今回は、世界文化遺産「古都奈良とその文化財」の一つに数えられる「元興寺」の椿をご紹介します。
興福寺、猿沢の池の南にある「元興寺」界隈は、縦横に走る狭い通りに家々が軒を連ねる中に、風情ある町家や史跡が点在し、街並みに馴染んだ店舗巡りも楽しめる「ならまち」として、古き下町的たたずまいが人気のエリアとなっています。
というよりも、「ならまち」は、もともと、広大な伽藍を誇った「元興寺」の境内地に形成されたものであり、寺が3箇所に分離して、部分的に存続しているというものですね。
かつての伽藍の全容をしのばせる「元興寺古図」では、境内の南端に東西に分かれて「椿園」が描かれ、椿油を採取していたことが付記されており、ならまち南西部の一角に、今も「花園町」の名を伝えています。
1 「元興寺」の歴史
さて、「元興寺」の歴史は、我が国への仏教伝来にさかのぼります。蘇我馬子の発願による「飛鳥寺」が、平城京遷都とともに現地へと移転、官寺となって「元興寺」へと名を改め、南都七大寺の中でも有力な寺院として確たる位置を占めます。
とりわけ、教学に力を入れ、浄土教の先駆的研究を行った「智光」をはじめ、名僧を輩出しました。東西に、僧房が並び立ち、多くの僧が、学問、修行に勤しんでいたようです。
時は流れ、平安時代の院政期に入ると、次第に朝廷の力が衰え、荘園や寺領からの収入もままならず、寺勢は衰えますが、ここで「元興寺」は大きな転機を迎えます。
浄土宗の広がりとともに、民衆の極楽浄土へのあこがれが強くなる中、「智光」が夢で見た浄土を描かせた「智光曼荼羅」を祀った僧房が「極楽坊」として、信仰を集めることになります。
浄土信仰だけでなく、地蔵信仰や弘法さんや聖徳太子への信仰などが交じり合う、いかにも民衆信仰らしい包摂的信仰の一大拠点として、「官寺」から、民衆に支えられる寺へと変わっていきました。
鎌倉時代(寛元2年(1244年))の大工事では、僧房から切り離された仏堂が、現在のような阿弥陀堂に改造され、多くの信者の来訪に応えられる造りとなります。
このように、「極楽坊」は、「元興寺」の中心になるとともに、この地を極楽とみなして、極楽往生を願う人々が多くの石塔や石仏を建てるようになったようです。
長らく南都の浄土信仰の中心地として栄えた「元興寺」ですが、信長、秀吉、家康という新たな支配体制の下で、次第に民衆寺院の色合いが消えてゆき、それと合わせるように、境内地に住家が立ち並ぶようになり、これが今のならまちへとつながっています。
なかなかにドラマティックでストーリー性のある歴史の歩みではありますが、さらに、明治の廃仏毀釈からの復興も特筆すべきものです。
無住寺となるまで荒廃していた寺の復興に情熱を燃やしたのが,辻村泰圓師です。国をはじめ、各方面に精力的に働きかけた結果、昭和45年ころに整備を終えるとともに、その過程で出土したおびただしい資料の保存・調査のため、元興寺文化財研究所を設置するなど、八面六臂に活躍されました。
2 「元興寺」の椿たち
この昭和の大整備に関連して、かつての椿園にちなんで、境内に椿を植樹しようと動かれたのが渡邊武博士。寄付集めから始まり、品種選定も任され、専門園芸業者や椿愛好家の協力を得ながら、相当な尽力をされたようです。
椿は、昭和の整備に合わせて、石塔や石仏を並べた「浮図田」の奥側にある小園とその一帯に植えられています。
バラエティに富んだ品種を楽しめるかもと期待していたのですが、紅い素朴な花を付けたものが多かったですね。白花もありましたが、紅花をベースに統一的にまとまっているため、落ち着いた風景を生み出しており、好ましく感じました。巨樹はありませんので、整備に当たっては、大樹を移植することはなかったのでしょう。
50年程度では、まだ貫禄ある樹には至りませんが、古い石塔や石仏のある小径を彩る椿林となって、訪れる人を静かに優しく迎えてくれます。
お地蔵さんや手水舎など、そこかしこに椿の花が供えられていました。古の椿園ありしころの、人と椿との関わりが、今に伝わっているように感じました。
「東門」外では、塀沿いに並ぶ曙や鮮やかな紅の椿が満開で、参拝客を迎えてくれていました。
3 名宝「元興寺」
「元興寺」は、3つの国宝、「極楽堂(本堂)」と「禅室」と「五重小塔」を有しています。復興の祖ともいうべき辻村泰圓師は、助成の動きの遅い国に発破をかけようとしてか、「五重小塔を売却して整備資金に充てる」との啖呵を切ったという逸話があるようです。
似たような話で、11世紀初頭、官寺の没落が急だったころ、窮乏した「元興寺」は、その名を冠した琵琶の名宝を手放し、当時東宮であった後朱雀天皇が買い取られたという記事が「古今著聞集」に載っています。ちなみに、この名宝「元興寺」は、修理に出した先の職人が勝手に一部を切り取り、数珠の材としてしまったそうで、何とも嘆かわしい、トホホな話が後日談として伝わっています。
傷つけられ行方知れずとなった名宝「元興寺」とは異なり、五重小塔は法輪館に安置され、美しい姿を見ることができます。
長い歴史の中で何度も訪れた火災や財政危機を切り抜けて、貴重な名品が残されているのは、ありがたい限りですね。