百毫寺「五色椿」を訪ねる~奈良銘椿①

 奈良市の東部、北の春日山、西の高円山の麓に位置する「高畑」は、春日大社の社家町の名残を残す風情ある街並みを楽しめ、新薬師寺や百毫寺など「個性的」な名刹に出会える、散策に好適なエリアです。

 やや山手の高台にある「百毫寺」には、奈良三銘椿の一つとして名高い「五色椿」があります。

 桜もようやく咲き始めた、3月最終週の土曜日、奈良の銘椿を訪ねて、まずは「百毫寺」に行ってきましたのでご紹介します。

1 百毫寺の石段を上ると眼下に広がる奈良のまち

 百毫寺へ行くには、バスの本数も限られているので、車ということになると思いますが、かなり入り組んだ狭い道を進んでいくことになります。

 寺には駐車場がありませんが、門前近くの民間の青空駐車場に停めることができます(1回700円)。

 石段を上がり、初めの門をくぐると、両脇に椿垣の続く石段が100段あまり山門まで続いています。

 見上げると、ところどころに紅い花が、足元には落ち椿がはらり。

 椿の有名な寺らしさに期待が高まります。

 段の一番上近く、右手に大椿が梢を伸ばしています。

 ようやく石段を上がり、おもむろに後ろを振り返ると、奈良の市街がパノラマのように広がっています。思わず感嘆の声を上げました。これはサプライズでしたね。

2 奈良三銘椿の一つ「五色椿」

 境内に入ると、そこかしこに椿の樹々があります。

 まずは、「五色椿」に御対面です。

 この椿は、寛永年間(1624~1645年)に興福寺塔頭喜多院から移されたものとされ、400年の樹齢を誇ります。

 3月の寒さもあり、開花が少し遅いようですが、いくつか花を咲かせてくれていました。

 白地に桃色の縦絞りが入った花、紅い花が見れましたが、咲き進むと、名前の通り、多彩に咲き分けていくのでしょう。

 蕊の一部が花弁化している八重咲で、豪華というよりも、上品な花という感じがしましたね。落ちている椿は、花弁がバラバラになっていませんでしたが、散椿系統ではないのでしょうか。

 根元からの最初の枝分かれのところに空洞が見えるのが気になりましたが、樹勢が衰えているという様子はなかったですね。

 奈良だけでなく、全国レベルに名高い椿だけに、できるだけ永らえてほしいものです。

3 樹齢500年の「白毫椿」

 「五色椿」の隣、一段上に、実に立派な椿の巨木が堂々とした姿を見せています。

 もともと多宝塔が建っていたという場所にあり、「白毫椿」との命名がされています。

 藪椿ですが、花にわずかに白い斑が入るさまを、仏さまの白毫になぞらえて、椿の大家である渡邉武博士が名付けた椿です。

 太く重量感ある幹、横に広がる力感あふれる枝が深い皺を刻み、年季の入った椿独特の「霊力」さえ感じられる存在感ある大椿です。

 樹齢は推定500年、「五色椿」をしのぐ最古参のもので、知名度は「五色椿」に座を譲るものの、「白毫椿」は、名前、樹齢、樹容といい、名椿として屈指のものであると思います。

