北政所ねねが過ごした圓徳院に「日光」椿を観る

1 ねねが余生を過ごした地「圓徳院」

 北政所ねねが、秀吉の菩提を弔うために建立した高台寺

 その西側に、伏見城にあった化粧御殿と前庭を移して、ねねの住まいとしたのが、高台寺塔頭となる圓徳院の始まりです。

 当時の名石が残り、桃山時代の作庭として貴重な庭園をはじめ、桜、つつじ、もみじなど四季折々の草木を鑑賞でき、椿についても、見るべきスポットです。

 桜も散り、早くも新緑の季節が訪れたかのような4月8日、圓徳院とその界隈を訪れましたので、ご紹介します。

2 門前の大椿、南庭の「雪牡丹」、「胡蝶侘助

 境内に入ってすぐ左手、正門の長屋門の前に、大きな藪椿がありました。

 受付の方にうかがうと、樹齢200年は超えているとのこと。かなりの大木で、もっと年経たものかもしれません。花の盛りは過ぎたのか、ちらほら咲きでしたが、鮮やかな紅色の藪椿でした。

 

3 石組みの見事な北庭と咲き誇る「日光」椿

 私が椿に関心があるとわかったからか、案内の方が、方丈南側の「南庭」にある「雪牡丹」の生垣と、「胡蝶侘助」を教えていただきました。

 「雪牡丹」は大輪で、優雅に波打つ八重の花弁が美しい純白の椿です。

 「南庭」です。「雪牡丹」は左の写真、松の根元にあります。

 「胡蝶侘助」は、今シーズン最後の花が数輪咲いていました。

 方丈を回り、北庭に向かう途中の中庭に、暗紅色の藪椿がありました。

 建物に囲まれた、狭い、苔むした空間に、椿はよく似合います。硝子戸が昔ながらのもので、硝子越しの景色に独特のゆがみが入るのも、また味わいがあります。

 「北庭」の東側に、「日光」椿が今を盛りと満開となっていました。面白いことに、雄蕊が唐子状とならずに、先祖返りしたように、黄色く、肥後椿のように梅蕊状になったものが多くありました。

 もともと、こういうタイプの「日光」なのか、それとも開花晩期となるとこうなりやすいのか、どうなんでしょうか。

 我が家の「黒獅子金魚」も、急に雄蕊が目立つものが咲き始めたので、温度の影響もあるのかなと思いました。

 「北庭」は、もとは、賢庭が、伏見城北政所の御殿の前庭を作庭したもので、後に小堀遠州が手を入れたものとされ、ほぼ原形をとどめていると言われています。多数の石が配置されているのは、桃山時代の特徴をよく表しているとのことです。

 北政所を慕う大名も多く、こぞって寄進した選りすぐりの石が揃っているらしいのですが、地上に見えるのは一部分で、三分の二ほどは埋設されているという巨岩も多いと、案内の方が仰っていました。

 それだけ大きい石が、地下でアクロバチックに組み合わされているさまを想像すると楽しいですね。

 これが「三尊石」です。

 巨岩に枝さすモミジの若葉が美しく鮮やかでしたが、例年ならゴールデンウイークに見られる新緑の光景とのことで、椿とあわせて鑑賞できたのはラッキーでした。

4 「月真院」の椿

 高台寺の西側を南北にわたる道は「ねねの道」と呼ばれ、観光客に人気の、風情ある散策コースですが、この道の東側には、高台寺塔頭の「月真院」の土塀が続いています。

 「月真院」は、織田信長実弟、有楽斎が愛し、その名を冠した「有楽椿」が有名であり、近接して、二本の巨樹がありました。桃色に無数の花を咲かせ、春の名物の一つとして、道行く人の楽しみとなっていたようですが、残念ながら、平成25年に枯れてしまいました。

 「月真院」は非公開ですが、たまたま門が開いていたので、境内に入らせていただき、庭掃除をされていた住職にお話をうかがうと、在りし日の「有楽椿」の挿し木による株があったところから、「里帰り」した若木があるとご案内いただきました。

 3メートル余りに育っており、一輪だけ、美しい桃色の花を咲かせていました。

 境内には、塀に沿って、白椿の大木が二本、紅椿が一本植えられ、塀越しでも、よく見ることができます。

 「有楽椿」のかわりという訳でもないですが、「ねねの道」の魅力に一役買っていると思います。

 かつては、山門の右手にあった「有楽椿」。(京都市ホームページ「京都市の保存樹」より)

5 石塀小路に咲く椿

 「ねねの道」から圓徳院の裏を抜けて、下河原通へと連なる、石畳の路地「石塀小路」。

 料亭や旅館、バーなど、ちと敷居の高そうな店舗が並ぶ、いかにも京都らしい「和の空間」の引力に思わず引き込まれます。そんな中、椿が人知れず、静かに咲いています。

 「石塀小路」から、圓徳院北側に沿う小道も、レトロ感あるお洒落なお店が、隠れ家的に続く、ちょっと秘密めいた、よさげな雰囲気でした。



 

