洛西の秋

 令和7年11月15日(土)、16日(日)、洛西の寺社の秋も深まってきています。

 勝持寺の様子です。

 参道沿いの民家の庭の柿。

 大原野神社はだいぶ色づきました。

 浄住寺です。11月22日(土)から12月14日(日)まで、秋の特別拝観です。

 サザンカはもう咲き始めています。

 黄檗宗のお寺らしく、お茶の花が満開です。

 竹の寺・地蔵院の紅葉は今少し後かな。

 明日から冷え込むらしいので、今週末には、紅葉の見頃を迎えるところも多くなるでしょう。

當麻寺の古塔と椿

 大阪と奈良の境を南北に渡る葛城連峰の一峰「二上山」は、万葉集にも詠まれた名山ですが、その南東麓に、山を仰ぎ見るように「當麻寺」の伽藍が並んでいます。

 「當麻寺」の始まりは、飛鳥時代にさかのぼり、612年に、聖徳太子の弟である麻呂子王が河内国に創設し、後に、白鳳9年(681年)に、麻呂子王の後裔となる豪族當麻氏が、現在地に遷し、氏寺として、平安時代にかけて、堂宇の整備を進めたとされています。

 4月15日の「練供養」や牡丹の時期には、賑わいを見せますが、立地的に、奈良市と併せての観光に組み込まれるにはやや離れているせいもあるのか、私が訪れた9月13日は、連休の土曜日にもかかわらず、観光客はまばらで、古寺ならではの落ち着いた時間を楽しむことができました。

 椿の方は、東・西両塔へと向かう上り路に沿って、幾本か大きな椿を見かけました。

1 當麻寺の伽藍

 この日は、広陵町での所用を済ませた後、百済寺の三重塔を見てから、近場にある名刹當麻寺」を訪れることにしました。

 この三重塔は、神社の境内に、にゅっと聳え立ち、本堂もこじんまりしたものが、やや離れて建っているため、単発の建造物かのように独立しているようで、不思議な異質感がありました。なぜ、ここに建てられたのかも明確にはわからないようで、何やら謎めいた雰囲気でしたね。

 三重塔を後に、大和高田市役所前の通りを真西に、田園風景の中、車を走らせると、近鉄らしいローカル駅感いっぱいの「當麻寺」駅へと行き着きます。駅前を曲がると、再び西へ當麻寺へと一直線の道が続きます。国道165号を横切ると、いかにも門前町らしい家並みが両側に現れ、狭まった道を対向車に気を使いながら進むと、その先に、大きな仁王門が現れました。

 仁王門の石段を上ると、門の向こうに、国宝の本堂(曼荼羅堂)と左右の講堂、金堂、そして、背景は、緑の二上山を望む景色が見えてきました。當麻寺は、これらの主要伽藍を取り巻くように、13の塔頭寺院が配置しており、それらが一体となって広い寺域を形成しています。

 全国でも唯一、創建時の対の姿が残る、東・西両塔は、高台に建ち、緑豊かな山合いに浮かぶように美しい姿を見せ、塔頭「中之坊」、「護念院」の庭園の借景ともなっています。

 まずは、本堂にお参りします。ご本尊の「當麻曼荼羅」は、天平宝字7年(763年)に、藤原家の姫・中将姫が蓮の糸を一夜で織り上げたとの伝承があり、極楽浄土信仰のシンボルとして、浄土宗の布教とともに全国的に有名になったものです。

 原本は、痛みが激しく、代わりに、転写した「文亀本」(1503年)が懸けられています。一丈五尺(4.5m)もある曼荼羅なので、収納する厨子須弥壇も大型です。この国宝の須弥壇は、源頼朝の寄進によるもので、華美というより、いかにも重々しい造りで、勾欄は、漆塗りで、虎縞のように、黒地に暗い橙色の模様が入っていました。