 確かに白斑が入っています。可愛らしいですね。本当にぴったりのネーミングです。

4 境内の椿たちと仏像

 名づけのある椿たち。

 「八重白椿」

 「五色椿」「白毫椿」と並ぶため目立っていませんが、これもなかなかの巨木です。

 残念ながら、まだ花を見ることができませんでした。

 「緋車椿」

 本堂の左前に据えられた、樹形の整えられた椿です。これもセンスある、いいネーミングです。

 確かに、シンプルですっきりした造りですね。

 ほぼ180度の展望が楽しめますが、いかんせん、訪問日には黄砂が来襲していたということで、遠景はもやがかかってしまいました。残念。

 それにしても、椿の多いこと。それも相当の巨樹があちこちに。

 加えて、「百毫寺」には、平安時代後期から鎌倉時代にかけての作で、重要文化財に指定されている仏像も数多く宝蔵に納められています。

 なかでも、閻魔王とその眷属である司命・司録像と太山王が有名です。

 太山王は、運慶の次男の子と伝わる康円の作、閻魔王一族は康円一派の作とされています。

 司録は、右手に筆をとり、左手に持つ木札に裁きの結果を記す姿で現されますが、この百毫寺の司録像のポーズが一番格好よく決まっていると、私は思っています。

 椿だけでなく、見晴らしを楽しめ、仏像の名品を見ることもできる、百毫寺は、お値打ちなところだと実感しました。

 「子福桜」は咲き終わりでした。

 再度、パノラマを楽しみつつ、石段を下りていきました。


5 鏡神社の椿

 吟松・高畑本店で、天ざるの昼食をとった後、界隈を散歩してきました。

 新薬師寺までは、土塀が似合う静かな小径です。

 新薬師寺の通用門です。

 十二神将は大好きなのですが、今回は、新薬師寺は門前を通るだけにして、隣にある寺の鎮守社である南都鏡神社をお参りしました。

 大きな藪椿が静かに花咲かせていました。

 鎮守の椿として親しまれているのでしょうか。不思議と心惹かれました。

 









































 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京都府立植物園 第63回「つばき展」

 京都府立植物園は、1924年大正13年)1月1日の開園からちょうど100年を迎え、公立の植物園としては最古の歴史を誇ります。

 園の一番北側のエリアには、「つばき園」が広がり、250品種600本が植栽され、例年3月のお彼岸の頃は、多くの椿が咲きそろい、恒例の「つばき展」も開催され、春が来たことを実感します。

 ところが、今年の「つばき園」は、3月23日、24日の「つばき展」の期間には、ほとんど咲いていないという、異例のこととなっています。

 23日には、園職員の方による「つばき探訪」に参加しましたが、昨夏の異常高温のせいもあるのか、稀に見る花付きの悪さを言っておられましたね。

 それにもかかわらず、今回で63回目を数える「つばき展」には、京の椿の名所から、秘蔵の椿をはじめ、今年も多数の出展があり、花姿を楽しむことができました。

 この時期にあわせて、開花した花を揃えるご苦労に感謝しつつ、「つばき展」の様子と、「つばき探訪」でわずかに開花していた花をお伝えします。

 