法然院の銘椿「五色散り椿」「貴椿」「花笠」を見る

 桜満開の「哲学の道」。大勢の人出があり、外国からの観光客も多く、コロナ前の姿に少しずつ戻りつつあるような4月1日の土曜日でした。

 銀閣寺観光駐車場に車を停めて、哲学の道を、桜を見ながら、しばらく南へと300メートルほど歩き、道しるべに導かれ、左に折れて、山手に向かって進むと法然院です。

 法然院は、中庭にある三銘椿「五色散り椿」、「貴椿」、「花笠」が有名ですが、例年、開花時期の4月初めの一週間ほどの期間に特別拝観ができます。

 令和5年は、1日から7日まででしたので、今年は、気温の高い日が続き、開花も早いだろうということで、初日に訪れることにしました。

 今回は、三銘椿だけでなく、椿花による散華、椿の花手水、そして、境内林を赤く彩る藪椿群と、椿ファンにとって、見逃せない椿の名所、法然院をご紹介します。

1 藪椿の参道

 法然院は、五山の送り火大文字山の前峰になる小山「善気山」が裏山となっています。「哲学の道」から突き当たり、参道までの麓の道は、寺のある山手側に樹々が生い茂り、生垣のようになっていますが、藪椿が多く、まるで「椿垣」のようで、参拝者の眼を楽しませてくれます。

 参道に入ると、竹垣の向こうに、ひときわ大きな椿が見えてきます。太くたくましい幹から、空高く樹冠を拡げ、紅い花を咲かせています。

 この椿の大きさは、市内屈指のもので、樹齢は不詳とのことですが、300年は優に超えるものと思われます。実にりっぱなものなので、お見逃しのないように。

 茅葺の風情ある山門をくぐると、左右にある白砂壇が目を引きます。放生池のたもとでは、椿一輪がセットされた手水鉢が迎えてくれました。

2 中庭の三銘椿

 玄関から本堂に向かう回廊沿いの庭にも、椿が植えられ、絞の入った紅花が美しく咲いていました。

 本堂に入り、ご本尊の阿弥陀如来坐像の前の、よく磨かれた須弥壇には、二十五菩薩を示す、椿の花が散華されていました。

 本堂から方丈へと進むと、中庭に、いよいよ、図鑑や雑誌で見てきた、名高い椿を初めて観ることになります。

 手前から、「五色八重散椿」「貴椿」「花笠」と並んでいます。寺社の椿は、苔むす庭にあるのが定番ですが、この中庭は白砂で覆われており、椿が浮き彫りのように、姿をくっきりと現しています。まさに、三本の椿を主役とする庭ですね。

 「五色散椿」は、樹齢250年と言われ(ものの本によっては、椿寺のものと同時期とされているものもあります)、根元が瘤状となり、象の足のような味わいのある印象深いかたちとなっています。

 三椿の中で最も大きく、樹冠は屋根上に広がり、多様に咲き分けています。

 「貴椿」は、白い八重咲の花に、紅い一筋が入る、上品な椿です。

 「花笠」は、紅色の花に白斑が入る華やかな椿で、いい得て妙の命名だと思います。

 「貴椿」、「花笠」は、法然院にしかない貴重なものです。ガイドの方は、ともに樹齢200年と仰っていましたが、特に「花笠」は幹がまだ細く、成長の遅さを感じました。

3 印象的な椿シーン

 銘椿の寺だけに、椿の「絵」になるシーンがいろいろあります。

 一番人気は、これでしょう。獅子が可愛らしいですね。

 三銘椿以外に目を引いた椿たち。

 

4 法然院でゆったりと時を過ごす

 方丈は、伏見城にあった、後西天皇の皇女の御座所を移築したもので、狩野光信作の障壁画(重要文化財)、「桐に竹図」「若松図」「槇に海棠図」が描かれています。

 襖絵は色彩が残り、往時の姿を今に伝えていますが、床の間や壁に描かれた「桐に竹図」「若松図」は、かなり色褪せています。取り外しがきいて、収蔵庫に保管できる襖絵と違い、退色してしまうのはやむを得ないところですね。

 落ち着いた雰囲気の方丈から、深山の趣漂う庭園を見る時間もよいものです。

 「哲学の道」を少し離れたところにある法然院は、観光客が列をなすということもなく、ゆったりと、時を過ごすことができます。でも、意外に、外国の方が多かったですね。通な方も結構おられるようです。

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 





 

 

 

柊野の「五色八重散椿」

 長命と言われる椿ですが、400年、500年と時を重ねると、やはり稀少な存在になってきます。

 京都市北部の柊野(ひらぎの)の民家にある「五色八重散椿」は、500年ともされる樹齢を経て、4本に岐れる太い幹が八方に広がって、雄大な樹容を見せており、この品種では、最大の規模のものと言われています。