 もとは、厨子を奉るお堂であったものが、曼荼羅を拝む人が増えるにつれて、段々と建て増しを重ねて、現在の姿に至っているようです。

 當麻寺は一時、興福寺の末寺となったことがあり、そのせいで南都焼討の類が及んだのですが、大きな焼損に至らずに本当によかったと思いますね。

2 金堂の四天王像

 金堂には、日本最古の塑像である国宝・弥勒菩薩がどっしりと鎮座し、その四方を重要文化財の四天王が護っています。

 四天王像といえば、憤怒の形相で、腰をひねって構える力感ある動的な姿を思い浮かべますが、ここの四天王は、その印象とは全く異なります。

 うち三体は、白鳳時代の作で、法隆寺の四天王に次いで古く、もみあげに顎髭をたくわえた中国の武人そのものの特異な風貌をしています。もちろん、厳めしくはあるのですが、静的なフォルムもあって、猛々しいというよりは、学問にも親しんでいそうな知的な穏やかさを感じました。

 多聞天のみが、鎌倉時代の補像ですが、面白いのは邪鬼です。踏みつけられるのを全身で抗うように、筋骨隆々とした手足を思い切り突っ張っていて、ここだけ、異質な空気が動いているようです。旧来の姿を踏襲しつつも、リアル感を好む、創造性豊かな鎌倉仏師らしく、一定の自己主張はするぞというところなのでしょうか。

3 東塔・西塔の参道脇の椿

 建築技法から、東塔は奈良時代末期、西塔は平安時代初期から中期にかけての建立と推定されています。(※より強度を高める工夫が進んだ組物の違いでわかるそうです。)


 平重衡による南都焼討から逃れ、何度も改修の手が入って、今日まで伝えられてきた貴重な遺産です。見た目だけでなく、こうした歴史の積み重ねというのが、かけがえのない価値になっていると思いますね。

 東塔への参道には、樹々が生い茂っており、なかなか塔の姿を仰ぎ見ることができません。樹々の合間には、大きな椿が林立していました。参道左手がちょうど塔頭「中之坊」の名園を見下ろすかたちで上っていくので、「中之坊」からは、遠景に椿が見えることでしょう。

 塔の裏手に回ると、均整の取れた全身の姿を見ることができます。つい先年に大改修された西塔と比べると、東塔は、やはり古びているのが味わいがありますね。

 一方、西塔は、参道の正面に建っているので、見栄え良い姿が間近に近づいてきます。ただ、東塔のように、周りに入ることができず、正面の姿しか見ることができません。こちらも、参道左手に「護念院」の庭園があり、園の椿が参道沿いの垣根の一つとなっていました。

 瓦の黒、壁の漆喰の白に、椿の赤と、シーズン時には、どちらの塔とも、なじみ深いシンプルな彩りの風景を楽しめると思います。

 

 「當麻寺」は、少なくとも半日はかけてゆっくりと見るべきところですね。主要な塔頭については、次回のお楽しみとしておきます。毎回、現地を訪れた後で、見ておけばよかったと思うものが多く、事前のリサーチ不足を悔やんでおります。

 季節によっても風景は変わるし、何度かリピートすることで、より魅力がわかるというものなのでしょう。

(追記1)

 昼食は、門前の「玉や」さんで、釜めしをいただきました。焚き上げに30分かかるので、拝観前に予約しておいて、待たずにあつあつのものを食べてきました。大和鶏がほどよい歯ごたえがあり、風味が濃くて、おいしかったです。

(追記2)

 「當麻曼荼羅」の織糸となった蓮の糸ゆかりの「石光寺」は、當麻寺の北方の葛城市染野の集落にあります。

 稲穂の実り始めた田んぼの広がるのどかな地に山門を構えていたこのお寺は、牡丹、芍薬をはじめ、四季の花を楽しめることでも知られています。訪れた日は、山門横の百日紅の巨木が名残の花で迎えてくれました。

 たまたま庭園が整備中で、観ることができず残念な思いをしましたが、塀越しに、多くの椿があるのがわかりました。ここの牡丹は、1月に盛りを迎える珍しい寒牡丹も有名で、この頃に訪れると、早咲きの椿も見ることができるかもしれません。