1 大徳寺高桐院

 まだ、拝観が再開していないので、この展示が唯一の機会となります。

 第62回「つばき展」では、雪中花と天津乙女の出展でした。

 今回は、「有楽」と「紅一休」。

 「紅一休」の凛と引き締まった姿は魅力的です。青竹に似合いますね。

2 長福寺

 椿ファンにとって、あこがれの寺ですが非公開です。

 光格天皇から下賜の銘椿「紅筆」を見ることができました。紙風船のような柔らかさを持つ可憐な花ですね。

3 大徳寺聚光院

 「聚光院曙」と「宗旦」という、二枚看板です。

 帰路、大徳寺に寄ってみましたが、塀越しに見る限りでは、このニ椿はまだ咲いていない様子でした。

 ちなみに、昨年に撮った「聚光院曙」です。

4 詩仙堂丈山寺

 やはり「丈山椿」は存在感を発揮しています。

www.kyogurashi-neko.com

5 桃山の椿

6 大豊神社

7 二条城

8 霊鑑寺

 昨年とはすべて違うヴァリエーションです。さすが品種が多いことがわかりますね。

9 大聖寺

 昨年と同じ品種です。玉兎は何度見ても飽きないですね。

10 市邸

 市邸の椿たち。限られた出展であってもこの数。圧倒されます。

11 京都薬用植物園

12 舞鶴自然文化園

 洋種椿です。

 会場入口で迎えてくれた「明妃」です。

www.kyogurashi-neko.com

13 園内つばき探訪

 小雨降る寒い日でしたが、30人近くの熱心な方々が集まり、園職員の方の案内で、つばき探訪に出発しました。

 唯一満開と言ってよかったのが、次の写真のもので、ハルサザンカ系で、おそらく藪椿との交雑種であるということでした。

 花の散り方が、サザンカと椿の両方の落ち方をしています。

 ワビスケ系は、何とか、花を咲かせているものがありました。

 「光源氏」。今年は開花が遅れ、NHKから咲いたら取材に行きますと毎日のように問い合わせがあったものの、結局は、大河ドラマ「光る君へ」での花の紹介が間に合わず、先に撮っていたインタビューコメントだけが流れたと、職員の方が言っておられました。

 まだ、蕾のままの品種も多く見かけましたので、4月を越えてからの方が、つばき探訪にはよいかもしれません。

 少々寂しいので、昨年、同時期のシーンを少し載せておきます。今年とは全然違います。


















 













 

 

横浜市鶴見区「宝蔵院」の源平五色椿

 昨年の大晦日、「かながわの名木100選」に選定されている椿2本のうちの一つ、横浜市鶴見区にある宝蔵院の五色椿を訪れてきました。

 JR鶴見駅西口から、横浜市営バスに乗り約13分、「宝蔵院前」で降車、500mほど歩くと、住宅に囲まれた高台に「宝蔵院」があります。

 

 天文16年(1547年)の創建とされ、天明の頃には水害、また、関東大震災による倒壊などを経て、昭和18年に現地に移転したようです。

 階段を上がると、鎌倉時代のものとされる山門に迎えられます。

 ごく普通の小ぶりな門ですが、獅子と獏の立派な木鼻に目が引かれます。

 木鼻は、建物の強度を高める水平材である「貫」が、柱を貫通して飛び出たところに施した装飾です。

 「貫」の建築手法は、東大寺の再建を果たした重源によって宋から伝えられ、広がったとされているので、木鼻は鎌倉期以降の建築物に見られるもので、時代が下がるにつれて、装飾が手の込んだものになっていきました。

 鎌倉の多くの寺社で、「動物系」の凝った木鼻をよく見かけましたね。www.kyogurashi-neko.com

 さて、この山門をくぐると、本堂の左手、客殿との間に囲われた一角に、大きな椿がありました。

 高さ7m、枝張り6m、胸高周囲2mという、椿としては、かなりの巨木で、樹齢は600年に及ぶのではないかとのこと。

 モルタルによる修復は見られるものの、幹や大枝に目立った損傷もなく、枝葉が旺盛に繁っており、まだまだ寿命を保ちそうな様子でした。

 県の調査報告によると、50年ほど前に、樹勢が弱ってきたので、太根を切って発根を促す措置が効を奏して、元気を取り戻したと記載されています。

 樹の北方10mほどのところに、良質の湧き水があるらしく、それも長寿につながる要素の一つとなっているのかもしれません。


 「五色」の名のとおり、赤、白、ピンク、絞り、ぼかしの5種類に咲き分け、紅白のコントラストの美しさから、「源平」の名を頭に持つということです。

 WEBに載っている花を見ると、蕊が花弁と混じり合って咲いており、いわゆる「牡丹咲」の形状に見えます。

 「五色椿」といえば、京都の地蔵院、法然院、柊野などの名木が頭に浮かびますが、これらは「八重咲」で蕊が中心にまとまっていますし、500年ほど前に朝鮮から持ち帰られた地蔵院の先代の椿の系統のものです。

