梅が見ごろな北野天満宮で椿を探す~上七軒へ

1 北野天満宮の梅を見る

 寒さも少し緩んだ2月11日、梅も蕾が綻んでいるだろうと、久しぶりに、北野天満宮に行ってきました。

 さすがに、メジャーな観光地であり、梅の見ごろを迎えているということで、午前10時前でしたが、参詣人の列がとぎれず、外国の方もちらほらと見受けられました。 

 境内、いろいろな箇所に牛が鎮座していますが、楼門を入ってすぐ右手のこの牛が一番巨大で、ご利益がありそうでした。赤眼なのは、道真の左遷を悲しみ泣きはらしたから❓

 壮麗な「三光門」。

2 接木により伝えられてきた「飛梅

 本殿前にある、由緒正しい御神木「飛梅」。

 遅咲きなので、まだ、蕾の状態でした。

 この梅は、太宰府へと左遷された道真を追うように、京の屋敷から飛んで行ったと伝えられる、樹齢400年以上になろうかという古梅です。

 神社創建以来、大切に守られてきたものですが、樹勢の衰えと、近年蔓延し、梅に大きなダメージを与えるウィルスへの感染リスクに備えて、北野天満宮住友林業が協力して、組織培養で増殖させたクローンの苗木を開花させることに、2017年に成功したというニュースは記憶に新しいところです。

 この古梅のDNA調査により、根部と枝部のDNAの違いが明らかになり、御神木を後代に引き継ぐために、接木を行ってきたことが明らかになりました。

 道真が、「東風吹かば」と詠んだ梅が、何代かの接木を経て、今に見ることができるという、まさに生きた歴史遺産です。

 椿も、樹勢の弱い品種をはじめとして、強健なサザンカなどを台木に、接木の技術が磨かれてきましたが、老齢で接木、挿木がままならない貴重な一本限りの銘木も多いことから、枯死に至る前に、このようなクローン技術による保存ができればと思いますね。

3 本殿そばにひっそりと咲く椿

 梅の咲く北野天満宮で椿を探すのは私くらいだろうと思いながら、一巡りして、神楽殿のそば、本殿の東側、北門寄りに、いくつか椿を見つけましたが、あまり目立たず、巨木は見当たりませんでした。

 本殿東側、梅に埋もれながら、ひそやかに咲くつばきです。

 やはり、メインは梅ですね。

4 上七軒「西方尼寺」へ

 梅を堪能して、東門を出て、花街の風情漂う「上七軒」を少し歩くと、歌舞練場への曲がり角に「西方尼寺」が見えてきます。

 「西方尼寺」は、後二条天皇とのゆかりが深い天台宗の尼寺で、門内の石の標柱には「築地御所本光院門跡」と刻されています。また、北野大茶会の際に、利休が茶の湯に使ったという「利休井」があり、茶室の前の中庭には、利休手植えと伝えられる五色八重散椿の巨木が残されています。

 この椿と、椿寺の先代の椿、柊野の民家の椿とが、京都の散椿の三銘木です。

 ただ、「西方尼寺」は一般拝観されていないため、この銘椿をなかなか目にする機会がありません。

 塀の外からでも見ることができないかなと期待していましたが、内庭にあるようで、残念でした。
 ただ、外から見える限りでも、椿が数多く植えられ、玄関口にも、きれいな白侘助が植えられているなど、茶の湯と関りが深い尼寺らしく、椿をいつくしんでおられる様子がうかがえました。

5 門前の「やきもち」をいただく

 帰路、東門そばの、昔ながらの、まちの和菓子屋さんらしい雰囲気の、「やきもち」のお店に立ち寄りました。「天神堂」という屋号なのですが、看板には大きく「やきもち」の表示のみのわかりやすさ。あの上賀茂神社の神馬堂から暖簾分けされたようです。

 昔懐かしい木枠のガラスケースに、看板のやきもちを真ん中に、左右に、三笠と六方焼きとがおいしそうに並んでいましたので、食べ比べてみようと、いそいそと買い求めました。いずれも1個130円というお手頃価格です。

