豊臣秀吉が、京を外敵から防御し、また、鴨川の氾濫による水害から守るため、市街をぐるりと囲むように築いた「御土居」。
この御土居には、京と各地とを結ぶ主要な街道とが交差する場所に、いわゆる「京の七口」と呼ばれる出入口が開かれていました。
御土居は一部しか残っていませんが、「口」は、鞍馬口(鞍馬街道)、荒神口(山中越え)、丹波口(山陰街道)など、今も地名として、往時の名残をとどめています。
なかでも、粟田口は、東海道、中山道という大街道の出入口となる要所であり、東海道と同じ道筋を今なお走る三条通は、幹線として変わらぬ賑わいを見せています。
粟田口は、物流の要衝であるだけでなく、平安時代から三条派や粟田口派の刀鍛冶の名匠を輩出し、また、清水焼をしのぐ勢いとなった粟田焼を生み出すなど、職人のまちの一面ももっていました。
そんな粟田口の鎮守である「粟田神社」には、霊元天皇(1654~1732年)の命名と伝えられる椿「明月」があります。
1 粟田口から粟田神社へ
9月半ばというのに、信じられないほどの暑さが続いていますが、京都はインバウンドの戻りもあり、沢山の観光客が繰り出しています。
東山三条界隈も、平安神宮、動物園、美術館を控える観光ゾーンなので、人出がかなり多かったですね。
久しぶりに、古川町商店街をぶらついた後、三条通を東へ、神宮道を南へと曲がると、観光客の姿もまばらになってきます。
三条通と神宮道に接しては、元白川小学校(元粟田小学校)がありましたが、その跡地には、2022年7月に「THE HOTEL HIGASHIYAMA by Kyoto Tokyu Hotel」が開業しています。
景観と歴史に配慮しながら、地域・文化交流の拠点ともなる「ミュージアム・ホテル」を目指すというコンセプトの一環なのでしょう。かつての学校の正門の跡には、粟田小学校の表札がかかり、粟田口の由来の掲示板が立っています。
「尊勝院」の道しるべを横目に、ホテルの裏手の並木道を進むと、粟田神社の二の鳥居が見えてきます。
鳥居をくぐり、参道の坂道を上がると、小高い場所が開け、拝殿、本殿や多くの摂社などが建ち並んでいます。
本殿から、屋根が入り組みながら、連続し、正面には、本殿に接続する幤殿の「向唐破風」が庇のようにせり出しています。なかなか凝った意匠ですね。
宝物殿の見学は無料です。刀剣や粟田焼などが展示されていましたが、粟田焼の説明で、もし毒薬を投入すれば忽ち色が変わるとされ、高貴の人々に重用されたとありました。銀食器がヒ素に反応して黒くなるという話は聞きますが、粟田焼の陶土か造りゆえの不思議な特性があるのでしょうか。
2 明月椿
一回りお参りさせていただきましたが、お目当ての椿は見つかりません。
社務所に行くと、明月椿のお守りがありましたので、買い求めまして、この明月椿のありかと由緒をお聞きしました。
椿「明月」は、境内を一段下がった駐車場の一角にあるとのこと。
名の由来は、霊元天皇が、この椿を目にとめられ、「明月」と名付けられたとのことです。近くに青蓮院門跡があり、その三条白川坊の裏手にあった尊勝院と霊元天皇との関りが深かったことから、粟田神社に寄られて、この椿をご覧になる機会もあったのだろうなと思います。
天皇の在世を考えると、名づけは、およそ300年以上前のこととなりますが、この椿の樹齢は、おそらく250年程度ということで、名づけの椿の二代目のものではないかとのこと。
早咲きで、昔は11月ごろから咲き始めていたらしいのですが、年を重ね、気候の変動もあり、最近は1月ごろに咲きだして、3月いっぱいまで花を咲かせているそうです。
「駐車場に行くとすぐわかりますよ」との言葉通り、立派な椿はすぐにわかりました。「区民の誇りの木」の木札がかけられています。
京都市のHPには、「高さ5m、幹周0.71m、江戸時代に「明月」と命名された白花の椿で、樹齢は250年といわれています」と記載されています。
灰白色の幹が美しく、酷暑が続く中にも、元気に葉を茂らせていました。
ちょうど実が割れる時期で、1センチ余りの小粒の種が地面に散らばっていました。
この古木の根元には、何本か椿が生えており、実生の三代目が育っているようでした。
名のある椿ですが、とりたてて存在を記されることもなく、境内にあるわけでもないので、あまり目に触れることがないかもしれません。神社のHPにも特に載っていませんしね。
「明月」の名前からは、満月のようにふくよかで大輪の花を想像しますが、あらためて再訪し、花の様子を追記したいと思います。