 宝蔵院の椿は、種別も由来も、この系統とは異なる希少種なのかもしれません。

 600年は伝承かもしれませんが、年月を経た椿独特の質感は、迫力と魅力にあふれています。

 「緑青をふいたような幹」というのは、いい得て妙の表現ですね。雨に濡れるとより鮮やかな色になるのでしょう。

 お寺の移転は80年ほど前のことですから、この椿は、随分以前からここで咲いていたことになります。園芸種なので、樹齢が伝えられているようなものだとすると、室町前期に、この場所に、寺社か屋敷が営まれていたのかもしれませんね。

 例年4月に、客殿2階の大広間から花を愛でる「花まつり」が開かれているようです。

 ちょうど客殿に沿う形で、高く広がる樹形なので、この広間は、間近に、同じ高さの目線に、五色の椿を堪能できる絶好のロケーションとなることでしょう。

 機会があれば、いつか、そのときに来訪したいなと思いながら、宝蔵院を後にしました。

 

 

 

 

 

 

鎌倉の椿巡り⑨~杉本寺と浄妙寺

 鶴岡八幡宮から金沢街道を東に1.5kmほどの、二階堂・浄明寺エリアも、多くの寺社、名所・旧跡に出会えます。鎌倉の椿巡りラストは、杉本寺と浄妙寺です。

 

1 古寺「杉本寺」

 「杉本寺」は、鎌倉で最も古いお寺で、創建は天平6年(734年)にまで遡ります。

 聖武天皇の后である光明皇后の御願により、右大臣藤原房前行基によって建立されたといいますから、大変に由緒のあるお寺です。

 山門(仁王門)です。

 山門から本堂へと続く鎌倉石の石段は、浄智寺の石段と同じく、鎌倉の情緒あふれるシーンとして印象に残るものです。

 幾人が通った後か、窪んだ段々は、波が打ち寄せてくるようにも見えます。

 古びた色合いは、茅葺の本堂ともよくマッチしています。

 山門も茅葺で、苔の味わいがあります。

 本堂の観音堂は、茅葺の古風な仏堂で、現在のものは、延宝6年(1678年)の建立とされています。

 密教天台宗のお寺らしく、本尊を秘仏として、格子戸で囲う内陣と、礼拝の場である外陣とに区分されています。

 行基、円仁、源信という、教科書にゴシック体で載るような名僧がそれぞれ刻んだとされる三体の十一面観音が本尊です。

 この三体の観音様は、文治5年(1189年)11月23日の夜、お堂が炎上したときに、我が身を動かして、大杉の下に避難したとの伝説があります。

 建久2年(1191年)には、源頼朝がお堂を再建し、御三体を堂内の奥に大切に安置したといいます。

 また、不信心な者がお寺の前を乗馬したまま通ると、必ず落馬したことから、別名「下馬観音」とも呼ばれていたそうです。蘭渓道隆行基作の観音様に着ていた袈裟をかけてからは、そのようなこともなくなったと伝わります。

 歴史の古いお寺だけに、ビッグネームの関わったエピソードがふんだんにありますね。

 三体の観音様は、奥に「格納」されているため、格子戸越しに雰囲気を感じることしかできませんでしたが、本尊以外の多くの仏像をごく間近に見ることができました。

 内陣が厳重に護られている一方で、外陣は一般民衆に開かれていたことが、今も、おおらかな拝観に引き継がれているのかもしれません。

 堂内に入って、仏さまと同じ空間に身を置いて、像の質感と陰影をリアルに体感できるのがうれしいですね。

 頼朝が本尊を秘仏とする代わりとして,御前立として寄進した観音様をはじめ、運慶作?とされるものもいくつかありましたが、私は、地元の仏師であろう、宅間法眼作の毘沙門天が気に入りました。

 境内で見つけた椿(サザンカ)たちです。

2 和と洋の浄妙寺

 杉本寺の東、程近くにある「浄妙寺」は、鎌倉五山の第五位に数えられる名刹です。

 文治4年(1188年)に、頼朝の側近で、足利氏二代当主の足利義兼が創建し、七代当主の貞氏(尊氏の父)が中興し、鎌倉幕府滅亡後も、鎌倉府が設置され、足利氏菩提寺の一つとして寺勢を維持したようです。