 先日、この民家を訪ね、見事な椿が開花しているところを見ることができましたので、ご紹介します。

 五色八重散椿」は、椿寺にある、加藤清正が朝鮮から持ち帰り、秀吉に献上したものと伝わる、先代のものが最も有名で、この柊野の椿は世に知られないまま、昭和の30年代になって、ようやく、その存在が知られるようになりました。

 今は、椿寺の二代目

www.kyogurashi-neko.com

と、西方尼寺の利久手植えと伝わるもの、そして柊野の椿の三つが、京の「五色八重散椿」を代表するものとされています。

 柊野は、寛永2年(1625年)頃に田畑が開かれ、上賀茂神社の神事や修理料として開発されたと言われています(「柊野学区まちづくりビジョン」より)。そのころには、この椿はすでに咲いていたことになります。

 桜咲く鴨川の堤防に沿う加茂街道を北に上がり、志久呂橋を渡ると、この民家が見えてきます。巨木が、塀を越え、高く、広く拡がっているので、すぐにわかります。

 京都市による、1983年12月の調査によると、樹高8.8メートル、胸高周囲1.01メートル(東幹)で、樹冠投影面積は100㎡以上に達するとされています。

 下の写真、奥が西幹、手前左側が東幹、右側が北幹で、それぞれ1メートル程度の幹周を有しています。もともと一本の木だったのを、井戸を掘った際の土を根元に盛ったため、地上部では、4本の木が生えているようにも見えます。

 東幹と西幹は、ほぼ直上して伸び、高い樹冠を形作っています。

 北幹は、分岐しながら、横へ横へと枝を張っています。

 松の木では、よく見られる仕立てなのですが、椿でこのような枝張りはまず見かけません。

 南幹は、分岐しながら、塀に覆いかぶさるように伸びています。道路側に咲きこぼれるという感じですね。

 南側が一番日当たりが良いので、こちら側から順次開花していくようです。

 ちょうどお出かけ前の家の方に、椿を門内で撮れるかをお伺いしましたが、心よく了解していただきました。感謝!

 もともと、この樹の周りは、残石置場で、石が積まれていたのを、先代の奥様が、取り除き、盛り土をするなどして、今の庭園の姿に変えたらしいとのことです。

 「管理が大変ではないですか?」とお聞きしますと、これといった管理はしていないが、西側に井戸が掘られ、水分を供給する水脈があることが、長命を保っているのではないかと仰っていました。 

 花の盛りは、4月を越えてからと思いますが、5分咲きくらいの時でも、十分にその魅力を感じることができます。

 「五色八重散椿」のシンボル的な一本として、今後も、元気に樹齢を重ねていくことを心から願います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

霊鑑寺に銘椿を訪ねる

 京都「哲学の道」沿いには、山手側に、銀閣寺、法然院、霊鑑寺、大豊神社と、椿の名所中の名所が揃っています。

 桜の開花を迎え、華やぐこの時期、霊鑑寺は、春の特別公開が行われます。

 霊鑑寺は、後水尾天皇が皇女・浄法身院宮宗澄を入寺させたことに始まる尼門跡寺院ですが、椿を愛好された天皇だけに、遺愛の「日光椿」をはじめとして、霊鑑寺の名を冠する椿など、数々の銘椿が咲き誇るさまは、まさに壮観であり、見飽きることがありません。

 訪れた春分の日は、ちょうど見頃で、多くの人がカメラとスマホを手に、感嘆の声とともに思い思いに写真をとっていました。

 この霊鑑寺の素晴らしい椿の園を、ピックアップでお伝えしたいと思います。

 参道には、桃色の椿垣が続き、来訪者を迎えてくれます。

1 「霊鑑寺散椿」が桃色に視界を埋め尽くす

 山門から中に入ると、正面に、「霊鑑寺散椿」が、花を木全体に咲かせ、地面の落椿とともに、あたり一帯を桃色に染めています。

 八重紅梅とも重なり、桃色の波が押し寄せてきそうな、圧倒的なボリューム感です。

 京都には、朝鮮半島から持ち帰ったものとされる「五色八重散椿」の銘木が、地蔵院椿寺や柊野の民家などにありますが、霊鑑寺の散椿は、この「五色八重散椿」の枝代わりとされ、濃淡はあるものの桃色一色の花が視界を埋め尽くすほどです。浄法身院宮が愛された椿で、「これみな花」と言わんばかりに、枝という枝にたわわに咲いているのは実に見事です。

 これだけの花を咲かせるのは、大変なエネルギーがいると思いますが、これからも樹勢が保たれ、この光景を毎年再現してほしいものです。

2 新株に引き継がれた「霊鑑寺日光」

 庭園に入ると、有名な日光椿が庭道の右手に見えます。この椿の親木は、樹齢400年と伝わる、寺創建時からあった、後水尾天皇ゆかりの銘椿で、日光の数ある名木、古木の中でも代表的なものの一つとして知られていました。

 京都市による1983年の調査では、次のように記載されています。

樹高6.96メートル 根回り周囲1.47メートル

地上高40センチで東西2幹に分かれ、胸高では、東幹が4本、西幹は6本の大枝となっている。樹勢はやや衰えが見られ、枝先の細枝に枯れが目立ち、着葉状態は芳しくない。大きな根が3本ほど見え隠れしながら伸びており、特に北北東に伸びているものは長く、主幹から2メートルのところに萌芽個体を出す

