年末の常寂光寺に椿を見る

1 嵯峨野を歩いて常寂光寺へ

 紅葉シーズンには混雑した嵯峨・嵐山も、冬の訪れとともに次第に静かとなります。

 嵐山の中心地からやや離れ、小倉山の山野に臨み、鄙びた風情を残す、二尊院、常寂光寺、落柿舎の界隈は、この時期、雑踏の音も遠ざかり、散策には絶好となっています。

 年の瀬の12月30日に、常寂光寺を訪ねました。

 小倉山山腹の、かなり勾配のある斜面に、本堂や多宝塔などが建てられています。

 樹々が全山を覆っていますが、斜面の高低差を活かしながら、長年にわたる管理と配置の工夫を重ねてこられたのでしょう。建物と樹々とがバランスよく調和しており、絵になる景観となっています。

 常寂光寺は、慶長年間(1596〜1614)に、大本山本圀寺第十六世究竟院日禛上人により開創されましたが、寺名は、お釈迦様が住むといわれる、絶対真理が具現している浄土「常寂光土」から名付けられたとのことです。字面からは、常に閑寂な趣をたたえるところという、風情を表すネーミングとしてもぴったりであり、ダブルミーニング的なこともあったのであれば、面白いなと思いました。

2 仁王門から石段を登り本堂、多宝塔へ

  山門をくぐり、拝観受付を済ませて、仁王門へと進みます。本圀寺客殿の南門を、元和2年(1616年)に移築したもので、境内で最も古い建物ということです。

 仁王門なので、阿吽二体の仁王像が、門番をしておられます。

 本堂へは、かなり急な石段を上ります。参道両側をカエデが林立しており、つい一月ほど前の紅葉時の美しさが想像できます。

 本堂は、小早川秀秋の助力により、伏見城客殿を移築したものだということです。

 本圀寺紅葉の紋章です。紅葉の名所にふさわしいですね。

 本堂の傍にも、多くの椿が植えられています。

 蕾はふくらんでいるものの、開花まではまだ早いようでした。白色系の園芸種だと思いますが。

 本堂から、さらに山手に上がると多宝塔です。元和6年(1620年)に、京都町衆により寄進されたもので、霊元上皇宸筆の勅額「並尊閣」が掲げられています。檜皮葺の、木組みの細工が繊細で美しい塔で、重要文化財に指定されています。

 多宝塔の上手から、嵯峨、京都市街を一望に見渡すことができます。

3 境内の椿たち

 境内の庭園には、そこかしこに、多くの椿が植えられています。

 受付の方にお聞きすると、住職は、山野草の愛護、研究に力を入れておられ、地元の希少種や、この寺にしかない蓮などの保存栽培に尽力され、境内にも多く植栽されているということで、有名な紅葉や桜だけでなく、多様な植物を四季折々に見ることができると伺いました。

 おそらく、椿についても、これだけの数が植えられていることから、造詣も深く、愛着を持たれていると思います。

 藤原定家の小倉山荘「時雨亭」の場所は確定されていませんが、仁王門から、二尊院にかけてのあたりに所在したのではないかと言われています。

 百人一首の26番、貞信公・藤原忠平の歌碑

「小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば いまひとたびの みゆきまたなむ」

 まだ開花には遠い感じでしたが、藪椿が一輪、梢に咲いていました。紅葉も落ち、冬枝の中で、椿の紅い花は、つつましいながらも印象深く彩りを見せてくれます。

 帰路、境内の西側、参拝客の寄らないであろうところに、空高く伸びる、大きな藪椿の一群を見つけました。最も大きいものは、下の写真の左側の椿で、幹周80センチ以上ありました。

 さらに南に、巨木が一本ありました。自然のままに生い茂っており、幹周は1メートルを超えていると思われます。すでに赤い花を何輪か咲かせていました。

 このように、寺社のメインの場所ではなく、意外なところに、大椿が存在していることは多いのではないかと思います。探訪を続けていると、だんだんと、第六感が働いてくるかもしれません。

 

4 常寂光寺と角倉家

 「塵劫記」とは、久しぶりに聞く名です。日本史の教科書に載っていますね。算術の教科書としてのベストセラー&ロングセラーとして有名です。

 著者の吉田光由は、嵯峨の角倉家の一員で、角倉了以(1554~1614)の甥にあたります。大堰川高瀬川をはじめとする河川開削事業を成功させた実業家の家系として、算術の才も必須のものとして一族に伝えられていたのでしょう。

 菖蒲谷池は右京区梅ヶ畑菖蒲谷にあり、吉田光長・光由の二人が寛永年間(1624~44)に造ったもので、菖蒲谷隧道を同時に掘削し、これまで水不足に悩まされていた北嵯峨一帯の田畑を潤したと伝えられています。

 常寂光寺の開創の際に、寺域を提供したのも、角倉家ということで、嵯峨一帯における影響力が偲ばれます。