 戦国の騒乱で衰えたものの、後北条氏徳川家康のバックアップもあり、今に至っています。

 訪れたのが12月30日ということで、門は開かれていましたが、拝観休止となっていたため、境内をぐるりと回るにとどまりました。

 庭園もいい雰囲気です。

 ところどころ、椿がありましたが、まだ蕾は固いようでした。

 ほとんど人のいない境内でしたが、庭園前に置かれたベンチに、外人の女性が、一人静かに読書をされていました。

 旅先で、あくせく各所を回っていた私は、ふと我に返りましたね。

 遠国から来たにもかかわらず、「和」の世界に違和感なく溶け込み、ゆったりとした時間を過ごしている姿は、実にお洒落でした。

 お寺の北側の高台には、洋館とガーデンテラスとがあります。

 この館は、100年ほど前に、貴族院議員の方が邸宅として建てたものですが、イングリッシュガーデンと食事やお茶を楽しめるスペースとして、アレンジして改装し、2000年にオープンしています。

 和と洋、新と旧とがうまくすみ分けながら共存しているのは、刺激的で魅力あるものです。

 後から思えば、あの女性は、洋館の関係の方だったのかもしれませんね。 

 帰りは、白西王母が見送ってくれました。

















 

鎌倉の椿巡り⑧~建長寺と円覚寺

 臨済宗建長寺派大本山建長寺は、誰もが知る鎌倉五山筆頭の禅寺で、建長3年(1251年)、北条時頼の招きにより、蘭渓道隆が開山しました。

 北宋から元の時代の中国の建築様式を伝え、総門から法堂まで、主な伽藍が直線状に連続して並ぶ中国南宋五山と同様の配置としているのは、本家の宋禅を日本に広げようとの意気込みが現れたものといわれます。

 武家政権の強化を図る北条氏は、京都と離れた鎌倉の地において、朝廷と既存宗教の強固な文化・宗教的支配とは別に、武士による独自のイニシアティブをとろうとしました。

 そこで、武士の気風ともフィットした禅宗を擁護し、また、日本に布教のフロンティアの可能性を見た北宋の禅僧にとっても機会到来ということで、双方の思いがうまく組み合って、禅宗が興隆したということですね。

 その基点ともなる建長寺は、度重なる天災、兵火により、伽藍が失われては再建されてきました。

 創建当時の建物は現存しませんが、今も壮大な伽藍が並び、鎌倉第一の風格と歴史の重みを感じさせます。

 入口の総門は、関東大震災で倒壊したため、京都・千本今出川にあった般舟三昧院の正門を移築したものです。

 「三門」です。現存のものは、1775年の再建です。

 正面の唐破風と扁額が特徴ある、入母屋造りの20m近い巨大な門は迫力があります。

 でも、人を威圧し、隔絶する門とは全く違い、一階には扉がなく、寺があらゆる人に開放されていることを示すとされています。

 重量感あふれる上階は、地震に弱そうにも見えますが、がっしりとした木組みに支えられており、関東大震災にも見事に耐え残っています。

   

 国宝の梵鐘です。

 

 仏殿に至る参道左手に、ビャクシンの堂々とした樹姿が見えます。

 樹高13m、胸高6.5mの巨木で、蘭渓道隆南宋から携えてきた種子をまいたものと伝わっています。

 開山時から数えると約770年の樹齢ということで、寺の移り変わりとともに、幾多の名僧や名将を見てきた、生きる歴史とでもいうべき銘木ですね。

 仏殿は、関東大震災で倒壊し、「悲惨ノ状ヲ呈ス」と文部省の記録にありますが、無事再建されました。


 仏殿の後方には、大きな法堂が。

 壮麗さに思わず目を奪われる、方丈の「唐門」。

 仏殿と同じく、増上寺にあった徳川秀忠夫人の崇源院(お江の方)の霊屋を移したもの。

 震災前の仏殿も、「富麗ナル色彩及ビ金具ノ装飾ヲ施セリ」と記されており、江戸期には、仏殿と唐門により、禅寺ではありながら、きらびやかな雰囲気も加わっていたのでしょうね。