 親木は、残念ながら、衰えが進み、手当ての甲斐なく、2015年の秋に枯れてしまいましたが、京都市調査にあるように、親木の根から萌芽したものが育っており、京都市指定天然記念物を引き継いでいます。

 親木の枯れた太い切株は、今も残っており、往年を偲ばせますが、そこから伸びた根は生き残って、後継樹だけでなく、何本かの若木を生やし、貴重な形質を絶えることなく後代へと残してくれています。

 霊鑑寺日光は、色、形ともに優れ、後水尾天皇のお目に叶った逸品です。唐子状の蕊が凛と引き締まり、整った花姿は、気品を感じさせますね。

3 数ある銘椿

 庭は、池泉鑑賞式庭園であり、大文字山に近いため、相当の勾配があり、その高低差を利用したつくりとなっており、山道、谷道を上り、下りして回遊するコース設定となっています。

 「香妃」です。

 「舞鶴

 紅地に白斑が鮮やかな、霊鑑寺を代表する銘椿の一つです。私は、斑入りの椿が大好きで、家にも、「天ヶ下」や「蜀紅」などを植えていますが、この「舞鶴」の白星の入り方も魅惑的です。奈良・東大寺開山堂の銘椿「糊こぼし」と同種のものとされています。(最新「椿百科」淡交社より)

 「菱唐糸」です。成長の遅い椿なので、この太さでも、かなりの樹齢だと思われます。

 「大虹」の大輪です。

 「大虹」の南、塀際に立つ「白玉」の巨木です。すでに咲き終わりのようでした。

 妻の一番のお気に入りの「春曙紅」です。

 淡い桃色のグラデーションが上品ですね。「天津乙女」のような花色です。

 「獅子」

 「荒獅子」とよく似ています。花弁のうねりがそれほどは荒くないということでしょうか?

 「紅八重侘助

 この立派な幹を見ると、寺創建時からある椿と思われます。

 花は小ぶりで、ほんのりと紫がかった桃色をし、梅のような可憐な花のかたちをしています。素朴で、ほっと心の和むような、愛らしい椿です。

 「衣笠」

 千手咲と宝珠咲の両性質を持つような、見目麗しい椿です。

「白牡丹」

 光格天皇中宮・新清和門院の御手植えとされているものです。ふくよかで、柔らかそうな、ボリューム感ある椿です。

 「霊鑑寺曙」

 これも古木ですね。「曙」の名がついていますが、同名異種のようです。

 「奴椿」

 第二代門跡の後西天皇の皇女・普賢院宮の遺愛の椿と伝えられています。

 渡邊武先生の「京椿」では、オランダのベアトリクス女王(当時)が入洛された際、京都府立植物園の椿展を見学され、その中から、この「奴椿」をご所望されたと記されています。

 妙蓮寺椿に似ている、シンプルな椿です。なぜ「奴」という名がつけられているのでしょうか。

 本堂前にある椿。品種名を漏らしてしまいましたが、最も樹形が魅力あるものでした。(「つらつら椿」さんのブログを見ると、「唐獅子」のようです。)

4 書院から見る椿たち

 「胡蝶侘助」を右手に見ながら、書院へと上がらせていただきました。

 書院には、上段、中段、下段の三つの部屋が連なる「間」があります。

 格式の高さを示す格天井や「筬欄間」(おさらんま)が設えてあり、狩野元信、永徳、丸山応挙の筆と伝わる襖絵が部屋を彩り、品の良い贅沢さを感じます。

 上段の間には、徳川家斉が贈ったという雛人形が飾られていました。男雛が68センチ、女雛が57センチと大柄で、足首、膝、腰を曲げることができる「三折人形」で、着せ替えをして楽しむことができるようになっていると、ガイドの方に説明いただきました。

 書院の西側の間へと、回廊が鍵状に曲がっている、半中庭の部分には、「月光」と「五色散椿」が咲き揃っています。

 唐子部分の白が美しいのは、流石に、選び抜かれたものだからでしょう。

 まだまだ、伝えきれないほどの椿がありましたが、これはまた、来年の楽しみにとっておきたいと思います。

5 素晴らしい椿シーン

 ほかに、印象に残ったシーンを。

 洋椿ですが、小さな花の散り様は、素敵でした。

 「花手水」も、これだけの種類があると豪華です。

 椿は、お寺の雰囲気に、本当によく似合います。

 「おそらく椿」と記されていました。御香宮神社のものと同じなのでしょうか。

 ルビーのような宝珠の光沢。

 「黒蓮華」という品種です。

 ひそやかに咲く椿にも、はっとするものがあります。

 これだけの銘椿を、そこにあるのがふさわしい環境のもとで、一堂に見ることができ、感動いたしました。

 百聞は一見に如かず、ぜひ、実物をみていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人形と銘椿で知られる百々御所「宝鏡寺」