 ご主人に、「創業どれくらいですか?」と尋ねると、「うちは70年くらいで、ここではひよっこです。」と笑って答えられました。

 高名な「老松」さんが、明治41年創業で140年あまり、さらに京都には上をいく古さのお店が多いため、それと比較するとまだまだという感じなのでしょう。

 家に帰ってさっそくいただきましたが、やきもちのもちもちした食感、六方焼きのしっとりとした厚みのある食べ応え、三笠のふんわり軽やかで香ばしい生地の味わい、また、粒餡とこし餡の両方の舌触りも楽しめて、ほっと一息の、幸せなティータイムとなりました。

添えた花は、我が家の庭に咲いている「夢」という椿です。サザンカとの交配種で、本来は花弁が交互に白と濃桃に色別れするはずなのですが、今年は、底桃のような変わった色合いになっています。





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

修学院離宮の大パノラマ。客殿の脇に咲く椿。

1 王朝の山荘テーマパーク「修学院離宮

 京都には、西に「桂離宮」、東に「修学院離宮」の二つの離宮が現存し、ともに、およそ400年前の江戸時代初期に、平安時代の王朝文化の再現を図ろうと、「桂離宮」は後陽成天皇の弟の八条宮智仁親王、そして「修学院離宮」は後水尾上皇が造営したもので、宮内庁京都事務所が管理しています。

 この名だたる離宮のうち、今回は「修学院離宮」を2月4日に訪れました。

 事前に申し込みを行い、抽選により許可が下りると、当日は、時間帯に分けて、職員さんのガイド付きの見学ツアーのグループに参加するかたちで、離宮を一通り案内してもらえます。

 9時発の朝一番のツアーでしたが、早くから、入口の門前には、制服を着た職員さんがチェック体制を整えておられます。

 許可書と身分証明書を確認され、休憩所でツアーの開始を待ちます。さすがに、宮内庁管理ということで、厳重な手続きで、役所に入る時のような「緊張感」を少々感じましたが、職員さんは丁寧ですのでご安心を。

 この修学院離宮は、東山山麓の高低差のある丘陵に設置され、54万5千㎡という、京都御所の約5倍に及ぶ途方もない広さを有しています。

 上、中、下の御茶屋から構成され、それらをつなぐ松の並木道の両側には田んぼが広がり、また、一番高いところに位置する上茶屋は、差し渡し350メートルを超える、巨大な人造の堰き止め池「浴龍池」の中島に造られているなど、選び抜かれた土地の特性を活かし、取り込んだ、雄大な「王朝の山荘テーマパーク」ともいうべきものだと思います。

 ただ、建物自体は、王朝絵巻のような絢爛華美というよりも、質実簡素かつ機能を絞り込んだ、無駄のない洗練さを感じさせます。

 それでは、ツアーの順路に沿って、離宮に入りましょう。

2 下離宮

 板戸の御幸門から、下離宮に入ります。

 中門の向こうには、庭園が開けます。洛北らしく、まだ、先日の雪が残っていました。

 下離宮の「寿月観」です。

 右側「一の間」の床の間の前の上段は、上皇が座られる場所となります。

 「一の間」から直角に折れて「二の間」「三の間」が造られています。「二の間」の杉戸の絵は夕顔で、作者不詳とのことですが、つつましやかながらも、緑が映え、心惹かれます。

 下離宮の東門から出ると、比叡山を望む広大な光景が、いきなり眼前に広がり、圧倒されそうになります。

3 中離宮と椿

 高さを抑えながら形を整えている松並木の道を通って、中離宮へと向かいます。

 「客殿」横には、今回唯一、開花していた藪椿を見ることができました。

 中離宮は、一番多く、椿を見かけました。樹形を見ても、随分と手がかけられているのがわかります。

 「一の間」の飾り棚は、棚板が霞がたなびくようだとして「霞棚」と称され、桂離宮の桂棚、三宝院の醍醐棚とともに、天下の三棚と呼ばれているそうです。壁に貼ってある和紙には、和歌や漢詩が記されているとのことですが、名だたる棚を損ねないよう、配置のバランスにも気を使ったものと思います。