 

 

佐野市・洞雲寺と南光寺の椿

 栃木県の佐野市と言っても、関西人にはなじみが薄く、「佐野らーめん」くらいしか思い浮かばない(失礼)のですが、足利市まで足を延ばしたついでに、周辺の市で、どこかに椿の名木がないかと調べたところ、東隣の佐野市には、天然記念物の椿が3本数えられているのがわかりました。

 そのうちの2本を、足利市の観光の後に、駆け足で巡ってきましたが、どちらも、樹齢350年を超える古木・巨樹で、風格ある姿に感動しました。あまり喧伝されず、密やかに咲く大椿を見つけると嬉しいですね。

1 洞雲寺のツバキ

 佐野市を縦断して渡良瀬川へと注ぐ旗川沿いの山あいの小さな集落を抜けて、その外れにある山際の高台にひっそりと建っている洞雲寺。

 車を停めて、お堂に向かう径を上がると、墓石や供養塔が並ぶ苑に、樹高約12mもある大きな椿が見えてきました。

 これが「洞雲寺のツバキ」で、目通り周囲1.7m、推定樹齢約350年といわれる八重ツバキです。高さもさることながら、横にも広く広がり、こんもりとした樹形をして、葉が勢いよく茂っています。

 年を経た椿らしい色と形の幹と太い枝は、古木独特の味わいを出しています。このような大椿になると、枯れかけた枝や、葉付きが悪いものも多いのですが、この椿の青々と茂る元気の良さは樹齢を感じさせないものでしたね。

 矯めつ眇めつ、椿を鑑賞した後に、本堂にお参りしましたら、奥から寺の奥さんが出てこられました。おそらく檀家以外は滅多に訪れる人もいないのでしょう、奥さんも驚かれた様子でしたが、私が椿ファンであること、見事な椿に感動したことを伝えると、「どこから来られましたか」と問われ、京都からと答えると、「ああやっぱり、懐かしいわ」と。

 聞くと、その昔に、同志社大学で学生生活を送られたとのこと。私は生粋の京都人ではないのですが、長く住んでいるのでイントネーションに京都らしさはあるのでしょうね。

 奥さんに椿のことをうかがうと、花色は赤というよりも桃色に近く、散り時には、樹下周りが一面桃色に敷きつめられるそうです。確かに、この大きさと樹勢であれば、花の量も半端ではないでしょう。

 花びらが散るので、掃除が大変だとおっしゃっていましたが、もしかしたら、花ごと落ちるのではないのなら、散椿系統なのかもしれません。

 樹下の路の拡幅舗装の際に、路側に張り出した大枝を何本か切り、ワイヤで補強したということで、その跡も見えましたが、あまり樹勢への影響は感じさせませんでした。

 椿には、古木にふさわしく、しめ縄が巻かれていますが、年に一度、地元の方が結わえてくれるそうです。

 私が、「もっと有名になってよい椿ですね」といいますと、奥さんはかぶりをふって、「昔からの有るがままの姿で、これまで通りに静かに咲いてくれるのがよい」とおっしゃりました。

 お寺の維持管理にご苦労されつつも、地元の拠り所であるお寺を護っていただいているご様子でした。

 また、いつかの機会に、満開の椿を見れることを願い、洞雲寺を後にしました。

2 南光寺の大白ツバキ

 洞雲寺から西の方角、葛生町の北部の山あいにある南光寺。

 ここにも、樹齢350年といわれる古椿があります。しかも「白椿」というのが珍しいですね。

 山の樹林を背後にしてポツンと建っている小さなお寺の境内に入りましたが、本堂周りには、それらしい樹は見つかりません。

 少し探すと、「白椿」と記された道標があり、それにしたがって、山に続く竹林の径を上っていくと、山の傾斜に沿った古い墓地へと出てきました。墓の並ぶ段の一番高いところに、大きな椿の樹が二本立っていました。