1 「宝鏡寺」春の人形展へ

 人形の寺として知られる「宝鏡寺」は、普段は非公開ですが、3月、雛祭りにあわせて特別拝観が行われ、本堂では、雛人形をはじめ、寺に伝わる由緒ある人形が展示されます。

 お堂を取り巻く庭園には、上京区民の誇りの木にも選定されているイロハモミジ、光格天皇ゆかりの伊勢撫子など、四季の移り変わりを鮮やかに映す多様な花木が植えられていますが、椿ファンにとっては、銘椿「村娘」、「熊谷」、「月光」のある寺として知られ、3月から4月にかけては、椿が庭を彩る主役となります。

 宝鏡寺は、堀川寺之内を東に入ってすぐにあり、北は「本法寺」に境を接し、西は小川通をはさんで、表千家「不審庵」、裏千家今日庵」が、南の寺之内通には、和菓子の老舗「俵屋吉富」や茶道具の店が軒を連ね、この界隈は、閑静で、いかにも茶道の中心地らしい雰囲気が感じられるところです。

 尼五山の筆頭であった景愛寺の法灯を受け継ぐ宝鏡寺は、寛永21年(1644年)に、後水尾天皇の皇女・理昌尼王が入寺してからは、歴代、皇女が住職となった格式の高い門跡寺院であり、地名にちなんで「百々御所(どどのごしょ)」と称されています。

 門を入ると、右手に、人形塚が見えます。

 台座には、武者小路実篤が、供養される人形に寄せた言葉が刻されています。

 屋根廻りの立派な獅子の彫刻を見上げながら、玄関に入り、拝観受付を済ませます。

 奥へと足を進める前にあるのが「使者の間」です。ここは高貴な姫宮のお住まいでもあり、来訪者は、この間で、お許しが出るまで控えていたということです。

 立ち雛が迎えてくれました。

 本堂内、東側の真ん中の部屋には、本尊の聖観世音菩薩像が安置され、襖には、狩野探幽筆と伝わる「秋草図」が、女性の住まう寺らしく、上品で華やかに描かれています。

 扁額は、22世本覚院宮によるものですが、力強い筆跡です。字は体を表すといいますが、宮は能筆で歌の道にも秀でるとともに、寺の地位を高め、紫衣が許されるなど、多才で、政治力もあった方のようで、その迫力が、字からもうかがえます。

2  本堂を取り巻く苔むす庭園

 本堂に入ると、南側、寺之内通に面して庭園が現れます。正面のイロハモミジは、高さ 8.7m 、枝張 16.0m、幹周 1.50mの堂々たる樹容で、秋の紅葉時は、寺之内通にまで美しい紅の傘をさすボリューム感豊かな、見応えのある名木です。

 イロハモミジの横に咲く藪椿。

 東側に続く庭へと、回廊を曲がります。

 桃色侘助でしょうか。

 有楽椿と紅梅の花の取り合わせです。

 開花しているものは少なかったですが、このように、ところどころに椿が植えられ、とりわけ東側の庭では、目につきやすい前面の場所を占めています。

 庭は、本堂の東北へと続き、光格天皇が自ら彫られたという阿弥陀如来像や、日野富子の木像が納められた「阿弥陀堂」の東側には、皇女・和宮が幼少時に毬をついて遊んだとされる「鶴亀の庭」が広がっています。

 その南端の塀際にも椿がありました。

 宝珠形が愛らしいですね。

 「鶴亀の庭」

 本堂の東北に、起伏を見せながら広がる庭です。小高い築山を囲んで、枝ぶり見事な樹々が茂りますが、常緑樹が多いせいか、苔とあいまって、緑濃く感じます。新緑時は一層緑が映えることでしょう。

3  銘椿「村娘」

 本堂の西側の中庭に、高さ3~4メートルの「村娘」が静かに立っています。

 濃桃色の八重咲の小中輪の散椿ですが、残念ながらまだ蕾の状態でした。

 お堂に囲まれた、森閑とした空間に、「村娘」とモミジと奈良八重櫻がシンプルに配置されています。

 特別公開の終わりころに、もう一度訪ねたいと思っていますが、今年は桜の開花が早目らしいので、うまくいくと、「村娘」と桜の両方の花姿を見られるかもしれません。

 「熊谷」と「月光」は、公開されているところからは見ることが叶いません。肥後椿の祖「熊谷」の原木として知られる巨木は庭園の北端に、紅い花弁と蕊の純白のコントラストが際立つ「月光」は寺の西北にあるとのことですが、開花時に、どこかから、少しでも見えることを期待しておきます。

