭い路地が入り組む昔ながらの町割りが連担し、町家やお地蔵さんがそこかしこに姿を見せ、レトロ感ある京都らしい町並みと生活感が残っています。

 

 さて、雲林院ですが、かつての大寺院の面影はなく、紫野の町並みに溶け込むように静かに佇んでおり、駒札がないと、うっかりすると見過ごしてしまいそうです。

 境内には、本尊・十一面観音を祀る観音堂が残されています。

 このお堂の周辺に、大木ではありませんが、多くの椿が植えられています。

 2月に入ると、まず、有楽椿が咲き始め、大徳寺通りからも塀越しに見ることができます。3月になって満開になると、落ち椿も美しく、上下に薄桃色に染める風情ある光景となります。

 山門脇には、参拝客を迎えるように立つ椿があり、これが一番印象に残るものでした。

 3月後半に訪れた時には、厚みのある真紅の花弁の花を咲かせていました。小ぶりな山門に寄り添う咲き姿は、実に絵になります。

 ほかにも、白椿、胡蝶侘助などが目を楽しませてくれます。

   ところで、今昔物語には、雲林院は、巻15第22話と巻17第44話に登場します。

 前話は、「菩提講」を創始した聖人のエピソードで、七度も盗みで捕らえられた悪人が足を切られようとしたときに、人相見が、「この人は極楽往生する人ぞ」と身を挺してかばい、そのおかげで許された悪人が一念発起して、ついにはこの聖人となったというお話です。「小右記」では、菩提講の開祖は、源信僧都とされていますが、民衆レベルで仏教が広がった時代の雰囲気を表す今昔物語の方が、いかにも説話らしいとはいえ、親近感を感じます。

 後話では、雲林院に住む僧が、鞍馬参りからの帰途の月夜に、出雲路を抜けて一条の北の通りに差し掛かったところで、白い衣をしどけなくまとった見目麗しき童に会い、請われるままに、僧房へと連れ帰ります。僧は童にすっかり身も心も奪われますが、その童が懐妊し、子を産むということになってしまいます。ところが童は忽然と姿を消し、残された子と見えたのは黄金の石で、僧は悲しみに暮れつつも、以降不自由なく暮らしていけたのも、鞍馬の毘沙門天のおかげと感謝したというお話です。

 今昔物語は、小説ネタの宝庫ですが、この話も、なかなかいい題材になりそうです。

 オチを毘沙門様の霊験にもっていくのはともかくも、夢枕獏の「陰陽師」に出てきそうな、妖しく官能的で、また可笑しみもある伝奇的な味わいに惹かれますね。

 この童は、椿になぞらえると、どんな品種でしょう。白く、上品だけれども、やや妖艶さも漂わせる「羽衣」や「白牡丹」などのイメージでしょうか。

 

 堀川北大路を南に少し下がった西側に、紫式部のお墓があります。

 広大な雲林院の境内の東側に位置した塔頭「白毫院」の南にあったと伝えられ、実際にこの場所だったのかもしれません。

 何で小野篁のお墓と並んでいるのか?

 好色な物語を描いたために「地獄」に落ちた紫式部を、小野篁閻魔大王にとりなして救い出したとの伝説にちなむものとも言われているらしいですが、千年後も残る世紀の作品が人を惑わすとして地獄に落とされたというのは、閻魔様の裁定もいかがなものかと思いますね。