1 東北院を訪れる
真如堂の総門を後ろに、右上手の道を進んで突き当り、左手、吉田山へと向かう道沿いに、4つのお寺が横並びで建っています。
東から、迎稱寺、大興寺、極楽寺、そして一番西に「東北院」(とうぼくいん)があります。
この東北院には、昭和49年10月発行の「京都市の巨樹名木」(京都市景勝地植樹対策委員会)という冊子に、さざんかの巨樹があることが記載されています。
1974年3月の調査では、幹周145センチ、樹高8メートルと測定され、「玉垣はこわれ、樹木の管理はなされていない」と記録されていますが、この巨木が今もあるのか、真如堂を訪れたついでに、確かめてみることにしました。
この四軒寺の門前はひっそりとしていますが、中でも、迎稱寺は、ところどころに崩れのある土塀が鄙びた風情を醸し出し、東北院も、樹木の管理に、あまり手が回っていないことが、観光寺とは違った、趣のある寂寥を感じさせる雰囲気を漂わせています。
(迎稱寺です。)
東北院は、藤原道長が創建した法成寺(ほうじょうじ)(寺町通を挟んで、仙洞御所の東側にあった摂関期最大級の寺院)、内の東北の地に、道長の娘で一条天皇の中宮となった上東門院・藤原彰子が、常行三昧堂(阿弥陀仏の周りを回りながら念仏を行うためのお堂)を建立し、晩年を過ごした寺院であると伝えられています。
上東門院・藤原彰子といえば、聡明、公正な人柄と、容姿もひときわ優れた賢后として、道長、頼通の摂関政治を長く支えたとされ、また、紫式部や和泉式部など、そうそうたる女流作家、歌人が揃う宮廷文芸サロンを主宰していたことでも有名です。
和泉式部は、後年、娘の小式部内侍に先立たれ、出家の身となって、上東門院の口利きによって、道長が東北院内に建てた小堂に住んでいたといわれます。
東北院は、その後、度重なる火災や兵火に見舞われ、荒廃していましたが、元禄5年(1692年)の火災後に、真如堂などとともに、現在の場所に移ったとされています。
本尊は、伝教大師・最澄が彫ったと伝わる「弁財天」で、寺が移転・興廃を繰り返す中で、1559年頃に、時宗の寺となっています。
2 和泉式部ゆかりの「軒端の梅」
本堂前にある梅は、「軒端の梅」(のきはのうめ)と名付けられています。
この梅は、和泉式部が当時の東北院に植えたとされる梅の代替わりのものと伝えられています。
枯死した部分もありますが、脇から伸びている新木が、歴史を引き継いでいます。
東北院を訪れた旅の僧の一行が、見事な梅を眺めていると、一人の女性が現れ、この梅は和泉式部が植えたことを語り、木陰に消えてしまいます。
僧は、門前の人から、それは和泉式部の霊に違いないと聞き、お経を唱えて供養していると、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れ、生前の仏縁の思い出を語り、和歌の徳・仏法のありがたさを説いた後、再び姿を消したが、そこには梅の残り香があったというものです。
数々の恋愛と華やかな宮廷生活から離れたあと、仏の道で、世の無常から救われたということであれば、無残な話も多い中で、少しほっとできる、穏やかなゴースト・ストーリーです。
それにしても、和泉式部と世阿弥にまつわる伝承を有するという、文芸的背景の高い肩書を持っている梅ですね。
3 サザンカの巨木
さて、サザンカの巨木がないか、探してみると、寺の西側、道路沿いの入口近くに、白い花を咲かせている木を見つけました。
主幹が朽ちてしまい、表皮だけが残っていますが、もともとは相当に巨樹であったことが想像できます。
先ほど紹介した、「京都市の巨樹名木」の写真です。
撮っている向きが違いますが、写真一番左の枝が、現存の枝と一致しているので、この樹に間違いありません。残念ながら、この50年の間に、写真右側部分が枯れ朽ちてしまっているのですね。
冊子では、特徴として、
「根元より0.5mで分岐し、さらに地上1.5mのところでは支幹の数9個となって主幹を形成していない。なお、支幹数か所が癒着して連理となる。」
と記されています。
今は見ることのできない樹容ですが、何とかがんばって生きながらえていってほしいですね。
4 元真如堂への道沿いの椿
この後、白川通へと戻る途中、真如堂の元々あった場所にある、元真如堂(またの名を換骨堂)がありました。
真如堂を訪れる人が、ぽつぽつと北側の道を通っていきますが、こちらまで回る人は少ないでしょう。
道沿いには、椿が、静かに咲き、気付く道行く人を楽しませてくれます。