
高尾の「高山寺」は、名だたる寺社が揃い踏みの”世界文化資産~古都京都の文化財”に列せられ、京都の代表的な寺院の一つに位置づけられています。
紅葉の季節には大混雑の高尾ですが、それ以外の時期は、世界文化資産の寺社の中では、まだしも静かな雰囲気を残しています。
「鳥獣戯画」という、抜群の人気を誇る”お宝コンテンツ”が強力ですが、明恵上人が華厳宗の道場として中興して以来、学問の寺として重きをなし、華厳経典、注釈書をはじめ、多くの貴重な書跡典籍が今に伝えられています。
高尾・栂ノ尾は、清滝川の流れを見下ろす山間にあって、秘境というほどではありませんが、まちなかからは離れて、日常の喧騒に煩わされない教学の場にふさわしいところです。
とはいえ、兵乱、火災に度々見舞われ、明恵上人当時の建物として現存しているのは、「石水院」のみとなっています。
「高山寺」は2つの参道があります。高雄観光駐車場に近く、急なジグザク道を上って 「石水院」に出る参道と、やや南の方に入口のある「表参道」で、もちろん「表」がメインです。
この表参道を進むと、石灯篭が両脇に立っていますが、ここには、かつて「仁王門」があり、湛慶作とされる仁王様が門番をしていたそうなのですが、明治14年に焼失してしまいました。せっかく明治まで「石水院」とともに兵火をくぐりぬけてきたのに、惜しいことですね。
山手へと延びる参道には、樹々の緑陰の下、苔むした石の築地が残っており、かつては堂舎や塔頭が並んでいた様子を忍ばせます。
「石水院」から茶室「遺香庵」にかけては、とりわけ風情ある風景となり、参道の脇に群立する藪椿の花とよくマッチしています。



「石水院」は、明治22年(1889)に、より安全な場所ということで、現在地に移されましたが、この場所は、「仁王門」と同じく明治14年(1881)に焼失した「三尊院」という塔頭の跡地だったようです。
明恵上人の住房であった「石水院」は、安貞2年(1227年)に洪水で損壊してしまったのですが、その敷地のそばにあった、もともとは経典の収蔵と読経の堂であった「東経蔵」が名跡を引き継ぎました。





後に、春日・住吉明神の神殿と、その拝所となる広縁が付設されたため、神仏フュージョンした独特の造りとなっています。
しかしながら、明治の移築のときに、神殿が取り払われてしまいましたが、あいかわらずの神仏分離による無体な所業だったのでしょう。
広縁には、小柄で愛らしい「善財童子」が一人、手を合わせてたたずんでいます。

明恵上人は、「善財童子」を敬愛していたそうですが、もう一体、上人がずっと手元に置いていたと伝わる、湛慶作の木彫りの子犬が今も堂内にちょこんと座っています。
小首を傾げ、くるりとした尻尾の先をきゅっと上に向けている、利発そうな子犬を見るのは、高山寺に来る楽しみの一つです。

運慶や湛慶の名前は、箔付けに使われることが多いのでしょうが、「高山寺」再興時の堂門の造仏には、運慶、湛慶が携わっていたとされているので、この子犬は、明恵上人が湛慶に特注したものであってもおかしくはありませんね。
「石水院」はかつて洪水で被災したと書きましたが、2018年の台風21号では、高山寺は大変な被害に見舞われました。豪雨で地盤が緩んだところに、京都市内でも最大瞬間風速39.4メートルを記録したというほどの猛烈な風が吹き荒れ、各所で瓦が吹き飛び、塀が倒れ、樹木が根こそぎ倒され、北部山間の杉林が広範囲でなぎ倒された惨状は今も記憶に残っています。
高山寺も、境内の多数の大木が倒れ、建物や築地が大きく破損しました。今なお、茶園北側の斜面が裸地のままで、参道脇に大きな切り株がいくつも残るなど、災害の爪跡が残っています。「石水院」の西側の斜面も崩落したようです。

気候の変動により、雨の降り方も大きく変わり、台風も巨大化している中で、山間部の歴史的建造物の被災の危険は高くなっているのでしょう。


高山寺の椿たち


