1 紅葉の散り積もる金福寺
紅葉シーズンも終盤。11月27日の土曜日に、左京区一条寺、詩仙堂の近くにある、隠れた紅葉の名所である金福寺(こんぷくじ)に行ってきました。
白川通北大路から少し北上し、一条寺下り松町バス停留所の南側の道路を西へと、山手に向けて、クランクのような狭い道を折れ曲がりながら進むと、何とか門前に到着できます。
私は、もう一つ南側の道から回っていったので、車一台やっとの隘路を恐る恐る進む羽目になりました。この寺は、車ではなく、歩いて訪れるべきところですね。
寺の門前に立つと、石段と山門の屋根に、紅葉が散り積もり、晩秋の風情を感じさせています。大寺院の堂々とした存在感とは異なり、山寺のやや鄙びた閑静さもよいものです。
2 庭園へと誘う藪椿
山門から入り、左手に椿垣を見ながら進むと、拝観受付があります。受付を済ませ、庭園に続く門の手前左側に、なかなかの大きさの藪椿がありました。
花色は赤とのこと。背が高くなり過ぎたのか、上部でかなり刈りこまれているので、蕾の付きは今一つのようです。門前の右側は、紅葉が美しく、誰もがそちらに注目すると思いますが、この椿は地味ながら、静かに、庭へと誘ってくれています。
この「芭蕉庵」と記された門をくぐると、私としては、一番、紅葉が美しいと思うシーンに出会いました。ドウダンツツジと合わせての紅一色の景色ですが、こうしてみると、違和感なく、溶け合っているのが面白いですね。
3 満開のサザンカ
本堂前の枯山水庭園から山手に、紅いもちじの合間に、白く咲いているのが、「サザンカ」で、ちょうど花盛りとなっていました。
根元から二股に岐れ、それぞれ、幹径20センチ余りあり、大木とまでは言えませんが、この時期、紅葉の中、アクセントとなる魅力を発揮していると思います。
4 「芭蕉庵」と西王母椿
「芭蕉庵」は、その名の通り、かつて、この寺で、京を訪れた芭蕉が、住職である鐵舟和尚と親交を深め、その後、和尚が芭蕉を偲んで、その草庵を「芭蕉庵」と名付けたものと伝わっています。
時が過ぎ、草庵の荒れ果てた様を見た蕪村が、それを惜しみ、各所に奔走しつつ、再興を果たしたとされ、その折に、「洛東芭蕉庵再興記」をしたため、寺に奉納したものが現存しているということです。
「ほととぎす待卯月のはじめ、をじかなく長月のすゑ、かならず此寺に會して、翁の高風を仰ぐこととはなりぬ。」
蕪村は、この寺において、俳句結社「写経社」の句会を開き、ここが俳壇というか、サロン化していたようです。芭蕉、蕪村の両巨頭に深い縁のあるこの寺は、俳句の愛好家の方々には、「聖地」となるのも肯けますね。
「西王母」は秋咲ですが、まだ、蕾固しの状態でした。上品な桃色の花が咲けば、茅葺の庵とよくマッチすることでしょう。
樹齢300年と言われるヤマモモ。迫力があります。麓の方に大きく傾いでいるため、つっかえ棒で支えられています。
この再興記は、最後に、「天明辛丑五月下八日 平安 夜半亭主蕪村慎識」と〆られています。
私は書の嗜みはありませんが、柔らかく、飄々とした筆致は親しみやすく、蕪村の画の雰囲気とも共通するものを感じますね。
天明辛丑は、元年、1781年のことです。安永5年は、1776年ですので、再興記は、落成5年後に記されたものですね。
5 村山たか女が尼僧として過ごした寺
また、金福寺は、舟橋聖一の「花の生涯」のヒロインである村山たか女が、尼僧として晩年の14年間を過ごした寺です。
たか女は、井伊直弼のかつての愛人として、京の攘夷論者たちの動向を探る幕府の隠密活動をしていたということで、桜田門外の変の後、三条河原で三日間,生晒にされ、何とか命ばかりは助けられたという、数奇な運命をたどった女性です。
司馬遼太郎の短編「人斬り以蔵」に、弾圧を行った幕府関係者に対する凄惨な復讐を行う様子が描かれていることを思い出しました。
たか女が一心に祈りを捧げていた弁財天像ですが、安置されている弁天堂が、現在修復中なので、本堂に仮に移されているため、間近で見ることができました。ふっくらとした優しいお顔の弁天さまで、哀しい境遇のたか女の心の拠り所となったのだろうなと思うと、感慨も一入でした。
山門のそばの広壮な民家の門前に、見事な椿がありました。京都の散策の楽しみの一つは、民家の庭先にも、時折、このような椿を見つけることができることがありますね。