初冬の鹿王院
鹿王院は、嵯峨にある臨済宗の寺院です。嵐山と少し距離があるため、雑踏を離れて、ゆっくりと拝観することができます。紅葉シーズン以外であれば、なおのことです。
12月17日、土曜日、京都の最低気温は3.5℃、最高気温も6.5℃という、かなりの冷え込みの中、鹿王院を訪れました。
10時前に門前に着きましたが、観光客は誰もいない様子。山門越しに、まだ、紅葉の残る石畳の参道が、静かに迎えてくれました。
この山門は、康暦(こうりゃく)2年(1380年)の鹿王院創建時の姿を今に伝えており、扁額「覚雄山」は足利義満の筆になるものです。
康暦(こうりゃく)元年、22歳の足利義満は、夢の中で、多聞天と地蔵菩薩が、「今の将軍は、福も官位も意のままに十分満ち足りている。ここで一ヶ寺を建立すれば、寿命が延びること間違いない」と語り合うのを聞き、夢窓疎石の後継者である春屋妙葩を開山として、この地に「宝幢寺」を建立し、その塔頭として「鹿王院」が建てられたと伝えられています。
創建の際に、野鹿の群れが現れたので、吉瑞であるとして「鹿王院」と命名されたとのことです。
宝幢寺は、将軍家と深いつながりを持ち、荘園の財政基盤をもって、大いに栄えましたが、応仁の乱で焼失、荘園も守護・地頭の横領で失われ、何とか「鹿王院」だけが再建されて「宝幢寺」の格式を継承し、文禄5年(1596年)の伏見大地震による倒壊からも復興を果たし、今に至ります。
鹿王院の「椿ロード」
山門を入り、参道を進むと、紅葉の残るモミジの間に、数多くの椿が植えられています。このため「椿ロード」とも呼ばれているようですが、概ね2~3メートルの高さのもので、年代物というのはないようです。まだ、つぼみの時期なので、どんな種類の椿かわかりませんでしたが、これだけの数があれば、参道が彩られ、「椿ロード」の名にふさわしいものになると思います。
もう少し、サザンカか、秋咲の椿があれば、紅葉とのコラボレーションが楽しめるでしょうね。
鹿王院庭園
中門から入ると、庫裏前に庭園が広がります。松の根っこが、地表を放射状に這っているのが、特徴的です。もっと苔むすとより風情あるのでしょうが、山沿いではなく、それほど湿気のある環境ではないのかもしれません。
庫裏に上がらせていただきます。本当に静かです。
客殿の扁額も、義満の筆です。筆は人を表すのか、この筆跡をどう思われますか?
客殿の南側に、広大な「平庭式枯山水苔庭」が開けます。池や築山をあえて造作せず、自然の平坦な地形そのままのつくりとなっています。木石の配置も、ゆったりしており、開放的なお庭です。「舎利殿」が工事中なので、元の姿と、嵐山の借景の全景を想像しながら、庭園独り占めの時間を過ごさせていただきました。
この客殿は、女性限定の宿坊にもなっています。私は残念ながら泊まれませんが、ここで朝食をいただき、朝のお勤めと法話を聞き、座禅を体験するというのも、心癒される時間になると思います。


柱で分断されてしまいましたが、舎利殿北側の木斛(もっこく)は、樹齢400年の銘木です。
客殿西北側にも、庭園があります。ひっそりと、藪椿が開花し始めていました。
客殿から舎利殿への歩廊の中ほどに、本堂があります。
本堂には、本尊・釈迦如来座像が安置され、その左右を、十大弟子像が並んでいます。南北朝時代の作で、応仁の乱の戦火を逃れることができた貴重なものとして今に伝えられています。運慶作と伝えられていますが、慶派の作品であるようです。開山の春屋妙葩像、義満像もありました。
「宝幢寺」当時の寺院群の様子を書き記した当時の地図も展示されています。天龍寺、臨川寺、鹿王院のもと、150余りの塔頭と、職人や、金融を担う土倉など、多くの人が集まり、一大門前町を築いていた様子がうかがえます。
鹿王院の銘木
客殿南側庭園の木斛のほかにも、立派な巨木を見かけました。
舎利殿南側の槇、中門前の松です。この松は、この大きさにしては、樹皮が剥がれることなく、大変きれいな状態を保っています。


中門前、参道右側に、天台烏薬の木があります。根は健胃、整腸作用があり、漢方薬として利用されています。始皇帝が探し求めた不老長寿の霊薬だとの伝説があるようです。
帰途の参道で、名残の紅葉を今一度。
蕾も少し色づき始めていますね。