 方丈の裏に広がる庭園です。

 建長寺に来たからには、「半僧坊」の絶景を見ない手はありません。

 方丈の裏手から、山へと連なる階段道を進みました。

 たどり着いた「富士見台」。

 ぼんやりとはしていたものの、富士山を臨むことができました。

 この先、急な階段を上るにつれて、視界が広がり、素晴らしい景色を楽しむことができます。

 眼下には、樹々の合間に、建長寺の伽藍が一望でき、遠方には、鎌倉の街を越えて、はるかに相模灘の水平線が見渡せます。

 この雄大な光景をバックに、大きな藪椿がぽつりと紅い花を咲かせていました。

 やや高所恐怖症気味の私ですが、椿越しのパノラマを見ると、足がすくみながらも、上ってよかったなと感動しました。

 

 建長寺を後にして、円覚寺へ。

 弘安5年(1282年)、執権北条時宗は、国家の鎮護と蒙古襲来で命を落とした者を弔うために、無学祖元を招き、円覚寺を建立しました。

 日本人だけでなく、元人、高麗人を問わず追悼する懐の深さは、あらゆる衆生を救う仏さまに似つかわしいことだと思いますね。

 建長寺の三門ほどではありませんが、円覚寺の三門もなかなかの存在感です。

 12月30日、快晴の穏やかな日でした。

 仏殿と、その手前の無学祖元が植えたといわれるビャクシンです。

 仏殿の無学祖元坐像。

 頂相彫刻は、師の御姿を写した像として、礼拝し、尊ぶことから、リアルな風貌を伝えているとされます。

 開山堂、瑞泉寺の坐像のクオリティには及びませんが、個性的な顔立ちは共通しています。

 方丈に入る門です。

 辰年にふさわしい、扉の龍の彫り物です。

 御存じ、国宝「舎利殿」。

 お正月には、特別公開されたようです。残念。

 円覚寺では、椿を見ることはできませんでしたが、塔頭では、わずかながら椿の姿を見かけました。

 最奥にある塔頭で、夢窓疎石の塔所である「黄梅院」です。

 有楽椿が迎えてくれました。

 今頃は、梅もちらほらと咲き始めているかもしれません。

 北条時宗の廟所である「佛日庵」です。

 最後に、国宝の洪鐘を見学しました。

 関東一大きな鐘だそうです。参拝者は撞けなかったようですが、翌日の大晦日に荘厳な音を響かせていたようです。

 お正月の飾りの準備ですね。一年が経つのが早いこと。
















































 

 

 

 

 

 

 

 

 

鎌倉の椿巡り⑦~化粧坂から、源氏山、葛原岡神社を経て浄智寺へ 

1 化粧坂

 京の都への出入口は、「京の七口」として知られていますが、鎌倉にも同様に「鎌倉七口」と呼ばれる出入口があります。

 鎌倉を囲む山の尾根を切り下げて造られた「切通」は、人馬や物資の流通ルートであるとともに、軍事上も重要な防衛拠点となりました。

 このため鎌倉が決戦場となれば、「切通」は激戦地となり、「太平記」にも新田義貞が三つの口から、鎌倉へと怒涛の如く押し寄せた際の決死の攻防が描かれています。

 扇ガ谷から武蔵国へと結ぶ口である「化粧坂」は、新田義貞が自ら突破を図ったものの、守将・金沢貞将らの奮戦により最後まで陥落しなかったと伝えられています。

 せっかく鎌倉に来たからには、「切通」の一つは見ておきたいと思い、「化粧坂」を抜け、源氏山、葛原岡神社を経由して、浄智寺へと至る「葛原岡・大仏ハイキングコース」を歩いてまいりました。