 向かって右側のより大きな椿が、「南光寺の大白ツバキ」です。

 樹高約10m、目通り周囲1.3m、枝張り8mという巨木です。

 昼なお薄暗い鬱蒼とした竹と樹々に囲まれながら、木漏れ日を受けて黒々とした堂々たるシルエットを見せていました。

 誰もいないし、場所が場所だけに、どことなく怖々とした近寄りがたい雰囲気もありましたが、春、白い花が咲くと、薄暗がりをバックに鮮やかに浮き上がって、一層美しく見えるだろうなと思いました。

 墓参に来られる人に親しまれている椿なのでしょう。藪椿には稀に白花を咲かすものがありますので、この椿も園芸種というよりも藪椿の変種なのかもしれません。

3 佐野市の名椿

 佐野市の最も有名な椿は、「日の出」椿の名を持つ、出流原町の大椿だったのですが、残念ながら、平成30年に枯れてしまいました。

 樹齢は、500~600年だったといわれ、その名の由来は、大老井伊直弼日光東照宮参詣の帰路に佐野領を訪れて、出流原村の名主であった神山家に宿泊したとき、朝日に映えて見事に咲き誇る椿にこのように名付けたものと伝えられています。

 幸いにも枯れる前に、挿し木苗が育てられて、地元の小学校にも贈られるなど、二代目が歴史を引き継いでいるようです。

 残るもう一つの椿は、秋山町にある「出原のオオツバキ」ですが、かなり離れた山間地にあるので、今回は見送りました。

 

 この夏も、昔には考えられないほどの猛烈な暑さが続きました。

 椿は、日本の風土に適した樹ではありますが、この尋常ではない暑さと日差しの強さは、とりわけ樹齢の古い椿に影響があるように思います。全国の有名な椿が元気なうちに、できるだけ多く見て回りたいですね。

 

足利学校と鑁阿寺に椿を探す

 栃木県足利市は、その名のとおり、足利氏発祥の地として知られています。

 JR足利駅の北西、渡良瀬川の河北にある旧市街には、日本遺産「史跡足利学校」、足利一門の氏寺「鑁阿寺」を中心に、「東の小京都」と称される、由緒ある伝統と歴史を感じさせる街並みが広がり、まち歩きを楽しめます。

 京都の椿巡りでは、金閣銀閣はもちろん、等持院鹿王院等々足利将軍ゆかりの寺社旧跡を数多く訪れてきたので、何となく親近感を感じながら、足利のまちをぶらついてきました。

 訪れたのは、令和7年8月10日の日曜日、あいにくの雨模様でしたが、前週は、伊勢崎で41.8度という日本最高気温を更新したところだったので、憩いの雨となり、暑さに苛まれずに過ごせたのは、むしろ幸いでした。

 都心からは離れていることもあって、それほど観光客が多くもなく、自分のペースでゆっくりと過ごせたのもうれしかったですね。限られたエリアしか見ていませんが、落ち着いた、雰囲気のよいまちでした。

 足利には、特に有名な椿はないようですが、足利学校鑁阿寺の庭園に、それなりの存在感を見せる椿を見かけました。

1 足利学校の椿

  日本最古の学校として有名な足利学校。その創建については諸説ありますが、関東管領の上杉憲実が、貴重な書籍を寄進し、鎌倉から禅僧快元を招いて、初代庠主(しょうしゅ:校長)とするなど手厚い支援を行い、再興に導いたことが、文献上で確認されています。

 上杉氏、後北条氏の保護を受け、戦国の世ながら我が国の学問の中心地となり、海外にまで名を馳せたというのは、周知のとおりですね。

 入口の「入徳門」の向こうには、一直線上に、「學校門」、「杏壇門」の二つの門と、さらにその奥に「孔子廟」が連なっています。

 「學校門」をくぐる際には、学徒が勉学に励んだ場へと、まさに「入門」という心持ちがしました。 

 この「學校門」と「孔子廟(大成殿)」が、寛文8(1668)年建築の、現存する最古の学校遺産となります。

 敷地西半分に位置する「孔子廟区域」は、かつての姿を残しており、東半分の、学生たちが学び、生活していた「学問所区域」は、明治以降、大きく変容してきました。

 明治維新の激動の時代に、町民有志が奔走して、町民のための学校が開校され、貴重な遺跡を保存するための文庫も設立され、昭和57年(1982)には、小学校の移転を契機に、建物・庭園の復元工事に取り掛かり、平成2年(1990)12月に、江戸時代中期当時の「学問所」の姿が今に甦りました。

