下関市「東行庵」の千本椿園とサザンカ

 幕末の風雲児として今も人気の高い高杉晋作

 その菩提を弔う「東行庵」は、下関市東部の山間地の吉田にあり、高杉晋作を偲ぶ方が訪れます。

 墓所となった清水山とその裾地には、晋作が好んだとされる梅をはじめ、モミジや椿などが植栽され、季節折々の花を楽しめることができます。

 三代目庵主の玉仙尼が椿を愛好されたこともあり、1,300本もの椿が林立する「千本椿園」は、下関市の椿名所としても有名です。

 昨年、令和5年の11月に機会がありましたので、時間的に駆け足でしたが、庵を訪れてまいりました。

 JR山陽本線で下関から約20分で小月駅に到着。山陽道の宿場として栄えた交通の要衝ですが、新下関駅に新幹線が開業したために、人の流れも変わったようです。

 駅前は、いかにもローカルな雰囲気があり、商店街も時が止まったかのような感じがしました。

 時間が合えば、地域交通である「サンデン交通」のバスに乗ろうと思ったのですが、昼間は本数も限定されており、タクシーで「東行庵」へと向かいました。

 20分ほどで到着、さっそく、椿園へと。

 三代目庵主「玉仙尼」は、ことのほか椿を愛され、お名前からもわかるように、「玉の浦」がお気に入りだったとのことです。

 多方面に活躍され、多くの人から敬われ、慕われた玉仙尼が亡くなられた後、地元の椿愛好家の方々を中心に椿が持ち寄られ、1,300本もの椿がそろう「千本椿園」へと整備されていったようです。

 このため、巨樹・古木はありませんが、山の斜面一帯が椿で覆われており、椿好きにとってはうれしい場所です。

 「椿園」との呼称からは、一つ一つが独立して植えられ、それぞれに立て看板か名札がつけられていそうなイメージがしますが、この椿園は、自然のままの「椿林」という雰囲気があり、園を巡ると山歩きをしているような感覚です。シーズンには多種多様な花が咲いているのでしょうね。

 園の入り口には、山口県で作出された新しい椿の品種の若木がいくつか植えられています。

 なかでも、「玉仙尼」にちなんで名づけられた「玉仙」が代表的なものです。

 

 「玉仙」は、洋種椿の「フレーム」と「玉の浦」との自然交配で生まれた品種だそうです。

 この「玉の浦」は、紅地に鮮烈な白い覆輪の入った藪椿で、長崎の五島列島の一つ、福江島玉之浦町父ヶ岳に自生していたものが、昭和22年炭焼き業者によって偶然に発見されました。後に、新たな品種として世にお目見えしたときには、大変な反響を呼んだと言われています。そのせいで、原木の枝を切ったり、根をとったりする人が後を絶たず、あえなく原木が枯れてしまったという残念なことになってしまいました。

 「玉の浦」は、これまでになかった色合いを持つ母種として、これまで数多くの品種を生み出してきています。私も好きな「玉の浦」系ですが、この大輪の「玉仙」はまだ市販はされていないようです。

 11月の半ばなので、まだ椿には早かったのですが、付設の幼稚園そばでは、桃色の大輪のサザンカが咲き誇っていました。

 「山茶花の路」に咲くサザンカは、そろそろ見頃を迎えていました。

 早咲きの椿ですね。初嵐かな。

 「東行記念館」を見学した後、受付の方から、いろいろお話を聞かせていただきました。

 

 庵の公開期は限られているとのことで、私が残念がっていると、せっかく京都から来てもらったのだからと、ご厚意で庵を見せていただきました。

 簡素な室内で、各間には、伊藤博文や山形有朋、また、故安倍首相の揮毫の額がかけられ、仏間の仏壇には、本尊の「白衣観音菩薩」とともに、晋作の位牌が安置されています。

 この場で、初代庵主の「梅処尼」が、日がな晋作の菩提を弔っていたのだなと感慨も一入でした。

 晋作は、初代庵主となる、下関の芸者であった「此の糸」こと「おうの」を身請けし、肺結核で夭折するまでの4年余りの短い時間でしたが、ともに暮らし、晋作が追われる身の時も、彼女を一緒に連れていたとされます。

 おうのは、生まれも育ちも定かでなく、花街の世界しか知りませんでしたが、素直で、大変おっとりとした女性だったといいます。

 「面白き こともなき世を 面白く」

 時代の先頭に立ってを切り裂いて激しく生きた晋作にとっては、「おうの」さんは、癒やし、和ませる存在としてかけがえのないものだったのでしょうね。

 晋作の死後、山縣有朋は、所有の別宅「無鄰菴」をおうのに提供し、晋作の墓を守らせていましたが、旧藩主毛利元昭、伊藤博文井上馨岩崎弥太郎ら、長州の錚々たるメンバーが資金を出し、敷地を拡張して建てた家屋が、「東行庵」として今に続いています。

 ちなみに、これが本家?「無鄰菴」で、京都の木屋町二条と、南禅寺界隈にある山縣有朋の別邸も「無鄰菴」と名付けられていました。この琵琶湖疎水べりにある「無鄰菴」は京都市所有の施設で公開されており、すばらしい庭園を楽しめます。

 おうのは、得度を受け、初代庵主「梅処尼」として、晋作を弔いつつ、空いた時間には、村の娘に踊りや琴、三味線を教えたそうです。

 後年、高杉晋作の顕彰碑が運ばれてくるのを毎日心待ちにして、「旦那のが来ない、旦那のが来ない」と亡くなるまで待ち続けたという逸話が残っています。

 若い身空で、山間の村でひっそりと暮らすおうのさんの、何ともいじらしく、哀しさも伝わる話です。

 一説によると、晋作に関わる女性として、身を持ち崩すようなことがあると世間への聞こえが悪いからと、山縣有朋らが、このように手配したとも言われていますが、坂本龍馬の妻おりょうが、不遇の晩年を過ごしたことと比べると、おうのさんは、生活に不安を覚えずに穏やかな暮らしができたものと思いたいですね。