 「化粧坂」は、鎌倉七口の中でも、古の様相を残していると言われます。

 切通といえば、道の両側が切り立っているイメージがありますが、「化粧坂」は谷側は開けています。

 急勾配の坂に設えられた石段は、足掛かりとなる部分がすり減って深いくぼみができ、いかにも古そうな味を出しています。

 鎌倉のつわものたちが、ここを先途と戦ったことを考えると、ただの坂とは思えなかったですね。

 坂の上は、平坦な岡地となり、源氏山の公園もすぐそばにあります。

 サザンカの咲く公園に、頼朝公の像を見て、葛原岡神社へと足を延ばしました。

 「葛原岡神社」への途中に、後醍醐天皇の倒幕活動を支えた側近で、建武の新政を見ることなく、「化粧坂」上で斬罪となった日野俊基のお墓があります。

2 葛原岡神社のサザンカと椿

 元日の初詣を待つ大晦日の葛原岡神社。

 参道両側のサザンカが、赤い提灯、紅白幕、朱文字と綺麗にフィットしていました。

 鳥居前に見つけた椿。

 この後、ハイキングコースにしたがって山中に入っていきましたが、これが結構な山道のうえ、雨上がりで滑りやすく、少し後悔しつつ、汗ばみながら峠越えをすることになりました。

 途中、「天柱峰」と記された碑がありましたが、浄智寺が最も栄えていたころは、その付近までもテリトリーとしており、僧房の跡も発掘されているようです。

 半時間くらいの「ハイキング」で、ようやく人家が見えるようになったところで、周囲がガサガサと騒がしくなり、甲高い鳴き声とともに小動物の集団が現れました。

 これが、困りものとなっていると聞く「台湾リス」ですね。子猫くらいの大きさがあります。

 警戒心が強いと思っていたので、こんな至近距離になっても逃げようとしないので、こちらも驚きました。

 人を見て危険かどうかがわかるのか、案外、学習能力が高いのかもしれません。 

3 浄智寺

 ようやく「浄智寺」に到着。

 鎌倉五山第四位の名刹です。「甘露の井」を左手に見て、総門へと。

 総門から山門へは、苔むして古色蒼然とした鎌倉石の石段が続きます。

 風情があり、撮影スポットして人気の高いところです。

 「浄智寺」は、北条時頼の三男で、時宗を兄に持つ宗政の菩提を弔うために開創されました。

 宗政は、有能な人物であったらしく、時宗を支える存在として期待され、建治3年(1277年)には、元軍の再度の来襲に備え、警護を固めるため、博多を管轄する筑後国の守護に任命されています。