左が「村娘」、右が「熊谷」です。

(追記)奥に「日光」がわずかに見えています。

 私のカメラの望遠では、これが限界でした。残念。

 北端の「熊谷」原木は確認できませんでしたが、南庭に咲くこれは別株かもしれません。

4  夜回りをする人形

 人形展で心惹かれたのは「万勢伊(ばんぜい)さん」でした。

 22世門跡、本覚院宮に贈られ、宮のお気に入りのもので、3代にわたって可愛がられたため、魂が宿り、夜回りを務めたというエピソードを持つ人形です。

 江戸前期に作られた「三折人形」であり、腰、膝、足首が曲げられて、正座させることができるといいます。

 また、おつきの人形として「おたけさん」と「おとらさん」の人形が側に控え、とりわけ「おとらさん」の愛嬌のあるおばちゃん顔にはほっこりします。

 衣装は見るからに手間のかかったものが誂えてあり、刺繡には、白椿と見受けられものもありました。

 寺の南東、寺之内通に面して、小さな櫓のような建物があります。これは「御物見」といい、尼さんたちが、ここから外の世界を垣間見ておられたそうです。

 寺の内の世界はどうだったのでしょうか。皇家や公家の高貴な方々によって、朝廷の「御所文化」が受け継がれてきたと言われていますが、必ずしも内に籠った暮らしだけだったのではなく、御所との行き来もあり、また、高僧や文化人との交流もあり、サロン的な役割も果たしていたのではないかとの研究もされているようです。

 

 

 

 

大徳寺三玄院、龍翔寺、高桐院、玉林院に椿を探す

1 大徳寺の椿散策

 今年の京都の冬は、雪も何度か積もり、底冷えのする寒さも続き、冬らしい冬だったですね。

 2月の月末の土曜日、まだまだ冷え込みの強い日となりましたが、「京の冬の旅」の非公開文化財特別公開の初お目見えとなる「大徳寺 三玄院」を訪れるとともに、広大な寺域を、椿を探して散歩することにしました。

 今回も、素晴らしい椿との出会いもあり、やはり、大徳寺は椿の宝庫であり、訪れるたびに、その「引き出し」の多さを感じさせるところだと思います。

2 「三玄院」の椿

 「三玄院」は、天正17年(1589年)、浅野幸長石田三成森忠政の三人が、春屋宗園和尚を開祖として創建したものです。

 これをきっかけとして春屋宗園和尚と石田三成の縁は深く、三成の請いにより、和尚は、三成が母の菩提を弔うために佐和山城内に建立した寺に住持を送りましたが、住持の弟子として同行していたのが、かの沢庵和尚であります。

 関ヶ原の戦いの後、沢庵和尚は、佐和山城から落ち延び、三玄院に身を寄せ、三成の処刑後は、春屋宗園和尚とともに、遺骸を引き取り、三玄院に丁重に葬ったとされています。

 明治40年に、三成の墓の調査が行われ、発見された遺骨から、三成が華奢な体格で、いわゆる才槌頭で、反っ歯だったとされたということは、よく知られています。

 

 午前10時の開門時、20人近くの方が、門前に。

 受付のところからは、一切撮影禁止でした。

 まずは、方丈の室中の部屋(春屋宗園和尚を祀る仏間)に案内され、原在中が描いた、虎と龍の襖絵を観覧しました。

 この虎は、「八方にらみの虎」と呼ばれ、確かに、どこから見てもこちらを睨んでいるように見えました。

 方丈前には「昨雲庭」の枯山水庭園が広がります。

 向かって左側奥にある「滝石」から、水が流れ出し、大海へと広がる様子を表す庭ですが、その滝石の後ろの植え込みには、椿の木が何本か見えます。

 渡辺武氏の「京椿」には、三玄院の銘椿は、「やすらい椿」「赤玉」と記されており、これらの椿のいずれかかもしれないと思いつつも、まだ花が咲いておらず、判別できませんでした。

 案内ガイドの方にお聞きしましたが、流石にマニアックなことなので、ご存じありませんでした。

 他の庭にも多くの、椿が植えられており、茶室を回ったところの中庭には、おそらく「胡蝶侘助」と思われる大木がありました。

 三玄院の北側の塀越しに見えたいくつかの椿をご紹介します。

 ピンク色の優しい花です。「曙」でしょうか。

 

 上の白い椿の隣で咲く紅い椿です。

 花弁がお椀状に開き、雄蕊もやや開き気味です。

(追記)滝石の後ろの植え込みの椿の一つです。遠目ですが、「日光」椿です。

 屋根瓦の菊模様を見ても、手の込んだつくりとなっているのがわかりますね。

3 「総見院」の胡蝶侘助

 三玄院の北向かいの「聚光院」の西側には、秀吉が信長の菩提を弔うために建立した「総見院」があります。

 ここには、秀吉が利休から譲り受けて植えたものと伝わる「胡蝶侘助」が有名で、400年の歴史を生き延びた、京都の椿を代表するものの一つとして、大切にされていました。

 1982年の調査では、樹高6.4メートル、根回り周囲1.83メートルという巨木でしたが、当時から、樹勢の衰えが進んでおり、惜しくも主幹は枯れてしまいました。

 ただ、当時の調査に、「主幹の南約20センチのところに萌芽(直径8センチ、樹高2.2メートル)がでている」とあり、この萌芽が、この歴史ある銘椿を引き継ぎ、成長しているということになります。