 足利学校をシンボルに、学問を大切にしてきた歴史と風土を、市民が誇りに思い、護ってきたことがよくわかります。「教育遺産」にふさわしいストーリーを有するまちだと思います。

 茅葺の方丈の南には、開放的な築山泉水庭園が広がります。

 庭園の東側、「孔子廟区域」との境界付近に、まだ若木ですが椿が2本植えられていました。結構目立つポジションにあり、樹齢を重ねると、存在感を発揮するのではないでしょうか。

 方丈の北には、書院と大成殿の築地塀とに囲まれた中庭の庭園があり、大成殿を借景に、まとまりのよさと格の高さを感じました。

 方丈の大広間に並ぶ床机に向かい、場所柄にフィットしているなあと面白く思いながら、置いてあった「漢字クイズ」をしばらく解いていましたが、開け放された部屋に、南北の庭園を渡る風を心地よく感じました。

2 鑁阿寺の椿

 鑁阿寺は、もともと、足利氏の館であり、建久七年(1197年)に足利義兼が邸内に持仏堂を建立したことに始まります。約4万平方メートルに及ぶ方形の敷地の周囲には、濠がめぐり、土塁が築かれ、武士の館としての姿を今に伝えています。

  四方に構える門のうち、メインの南門は、お濠を渡る屋根付きの太鼓橋と、足利義輝が建てたとされる楼門が風格ある姿を見せています。この山門へとまっすぐに至る「大門通」は、石畳が敷かれ、鑁阿寺の景観と調和した、落ち着いた風情を漂わせていました。

 山門から境内に入ると、正面に、立派な本堂が見えてきます。正安元年(1299)に建立されたもので、応永14年(1407)から永享4年 (1432)にかけて大改修が行われ、外見が変わりましたが、内部の造りに、鎌倉の禅宗様式を残す貴重な建築物として、平成25年に国宝に指定されています。

 この本堂前の左手には、「国宝」級の風格のあるイチョウの巨樹が立っています。

 高さ32m、目通り8.3mという双幹の大樹には、推定550年の樹齢ならではの貫禄があり、神様を宿すような厳かさをも感じました。

 この樹容であれば、黄葉時はさぞ見事なことでしょうね。立札には、樹勢が衰えとありましたが、遠目に見る限り、まだまだ元気なように見受けられました。

 足元が踏み固められないように、周囲を囲ったことが功を奏したのかもしれません。

 さて、いつものとおり、椿を探すと、本堂東面に面した樹々の中に、それなりの大きさのものを見かけましたが、この本堂や大銀杏の近くでは、全然目立たないのはやむをえませんね。

 帰路に、鐘楼まわりの庭園を通ったとき、何本かの寄せ植えを見つけました。椿を鑑賞するための庭に設えたようで、品種はわかりませんが、藪椿ではないようでした。

3 「銀釜」の釜めし

  さて、小腹もすいた正午頃、鑁阿寺近くにある、釜めしで有名な店「銀釜」へと向かいました。昭和元年の開業といいますから、今年でちょうど100年を迎え、今も創業以来変わらぬ味を届けている名店です。

 家族それぞれ、「鯛釜めし」、「浜焼き釜めし」、「五目釜めし」を注文、今から調理にかかりますということで待つこと半時間あまり、お待ちかねの釜蓋を開けると、実に香ばしい湯気が立ち上りました。見た目も綺麗で、食欲をそそります。