 杉戸には、祇園祭の鉾、鯉の絵が描かれています。この鯉は、夜な夜な、庭の池に逃げたということから、網を書き加えて閉じ込めたとの伝承があります。

 客殿は、内親王のお住まいだったこともあり、優しい雰囲気があり、装飾が最も凝っていました。

 

 中離宮に隣接して、「林丘寺」があります。

 このお寺には、後水尾天皇お手植えの「白侘助」があり、ぜひ見たい銘椿なのですが、コロナでしばし拝観中止となっており、再開を待っている状況です。

 「白侘助」は早咲きなので、もしかしたら塀越しにでも、この機会に見れるかなと期待していたのですが、残念ながら門は閉じられていました。

4 上離宮と眼下に広がる大パノラマ

 気を取り直し、中離宮を後にして、再び、松並木を登り、上離宮へと向かいます。

 坂を上がった頂上に「隣雲亭」が現れます。

 ここからの眺望は、まさに、絶景というべきパノラマが広がります。

 北は、鞍馬、貴船、西は、愛宕、そして、西山連山を一望し、京都市街を眼下に、南は天気の良い日は、あべのハルカスまで見ることができるそうです。

 北の山々を望みます。

 この「浴龍池」は、掘削ではなく、谷川の流れを、200メートルに及ぶ堤防を築造して、堰き止めたものです。京都盆地全体を借景にするという、何とも壮大な庭園ですね。

 愛宕山から西山連山、市街を望みます。

 実にシンプルな「隣雲亭」。この縁側に座って、遠大な景色を眺めることができます。三和土には、1個、2個、3個と小石が並べられ、「一二三石(ひふみいし)」と呼ばれています。

5 「浴龍池」を回遊

 「隣雲亭」から降りて、池の回りを回遊していきます。

 しばらくすると、浴龍池に浮かぶ中島と「万松塢(ばんしょうう)」という名の島をつなぐ「千歳橋」が見えてきます。

 いかにもフォトジェニックなスポットですが、もともと離宮にあったものではなく、1824年から1827年にかけて建造されたもので、宮内庁のパンフレットでは、「いかにも中国的な感じで自然に溶け込まず違和感があるが、それもまたアンバランスの美といえる」と、やや突き放したような記述があるのが面白いです。

 水野忠邦が屋形部分を寄進したとされていますが、彼は、審美眼をあまり持っていなかったとの評価でしょうか。でも、我々素人目には、写真映えするところですよね。

 中島に架かる「楓橋」です。その名の通り、紅葉の頃は、大変美しく彩られる中を渡ります。

 中島の頂上にある「窮邃亭(きゅうすいてい)」です。創建当時から残るもので、扁額は、後水尾上皇の宸筆です。

 上段の窓は、上部を軸にして障子を外側に開く設えとなっており、外の景色を存分に楽しめるよう、開口部を大きくしてあり、開放感があります。ガラス窓のない時代の工夫なのでしょう。

 西側窓下には、長さ二間の欅の肘掛板が誂えてあり、上皇が、ここで肘をつきながら、池を巡る四季折々の風景を楽しまれたところです。

 屋根に、菊の御紋の宝珠がのっています。

 かつては、池の水深はもっとあり、二階建ての遊覧船による舟遊びが行われたと、ガイドの職員さんが仰っていました。

6 堤防と「大刈込」

 池の水を堰き止めている堤防です。「大刈込」を間近で見ると、このようです。

 堤防は、石垣で強固にされていますが、そうとはわからないように、三段の生垣と「大刈込」で覆われています。

 昭和13年の調査では、47種の樹木と、後年混入した19種の樹木が混栽されているとされており、混入したもののうち、柿やネムノキなど、枝葉が疎らになりがちなものは除去して、均斉の美を保つべしと記されています。(「修学院離宮上之御庭大刈込の樹種」丹羽鼎三氏より)