 この日は、まだ、開花しておりませんでしたので、また日を変えて訪問したいと思います。 

(追記)再度訪問も花を見られず。蕾もわずかで、今年は、花の当たり年ではなかったのでしょう。

 かつての幹が除去されずに、往年の姿をとどめています。

 総見院前の椿垣に、一輪だけ、綺麗な藪椿が。

4 「龍翔寺」の竹垣越しの椿

 さらに、西へと進むと、「龍翔寺」が見えます。

 「龍翔寺」の竹垣越しの藪椿です。この辺は、観光客もあまり歩いておらず、静けさ漂うなかで、はっとする鮮やかさを見せてくれます。古竹のくすみと、椿の木肌、濃い緑に浮かぶ紅と薄黄のアクセントは、絵になりますね。

 竹藪を背景に、藪椿一輪。

5 「高桐院」の有楽椿

 「三玄院」の一筋西側には、細川家の菩提寺「高桐院」があります。

 この塔頭も、椿の名所であり、細川三斎とガラシャ夫人のお墓の近くに「雪中花」と「いほく」、楓の庭には「天津乙女」があるということですが、残念ながら、コロナで当面拝観休止となっています。

 門は、この石畳の道を曲がって見えてきます。木立の静謐さを感じますね。

 塀越しに、竹林をバックに「有楽」が咲いていました。

 拝観休止が解けるのを心待ちにしています。

6 「玉林院」の美しき椿

 「高桐院」の南側には、「玉林院」があります。

 「玉林院」は、戦国、安土桃山時代に活躍し、日本医学中興の祖とも称される曲直瀬道三(まなせどうさん)を供養するため、慶長8年(1603年)に創建されたものです。

 ちなみに、私は、この曲直瀬道三なる人物を知らなかったのですが、近代的な診断方法を導入し、先進的な中国医学を活かした医療を進め、正親町天皇足利義輝、信長、秀吉、家康にも重用され、さらに、京都に医学校、「啓迪院」 (けいてきいん) を開いて門人を育成し、当時の医学界に君臨したという、医のオールラウンダーであったようですね。

 大徳寺塔頭は、大名関係ばかりと思っていましたが、「玉林院」は、曲直瀬家による創建ということで、大名に匹敵するくらいの相当の格式を持っていたのでしょう。

 「玉林院」は、拝観謝絶ですが、門を入ったところに、素晴らしい椿の巨木が佇んでいました。

 ふんわりと柔らかな薄桃色の花弁が、何とも気品があり、思わず見惚れる美しさでした。花弁と同じくした、葯の色合いも本当に綺麗ですね。これまで見てきた椿のうちでも、屈指のものだと思います。

 幹周も1メートル近くあるのではないでしょうか。年期を経た風格のある樹容です。

 思いがけないところで、このような椿に出会え、あらためて、大徳寺が椿のメッカであることを再認識いたしました。

 赤松と楓の間の藪椿。

7 大徳寺一久の暖簾をくぐり、大徳寺納豆を求める

 さて、京都にかれこれ40年以上暮らしていますが、今まで大徳寺納豆を食したことがありませんでした。甘納豆のようなお菓子なのかと思っておりました。

 今回、大徳寺に面して、北大路通近くにある老舗「大徳寺一久」の暖簾をくぐり、試食させていただくと、柔らかい塩辛さの後に、梅干しのような酸味が口中に広がり、同時に濃厚な旨味が押し寄せるという、実にインパクトのある風味に驚きました。

 日本酒によく合うと思いますし、料理の隠し味、薬味としても利用できるし、500年の歴史ある発酵食品として、体の調子を整える効果がありそうです。

 たまたま、晩御飯が雑炊でしたが、一粒いれるだけで、存在感を発揮し、おいしくいただきました。

 ご主人からは、ここは、もともと大徳寺に野菜を納めていたが、秘伝の製法を伝授された大徳寺納豆だけでなく、寺の料理方として、精進料理を賄うなど、寺とともに500年の歴史を歩んでこられたことをお聞きしました。

 このような歴史と伝統の重みが、大きな付加価値につながるのが、京都ブランドの強みであると実感いたしました。

 大徳寺納豆に、庭の椿を飾ってみました。

 上から、「松波」、「千羽鶴」、「玉の八重曙 」です。





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

千本釈迦堂の乙女椿と仏像を見る

1 千本釈迦堂の乙女椿と洛中最古の本堂

 12月上旬、無病息災を願う参詣者に振る舞われる大根炊きが有名な、大報恩寺、通称「千本釈迦堂」の境内には、乙女椿が数多く植えられています。

 春にはまだ早いですが、そろそろ、咲き始めている時分であり、また、かねがね評判の高い、このお寺の素晴らしい仏像群にお会いしようと思い立ち、2月18日に訪れました。

 南側の方が正面入口ですが、手前の「五辻通」は狭い一方通行ですので、車で行かれる方は「上七軒」から「七本松通」を上がっていかないと、難儀な目に遭うことになります。以前、カーナビの誘導で、千本通から上立売通に入り込み、辻角を回ることができずに、二進も三進もいかなくなったことがあります。