 具材の帆立、海老の味濃い目の出汁があつあつのご飯に染みわたり、これは美味しかったですね。1合の米を炊き上げるので、結構ボリュームもあってお腹いっぱいになりました。予約だけで満員になっていたのもなるほどなと納得です。

4 善徳寺の獅子

 1368年(応安元年)、室町幕府初代将軍足利尊氏を開基とする、足利氏ゆかりのお寺です。

太平記記念館」の道向かいにあり、観光寺院ではなさそうですが、鐘楼わきの入り口から入れましたので、お参りしてきました。

 百日紅が美しく咲く参道から本堂に行きますと、獅子が彫られている板戸が目に入りました。装飾にも手間とお金がかかっている様子でしたね。本堂内には、天井板絵が 面飾られているようです。市内には、ほかにも、歴史と由緒ある寺院がいくつも散在しており、訪ねると、面白い発見があるでしょうね。

 いつものことながら、一日かけて、まちを楽しむという大人旅ではなく、他のまちもいろいろと行きたいという滞在時間の短い旅なので、足利市のまちの良さには、表面的にしか触れていないのだろうと思います。

 それでも、雰囲気のある、品のあるまちだと思いました。またの機会には、渡良瀬橋の夕日も見た後で、ゆっくりと泊まりの旅をしてみたいですね。足利市を拠点に、佐野市栃木市という小京都散策を堪能するプランでしょうか。

高雄・高山寺の椿

 高尾の「高山寺」は、名だたる寺社が揃い踏みの”世界文化資産~古都京都の文化財”に列せられ、京都の代表的な寺院の一つに位置づけられています。

 紅葉の季節には大混雑の高尾ですが、それ以外の時期は、世界文化資産の寺社の中では、まだしも静かな雰囲気を残しています。

 「鳥獣戯画」という、抜群の人気を誇る”お宝コンテンツ”が強力ですが、明恵上人が華厳宗の道場として中興して以来、学問の寺として重きをなし、華厳経典、注釈書をはじめ、多くの貴重な書跡典籍が今に伝えられています。

 高尾・栂ノ尾は、清滝川の流れを見下ろす山間にあって、秘境というほどではありませんが、まちなかからは離れて、日常の喧騒に煩わされない教学の場にふさわしいところです。

 とはいえ、兵乱、火災に度々見舞われ、明恵上人当時の建物として現存しているのは、「石水院」のみとなっています。

 「高山寺」は2つの参道があります。高雄観光駐車場に近く、急なジグザク道を上って 「石水院」に出る参道と、やや南の方に入口のある「表参道」で、もちろん「表」がメインです。

 この表参道を進むと、石灯篭が両脇に立っていますが、ここには、かつて「仁王門」があり、湛慶作とされる仁王様が門番をしていたそうなのですが、明治14年に焼失してしまいました。せっかく明治まで「石水院」とともに兵火をくぐりぬけてきたのに、惜しいことですね。

 山手へと延びる参道には、樹々の緑陰の下、苔むした石の築地が残っており、かつては堂舎や塔頭が並んでいた様子を忍ばせます。

 「石水院」から茶室「遺香庵」にかけては、とりわけ風情ある風景となり、参道の脇に群立する藪椿の花とよくマッチしています。

 「石水院」は、明治22年(1889)に、より安全な場所ということで、現在地に移されましたが、この場所は、「仁王門」と同じく明治14年(1881)に焼失した「三尊院」という塔頭の跡地だったようです。

 明恵上人の住房であった「石水院」は、安貞2年(1227年)に洪水で損壊してしまったのですが、その敷地のそばにあった、もともとは経典の収蔵と読経の堂であった「東経蔵」が名跡を引き継ぎました。

