祇王寺に薄墨椿を訪ねる

1 厳寒の祇王寺を訪れる

 祇王寺は、平安時代に、法然上人の弟子である念仏房良鎮が開創した往生院に由来します。往生院は、山域一帯を占めていましたが、後年、荒廃し、わずかに一部が尼寺として残り、祇王寺と呼ばれるようになったと伝えられています。

 祇王寺は明治初年に廃寺となりましたが、これを惜しんだ大覚寺門跡と京都府知事・北垣国道らにより、明治28年に再興され、昭和10年からは、明治・大正にかけて芸妓として一世を風靡した照葉こと智照尼が庵主として、寺の維持、発展に尽力されました。

 ここには、薄墨椿と呼ばれる、やや黒みを帯びた花色の藪椿があるということで、出かけてみることにしました。

 清凉寺・嵯峨釈迦堂前の道を西に進み、二尊院を過ぎ、左に折れて、そのまま、山の方へと入っていくと、突き当りが、祇王寺の入口となります。

 苔むした門をくぐります。

2 一面の苔に覆われる境内

 中に入ると、一面の苔、苔、苔・・・。

 この日は零下に下がる寒い日で、苔にも霜が降り、朝の光に、きらきらと反射していました。

 今更ながら、苔は、常緑なんだなと。

 まだ、咲いていませんでしたが、椿は、園内にいくつか植えられています。

 草庵の傍の大きな椿は、数輪の花が咲いていました。

 もうしばらくすると、開花と落ち椿が、草庵の「吉野窓」から見ることができるのでしょう。

 この草庵は、北垣国道が、別荘を寄付したもので、中の仏間には、祇王、祇女、刀自、仏御前ら5人の木像が安置されています。

3 「薄墨椿」

 お目当ての「薄墨椿」は、受付入り口のそば、山手側にありました。

 残念ながら、開花しておらず、受付の方にお聞きすると、まだ先のようでした。老木ではないですが、あまり樹勢が強い品種ではないのかもしれませんね。

 流石に、1月なので、椿のシーズンには少し早かったかなという感じでした。

 椿は、梅が咲いてからかな。

(追記)「薄墨椿」です。現物よりも、明るく映っているのですが、心なしか、やや沈んだ色合いを感じさせるような気も・・・。

 

 静かなる草庵のイメージと合う造作です。

 祇王寺からの帰途、沿道脇に、美しい、咲き分けの椿がひっそりと咲いていました。

4 祇王と智照尼

 平清盛に見初められた、白拍子祇王が僥倖もつかの間、同じ白拍子の仏御前に心移りした清盛から追い出された挙句、仏御前を前に芸を披露させられるという屈辱の目に遭い、世を儚み、この世を去ろうとした・・・。

 祇王の悲運と、明日は我が身と、祇王とともに出家の道を選んだ仏御前を語る物語は、平家物語の中でもポピュラーな段として知られています。

 このブログを書くために、いろいろとネットで調べてみて、初めて、智照尼さんのことを知りました。

 当代人気随一の芸妓であった「照葉」さんの、数奇な生涯と、哀しい境遇、そして、仏の道に入ることによる救いと、まさに、祇王の物語と重なるような姿に感銘を覚えました。

 照葉が兄さんと慕った、長島隆二氏(大蔵官僚、衆議院議員桂太郎の娘婿)の『政界秘話』(1928年)という手記に、「萬龍と照葉」の章で、照葉の芸妓に至る境遇や、照葉が何よりも大切にしていた実弟の死、その後の消息の不明と再会など、様々な場面での彼女との思い出が記載されていますが、出会いからずっと、悲運に見舞われる照葉を見守る、氏と照葉との心の通い合いが、しみじみと語られ、心を打ちます。

ウィキペディア 「高岡智照」の項目 脚注26で読むことができます。

 もちろん、美化されているところはあるでしょうが、当時のエリートには、自他ともに認める自負があり、また、これだけの文章をものする文才も備えていた人も少なからずいたのでしょうね。

 氏は、智照尼による祇王寺の再興にも協力されたということで、氏としても嬉しかったであろうことと思います。