1 衣笠にある等持院
等持院は、嵐電北野線・等持院駅の北、立命館大学衣笠キャンパスの南に隣接しています。
車で行く場合は、洛星中学校・高校から西へ笹屋町通を入っていきます。
足利氏の菩提寺である等持院は、夢窓疎石の作庭と伝えられる庭園「心字池」と、庭園「芙蓉池」の二つから構成されている庭園が有名です。
園は、方丈と、歴代足利将軍の木造像が安置されている「霊光殿」の北側に、東西に渡り広がっています。
まさに、回遊式庭園の名のままに、書院から庭に下りて、周遊できます。
園内くまなく、さまざまなスポットを楽しみ、風景の中に身を置いて、空間を体感できるのは、縁側から見るのとはまた違う貴重な体験です。樹々が好きな人にとっては、なおさらのことでしょう。
2 等持院の有楽椿
ここには、樹齢およそ400年と伝わる「有楽椿」があります。
樹齢、樹容の見事さ、由来、場所の価値、もちろん、花色の妙、落花の映えなど、京の名椿として、屈指のものです。
「有楽椿」は、「芙蓉池」の庭園側、茶室「清漣亭」の近くにあります。
池を見下ろす小高い場所に、がっしりとした太い樹が、三方へと枝を張っている姿を見て、感動しました。
幹は、いかにも年月を感じさせ、とりわけ池側に張り出した枝が、力瘤のように節くれだって、うねりながら伸びているのは見事です。
寺の方に伺うと、やはり、有楽椿の手入れには十分に手間をかけているとのことで、今も花付きがよく、開花時期も、例年通り、1月から3月にかけて、咲き続けているとのことでした。
【追記6.2.11】
まだ満開前ですが、かなり開花が進んでいます。
古味のある幹回りの苔むす地面に散らばる落ち椿。
もう少し花の盛りの時期に来ると、より風情ある姿が見られるかもしれません。
この、やや異形な枝ぶりが強く印象に残ります。
方丈側から池越しに臨む椿。
葉の黄変が目立つのが少し心配ですが。
私は、庭としては、自然の趣を残す「心字池」側に、より心を惹かれました。
数多くの山茶花や藪椿が、あまり手を加えた様子なく、植えられています。有楽椿のような、巨樹はなく、林の中に、目立たずに溶け込んでいるという感じです。
初春の花咲く時期には、庭にどのようなアクセントを付け加えるのか、楽しみです。
【追記6.2.11】
藪椿ではなく、紅山茶花の群落でした。
「霊光殿」裏手の紅梅と椿。
等持院は、戦国の世の中で、足利将軍の弱体化に伴って衰微していったのですが、慶長11年(1606年)、豊臣秀頼により片桐且元を奉行として再興されたと伝えられます。
有楽椿は、この際に植えられたとされているので、樹齢400年超えと言われている訳です。
膨大な数の、神社仏閣の建造、修復を行っていた秀頼ですが、1614年には、方広寺の鐘銘に難癖をつけられ、その翌年には、大阪城にて、豊臣家滅亡へと、坂を転げていく流れとなるのは、御承知のとおりです。
霊光殿には、足利将軍とともに、何故か、家康の木像も並んでいます。明治の廃仏毀釈のあおりで、石清水八幡宮から等持院に移されたとのことですが、秀頼のことを考えると、やや複雑な気持ちになりましたね。
3 足利将軍像にまつわるエピソード
霊光殿にある将軍像には、あまり表立っては出てこないエピソードが結構あります。
①「首がすげ替えられた?」
13体の将軍像のうち、最も知られている三代義満像は、四代義持像と首が入れ替わっているらしいというお話です。頭部は嵌め込み式となっていますが、義満とされるものには「勝」の墨字が、義持のものには「鹿」の字が記されているとか。義満の法号は「鹿王院」、義持の法号は「勝定院」であること、また、義持は頬髯をはやしていた肖像画もあるのでその特徴からも、どうも「てれこ」の可能性が高いと言われています。
義満像を見て、室町幕府の最盛期に君臨した将軍の威厳と自信を感じさせると思えるのは、「先入観」によるものだったということになるのかも。
②三像梟首事件
文久3年(1863年)、平田篤胤門下の尊王攘夷一派が、尊氏、義詮、義満の像の首を引っこ抜いて、逆賊として、三条河原に晒したという事件です。京都守護職であった松平容保は激怒、厳しく処罰し、後に新選組による峻烈な取り締まりの一因ともなったと言われます。
③平成の盗難事件
2008年10月、尊氏像、義晴像の手首、義満像など5体の刀の柄部分が抜き去られたという事件です。こんな罰当たりなことをする輩がいるので、間近に見れる機会がなくなってしまうという甚だ迷惑な話です。
④名品「源頼朝像」は直義?
神護寺の名品、藤原隆信筆の「(伝)源頼朝像」。近年、これは頼朝ではなく、足利直義ではないかと言われていますね。同じく「平重盛像」は尊氏、「藤原光能像」は足利義詮ではないかと。
今回、将軍像をじっくりと見ますと、垂れ目で人好きのしそうな尊氏、切れ長で感覚の開いた目と幅広の顔の義詮は、確かに、藤原隆信の絵と似ていましたね。
将軍逝去の後、木像を院におさめる慣例が続いていたので、各像は、記憶が定かなうちに生前の姿を写しているものと考えられています。
13体とも、顔立ちが個性的ですし、それぞれの生涯、治世の出来事を思い起こしながら、像の表情に重ね、読み取るのもまた楽しいものです。