 後に、春日・住吉明神の神殿と、その拝所となる広縁が付設されたため、神仏フュージョンした独特の造りとなっています。

 しかしながら、明治の移築のときに、神殿が取り払われてしまいましたが、あいかわらずの神仏分離による無体な所業だったのでしょう。

 広縁には、小柄で愛らしい「善財童子」が一人、手を合わせてたたずんでいます。

 明恵上人は、「善財童子」を敬愛していたそうですが、もう一体、上人がずっと手元に置いていたと伝わる、湛慶作の木彫りの子犬が今も堂内にちょこんと座っています。

 小首を傾げ、くるりとした尻尾の先をきゅっと上に向けている、利発そうな子犬を見るのは、高山寺に来る楽しみの一つです。

高山寺HPより

 運慶や湛慶の名前は、箔付けに使われることが多いのでしょうが、「高山寺」再興時の堂門の造仏には、運慶、湛慶が携わっていたとされているので、この子犬は、明恵上人が湛慶に特注したものであってもおかしくはありませんね。

 「石水院」はかつて洪水で被災したと書きましたが、2018年の台風21号では、高山寺は大変な被害に見舞われました。豪雨で地盤が緩んだところに、京都市内でも最大瞬間風速39.4メートルを記録したというほどの猛烈な風が吹き荒れ、各所で瓦が吹き飛び、塀が倒れ、樹木が根こそぎ倒され、北部山間の杉林が広範囲でなぎ倒された惨状は今も記憶に残っています。

 高山寺も、境内の多数の大木が倒れ、建物や築地が大きく破損しました。今なお、茶園北側の斜面が裸地のままで、参道脇に大きな切り株がいくつも残るなど、災害の爪跡が残っています。「石水院」の西側の斜面も崩落したようです。

 気候の変動により、雨の降り方も大きく変わり、台風も巨大化している中で、山間部の歴史的建造物の被災の危険は高くなっているのでしょう。

明恵上人の「御廟」

金堂

 高山寺の椿たち








大原野神社に舞うアサギマダラ

大原野神社のフジバカマ R7.10.12

 秋の七草の一つ、「フジバカマ」は、ちょうどこの時期、可憐な、淡い赤紫色の小花を密集させ、ブロッコリーのような姿に咲いています。ほのかに漂う香りは、「桜餅」の香りと言われますが、確かにそのとおりでした。

 昔は、河川敷などで普通に見られていた身近な花でしたが、いつの間にやら姿を消し、京都の原種は絶えてしまったとされていました。

 しかし、1998年に、大原野灰方の十輪寺のそばにある「明治池」のほとりに、わずかに生き残っているのが発見され、これをきっかけに保全運動が広がり、株分けにより、市内各所で、原種のフジバカマが育てられ、見ることができる機会も増えています。

 ただ、フジバカマは交雑しやすいので、京都の純種をキープするために、種ではなく、差し芽で増やすとともに、他種の京都への流入と、京都種の持ち出しを防いでいるとのことです。

 ということで、大原野神社や、洛西ニュータウンの小畑川中央公園に群れ咲くフジバカマは、本家・嫡流のようなものですね。

 フジバカマといえば、「アサギマダラ」。

 名前のとおり、鱗翅をほのかに浅葱色に染める美しい蝶です。

 網目もくっきりし、上品で、凛とした雰囲気があります。

 近づいてもあまり逃げもしないのは、千キロ以上も渡りをするだけに、肚の据わった逞しさを持っているのでしょうね。

 「小畑川中央公園」で写真を撮っていた方からは、ここしばらく毎日のように見に来ていたが、今週になってようやく現れたと聞きました。

小畑川中央公園のフジバカマ。R7.10.13

 ツマグロヒョウモンです。

 まだ日中は30℃近い日々が続きますが、さすがに、日差しも和らぎ、秋めいた雰囲気も出てきています。

 樹々が色づくようになると、今年も待望のサザンカ、秋咲の椿が咲き始めます。

蓮華寺庭園の楓と椿

 「蓮華寺」は、京都市街から八瀬、大原へと向かう入口にあたる左京区の上高野にあって、比叡山系の西明寺山の南麓に位置し、紅葉、新緑の美しい庭を有するお寺です。

 寛文2年(1662年)、加賀前田藩の家老・今枝近義が、祖父重直の菩提を弔うため、その草庵の跡に再建したもので、その際には、重直と交友のあった石川丈山、木下順庵、狩野探幽黄檗宗隠元ら名だたるメンバーが関わっています。