 しかし、宗政はこれからという29歳で逝去。

 浄智寺の開山は、時宗の痛嘆と慰霊の思いの深さを示すものなのでしょう。

 鐘楼門である山門は、中国風の意匠が異彩を放っています。

 関東大震災で、浄智寺も大被害を受け、鐘楼門も倒壊しましたが、現在の門は、2007年に復元したようです。

 「曇華殿」に安置されている仏様三体は、阿弥陀如来、釈迦如来弥勒如来で、過去・現在・未来の三世で衆生をお救いいただきたいという願いを体現したものということです。

 「曇華殿」の裏側にひっそりと祀られている観音様です。

 曇華殿の仏さまとは距離がありますが、こちらの観音様は、お近くで、優美な姿を見ることができます。

 「浄智寺」も鎌倉らしく、山に面するところには、やぐらが沢山出てきました。

 平行と垂直の構図。

 布袋さんのやぐらを彩る椿。

 境内には、ビャクシンやコウヤマキなどの巨木が散在し、様々な花木が植えられ、竹林や手入れされた庭園など、お堂の回りは樹々と緑でいっぱいで、気持ちよかったですね。

 これで、鎌倉五山は一通り訪れることができ、最後に東慶寺にお参りして、鎌倉を後にしました。
 















鎌倉の椿巡り⑥~海蔵寺

 鎌倉・扇ケ谷の奥に位置する「海蔵寺」。

 建長五年(1253年)、皇族初の鎌倉将軍となった宗尊親王が伽藍を再建したものですが、鎌倉幕府滅亡のときに兵火で焼け落ち、応永元年(1394年)に第二代鎌倉公方足利氏満の命により、扇谷・上杉家ニ代目の上杉氏定が源翁禅師(心昭空外)を招いて開山し、扇谷・上杉家の庇護を受けたとされます。

 JR横須賀線沿いの道から、北西に分岐して、お寺まで延びる専用道路のような道を進むと、過たずに門前に到着です。

 

 

 

 山門の両脇にサザンカが出迎えてくれました。

  

 山門を入ると、左手に鮮やかな朱色の椿が目に映りました。

 鎌倉の椿巡りといっても、年末のこの時期なので、椿の花をあまり見ることができず、少しフラストレーションもたまっていたので、気分も上向きとなりました。

 雨上がりの苔の上に、早咲きの白椿。

 藪椿一輪。

 庫裏の横にも、優しげな椿が咲いていました。

 住職が花木をお好きなのだろうなあと伝わってくるようなお庭でしたね。

 庭を見てまわった後、本堂にお参りしました。

   

 安永5年(1775年)に、浄智寺から移築された仏殿(薬師堂)には、本尊の薬師如来像が安置されています。

 この薬師如来には、言い伝えが残っています。

 寺の裏山の墓所から、夜な夜な赤子の泣き声が聞こえたため、源翁禅師が袈裟をかけると泣き止みましたが、あらためて、墓を掘ってみると、薬師如来のお面が出てきました。そこで、禅師は、新たに薬師如来を造って、胎内に、このお面を納めたとされています。

 胎内に納まるのなら、小さいものだと思いますよね。ところが、どうも、このお面は、入れ物である薬師如来様のお顔よりも大きいようです。ちょっとシュールな味わいもある像ですが、胎内のお面を見ることができるのは61年に一度とのこと。運が良ければ拝めるかもしれません。

 茅葺の庫裏です。

 本堂左手裏に廻ると、やぐらが現れました。

 境内側のお寺の雰囲気とは一変したような、岩山の出現に驚きました。

 自然の迫力だけでなく、やぐらの持つスピリチュアルな感じが、独特の異世界的な空気感を醸し出します。

 寺の裏手には、山の起伏を活かした庭園が造られていました。

 この岩山に沿った径の先に、「十六井戸」があります。

 岩のトンネルをくぐって進みます。

 井戸は、このやぐらの中に。

 恐る恐る覗き込むと、床面に16個の丸い穴が掘られて、透明な水をたたえています。

 闇の中で、青みがかって見える水は、幻想的で美しくもありました。

 16という数字は、十六大菩薩、十六善神十六羅漢などなど、仏教用語で頻繁に出てきますね。16は、総体や全体を意味する特別な数とされているようです。

 ちょっと怖くて、不思議な空間です。

 海蔵寺にはもう一つ「底脱ノ井」と呼ばれる井戸が、山門の右手にあります。

 安達泰盛の娘千代能が詠んだうたが伝わっています。

 千代能が水を汲みに来た時に、桶の底が抜けたことに、心の底も抜け、わだかまりも解けて、解脱の境地に至ったとの意だそうです。

 安達泰盛と一族は、「霜月騒動」で自刃して滅びましたが、千代能は出家して、無学祖元の弟子となったとされています。

 そんな悲劇を経験したからこその境地だったのでしょうか。

 「花の寺」海蔵寺。椿も愛されている感じのするいいお寺でした。