「長岡京はどこにあった?」と聞かれたら、名前からして長岡京市にあったと思っている方は多そうですが、内裏や大極殿、朝廟堂などが集まる中枢部である「長岡宮」は、実は、向日市域に存在していました。
「長岡宮」の長岡の名は、京都嵐山から向日市まで南北に長く連なるゆるやかな丘陵の呼び名に由来するものといわれています。
丘陵一帯には竹林が営まれ、乙訓筍の名産地として知られています。
竹林を縫って通る「竹の径」は、散策路としても親しまれています。もっとも、誰もいない風の強い日には、径の両側の竹がしなり、ごうごうと鳴る音につつまれ、少し不安になるときもありますが。
丘陵の南端に鎮座する向日神社は、古くから近郷の崇敬を受けてきた歴史ある名社として、向日市のシンボル的な存在で、桜の季節には、参道が華やかに彩られ、多くの人でにぎわいます。
鎮守の森は、宅地化が進んだ市街にあって、貴重な緑のオアシスとなっています。正月には、初詣にお参りした後、本殿裏手のサザンカを見てくるのが、私の年明け行事となっています。
ところで、「向日」の町の名は、豊臣秀吉の時代にさかのぼります。秀吉は、明への出兵にあたって、九州の前線基地への物資輸送のために、西国街道の整備を進めましたが、このときに向日神社前の街道筋に町場を造らせました。
賑わうようになった町は、神社名にちなんで「向日町」と呼ばれるようになりました。
市制がひかれてからも、長らく親しまれてきた「むこうまち」の呼称は、今も、まちのアイデンティティを示しているようで、JRの駅名も「むこうまち」のまま残っています。
さて、西国街道に面する大鳥居から本殿までは、なだらかに上る200mほどの長い参道が一直線に伸びています。春の桜トンネル、秋の紅葉でも有名です。
参道は、正面、本殿に向かって延びているのですが、もともとは本殿の向きが違っていたのを、天保年間の大改修で、現在の向きに付け替えたということです。確かに、この配置の方がおさまりがよいのですが、もとの配置に何かいわれがあったのでしょうか。
本殿は、七郷の氏子衆が力を合わせて1418年に造営したもので、重要文化財指定を受けています(覆屋ですっぽりと覆われているので、外側からは見えなくなっています。)。明治神宮本殿のモデルになったというくらい優美な流造のようです。
その後、応仁の乱、細川氏、三好氏、信長と、山城地域の支配が、目まぐるしく変転する中で、固く結束していた土豪たちも否応なく巻き込まれ、敵味方に分かれることもあったようですが、地域の守り神として本殿は災禍から護られたのでしょう。
時代の流れにより、地域社会のつながりが希薄になってきている中で、今でも、氏子組織は形を変えながら存続し、5月に御神体を乗せた鳳輦と鉾や榊太鼓等の行列が氏子地域を巡る還幸祭など神事も多く執り行われています。
また、桜まつりの開催など、向日神社は、地域の交流とつながりに貴重な役割を果たしています。
(境内社の一つ、勝山稲荷社です。)
お正月に、本殿の裏手、「鶏冠井の森」に回ると、白サザンカが咲いていました。
毎年、初詣の時期は、やや花の盛りを過ぎていますが、今年も、木漏れ日に照らされて、白い花を全身にまとう姿を見ることができました。
遠目には、白いお札が枝枝に結わえられているようでもあり、神社らしい雰囲気のある樹だなあと思っています。まだ、幹回り50センチくらいの若木ですが、あと100年ほどすれば名木になるかも。
祖霊社の上に差し掛かるように伸びているのは、薄紫のサザンカです。これまで気づかなかったのですが、意外に大きなサザンカでした。
「鶏冠井の森」に咲く唐子咲きの椿。
社務所の傍らに咲く椿。
向日神社は、御歳神がこの地に姿を現して「向日神」として、養老2年(718年)に鎮座されたという由緒を持っています。
近隣の七郷、物集女(もずめ)、寺戸、土河、鶏冠井(かいで)、上野、今里、富坂という、向日市全域と、長岡京市、京都市西京区にわたる地域の鎮守として信仰を集め、室町から戦国の激動の時代には、土一揆の結集や、桂川右岸の有力土豪たちである「西岡被官衆」の寄合の場となるなど、歴史に名を残しています。
舞楽殿前を参道から左に折れて進み、見晴らしの良い高台に出ると、東、南、西と広く彼方を見渡すことができ、まさに、この地域の「拠点」にふさわしい立地だなと実感します。
遅ればせながら、今年も穏やかなよい年でありますように。
ここ数日は、関税騒動で世界経済は大わらわでしたが・・・。