 大きな寺院でもなく、観光エリアからはやや外れていることもあり、知る人ぞ知る存在だったのですが、京都通好みのスポットとして、近年、人気が高くなってきています。

 7月に入り、連日のうだるような暑さの中でしたが、静かで、涼を感じる一時を過ごしてまいりました。

 

 頻繁に車が行き交う国道367号線から、山手への小径に入ると、ほんの30メートルほどで、蓮華寺の山門が見えてきます。半分開かれた扉をくぐると、雰囲気ががらりと変わり、街道のざわつきが消え、山に近い湿潤さを帯びた森閑とした空気につつまれました。

 自然味を残す樹々、草花と苔の緑の中、石畳みの参道を通って、受付を済ませ、まずは本尊の阿弥陀如来にお参りしてから、書院へ入りますと。

 静かな池と、押し寄せてくるような緑の波が目の前に。

 自然味豊かな楓林と清らかな池、石組と苔、小ぶりな本堂が一幅の絵のように広がります。

 東面と南面が広々と開かれ、庭園の景色を、柱が額縁のように切り取って、屏風絵のようです。場所を動くと、そのアングルに応じて、構図が変わります。

 書院のやや奥の方に座ると、東面、南面のどちらも視野に入るポジションとなります。行儀は良くないけれど、畳に足を崩して楽な姿勢で、何も考えずに、この空間に身を任せて、ただ眺めるのが最高ですね。訪れていた数組の参拝客のみなさんも、同じように時間を過ごしておられました。

 東側の庭には、池が広がり、池の向こうには、蓬莱石組が築かれ、今枝重直の一代記が刻まれた石碑や、数基の石灯篭が設置されています。

 特徴的なのは、この池の綺麗さですね。山の麓にあり、湧水が豊かであることと、江戸時代に開かれた、高野川からの用水路を引き込んでいるおかげだといいますが、このように淀みがなく、鯉の泳ぐ姿がクリアに見える池というのはあまり見かけません。

 対岸の楓の樹々が自然のままに池に覆いかぶさるように枝を張っているため、池奥の石組や石灯篭は鬱蒼と茂る葉にまぎれ、明るい池とのコントラストがよく効いて、奥行の深さが感じられます。

 書院に向かって進みくる船石も特徴があります。普通は、池の向こうの浄土へと向かうのですが、書院側を浄土としているのは大変珍しいそうです。

 楓が色づく紅葉のシーズンには多くの観光客でいっぱいになりますが、それ以外の時期なら、畳の上でゆっくりと庭を眺める、そんなシンプルで幸せな時間を独り占めできるかもしれません。

 室内から見えないところは、庭に下りて、回遊できます。庭からの撮影は禁止されているので、写真では伝えられませんが、池奥の様子も回遊路からはよく見えます。

 本堂の前には、2基の古雅な灯篭が並んで立っており、この灯篭が茶人に愛好される「蓮華寺灯篭」の原本として著名なものです。土筆のようなとんがり屋根が可愛らしくて趣があります。

 この灯篭のそばの苔むす地面に、萎れた白い花がいっぱい落ちていて、そばに立つ樹の特徴ある樹皮を見ると、沙羅双樹・夏椿でしたね。樹肌がよく似ている百日紅の大木もあり、季節ごとに、花の彩りも楽しめるようになっています。

 そして、書院の南面の西の端に、庭園との仕切りの塀に沿って、幹径は20センチ足らずながら、なかなか存在感のある椿を見つけました。

 地表を伝う根の姿もいい味を見せています。広縁から見上げると、椿は、白塀の上空へと伸びています。受付の若い女性の方に聞くと、綺麗な桃色の花が咲くようです。おそらく、藪椿ではなく、園芸種なのでしょう。

 春の蓮華寺も訪ねてみたくなりました。