 落ち着いた入母屋造で、なだらかな勾配の檜皮葺の屋根がせり出し、優美な佇まいを見せる本堂は、1227年の上棟。洛中に現存する最古の建物として国宝指定されています。

 京都のお寺は、古くからのものが残っていそうなイメージですが、応仁の乱によって都が灰燼と帰し、焼け落ちてしまった寺社仏閣が数知れずという中で、西陣に近いにもかかわらず、この戦い以前のものが残っているのは、確かに奇跡的なことでしょう。

 パンフレットには、「両陣営から手厚き保護を受け災火をまぬがれた」とさらりと記載されていますが、徒然草にも載っている、千本釈迦念仏が営まれ、厚い信仰を集めていた本堂の焼き討ちは、さすがに躊躇されたということなのでしょうか。

(追記)阿亀桜が満開です。

 造りは、シンプルで、派手な装飾はなく、「質実」という感じがします。ピアノの内部構造のようですね。

 寝殿造を受け継ぐ建築様式「和様」。

 礼拝のための開放感ある広いスペースをとるために、柱の数を減らしながら、巨大な建物を支える木組みです。屋根の荷重を分散させるための「枡組」も素朴ながら、がっちりと組まれています。

 内陣の柱には、彩色が残っています。これは不動明王か。

 柱には、斜めに切り込まれた、800年前の応仁の乱当時のものと伝えられる刀槍の傷跡が。

2 おかめ塚と北野経王堂の名残のお堂

 この本堂建築にあたって、総棟梁が、寄進された大事な柱の一本を誤って短く切ってしまったのですが、この一大事を、その妻の阿亀の機転と進言により、柱上部に「枡組」を設けることで、見事にクリアしたと伝えられています。

 ところが、阿亀は、総棟梁ともあろうものが女の知恵に助けられたとの噂を立てられれば、名声に傷がつくと、本堂の上棟式の前に自害してしまいます。

 総棟梁は、上棟に、阿亀を偲ぶ面を飾り、妻の冥福と建物の完成を祈ったとされています。

 やるせない美談として、今に伝えられていますが、ジェンダー平等を進める今の世では、なかなか受け入れがたい話ですね。

 境内には、かつて、北野天満宮にあった「北野経王堂」が解体縮小されて移築されたお堂があります。「北野経王堂」は、足利義満が、「明徳の乱」で討ち果たした山名氏清と、戦いに命を落とした武士たちの追福のため建立したもので、ここで創始された「北野経会」という供養行事が幕府主催の行事として大々的に行われ、今の千本の釈迦念仏につながっているようです。

 

3 咲き始めた椿たち

 椿は、このお堂と、お稲荷さんのあるあたりに多く植えられています。

 主には、桃色の乙女椿ですが、若干、藪椿と他の品種もあります。

 拝観受付の横の「有楽椿」。

 乙女椿は、まるで造花のような、端正な花姿ですね。アイスクリームの淡い味わいとでもいいましょうか。まだ、咲き初めで、これからが本番です。

(追記)

4 快慶作の「十大弟子像」、定慶作の「六観音像」

 さて、千本釈迦堂の仏さまたちは、霊宝殿に安置されています。

 何といっても、定慶作の「六観音像」と、快慶と弟子・行快作の釈迦「十大弟子像」がお目当てです。

 六観音像のうち、准胝(じゅんでい)観音は定慶作ということが判明しており、他の観音も、定慶自身か、あるいは彼の指揮のもとで工房の仏師が彫ったものと考えられています。

 六体が一同に揃っているのは、唯一ここのみという希少価値はもちろんのこと、それぞれに姿は異なれど、統一感のある、白木(「榧」だとお聞きしました。)のままの、均整の取れた美しさが実に魅力的です。

 この観音様は、概ね等身大、引き締まった体躯で、天上界よりも、人間界に近い感覚を抱かせるところが特徴的です。神秘さや荘厳さに寄るよりも、ある意味人間臭くわかりやすい造形は、現世利益を求めて民衆に広がった観音信仰とも相通じるものがあるのではないかと思います。

准胝(じゅんでい)観音像(文化庁文化財デジタルコンテンツより)

 十大弟子像」は、さらにリアル感が前面に出ています。もちろん、様式化された表現もあるのでしょうが、自由な造形を楽しめます。

目犍連尊者像(文化庁文化財デジタルコンテンツより)

 菅原道真が梅の古木を彫られたと伝わる「千手観音像」は、切れ長の眼の特徴あるお顔立ちと、技巧的というよりも素朴な造りのお姿に惹かれるものがありました。

 本堂内々陣の厨子に安置される秘仏の本尊「釈迦如来像」は、六道まいりのお盆と、千本の釈迦念仏が行われる3月22日には開帳されます。

 釈迦念仏の時には、乙女椿も満開になっていることでしょう。