 緻密な垣根の維持に、多大な労力と時間をかけてこられたことと思います。

 桜が咲くと、一段と美しい光景になることでしょう。

7 見学ツアーを終えて

 今回は、椿よりも、庭園の壮大さに、ただただ、驚くばかりでした。

 それにしても、これほどの規模の離宮を造営できるほど、上皇の力は大きかったのでしょうか。

 後水尾天皇は、幕府権力の強化の中で、朝廷の権威と、それを統制下に置こうとする幕府とのせめぎ合いが激化した渦中の天皇であり、幕府の干渉に不本意で、心収まらない日々が続いていたことと思われます。

 離宮造営は、幕府としては強硬策だけでなく、上皇や朝廷の懐柔策としての意味もあったものと推測されますが、上皇もそれをわかりつつ、文化を受け継ぐ権威者として、侵されない境地を矜持をもって示そうとされたのではないかと思います。

宮内庁ホームページより

 

雪の松尾大社に椿を探す

1 久々の雪景色の松尾大社

 先週の1月25日は、10年ぶりの強烈な寒波による風雪が列島を吹き荒れ、京都でも市内で14センチという、久々の積雪となりました。

 この日以降も、日中の気温が上がらず、土曜日になっても雪が融け切らないままなので、遠出は控えて、近場の松尾大社を訪れることにしました。

鳥居にぶら下がる榊の小枝の束

榊の小枝の束が12本ぶら下げられています。「脇勧請」というそうです。

 金曜日の夜半からは再びの雪模様で、山沿いということもあってか、意外なほど雪が残っており、寒さに凍えながらも、雪景色を楽しむことができました。

 楼門は檜皮葺のため、雪が柔らかく積もりやすそうな気が。白い屋根が、漆喰の白壁とよく似合います。

雪で白くなった楼門の屋根

随神①
随神②
貴族の護衛のために随従した官人を随身と言い、神社では神を守る者として安置され、「随神」というそうです。お寺でいう仁王様かな。

酒造りの神様の総本家というだけに、有名どころの銘柄の菰樽がずらりと並んでいます。

酒造りの神様の総本家というだけに、有名どころの銘柄の菰樽がずらりと並んでいます。

2 「一の井」ほとりの藪椿

 お参りをした後、境内をぐるりと椿探索しましたが、残念ながら、これはという椿には出会いませんでした。雪と椿という絶好のショットを撮れるチャンスと意気込んでいたのですが、事前のリサーチが不足してましたね。

 神苑の方も、受付の方にお聞きする限りでは、椿はなさそうな感じでしたので、今回は神苑はスルーさせていただき、大社周辺を少しぶらついてみることにしました。

 菰樽が並ぶ「神輿庫」の裏手に、渡来氏族の秦氏が開削したと言われる「一の井」が流れていますが、その土手に、一本、開花し始めている藪椿がありました。

 水曜日からの雪に痛みが目立ちながらも、紅色に咲く花を見ると、わずかながら、春の兆しも感じ取れます。

松尾神社の藪椿

松尾大社の藪椿の花

3 月読神社へ

 大社から南へと山沿いの道を進むと、松尾大社の摂社である「月読神社」が見えてきます。

月読神社の鳥居

 

 御朱印授与所の前には、有楽椿が咲いており、枝には、御神籤が結わえられていました。

雪を纏った月読神社の有楽椿

 境内林に混じって、咲く有楽椿。

 境内には、「月延石(つきのべいし)」と呼ばれる石が祀られており、この石をおなかにあてたおかげで、神功皇后応神天皇を安産できたという伝承があり、昔から、安産祈願の参拝がされています。

 私が訪れた日は、ちょうど、安産を祈る「戌の日まいり」の日だったため、何組かのご夫婦が、御祈祷を受けに来られていました。

 月読神社に行く途中、「一の井」と交差する道際に、縦横2メートルほどにこんもりと刈りこまれた椿があり、ふと根元を見てみると、これが太いことにびっくり。

 1メートルを超えそうな幹周だけに、元はかなりの巨樹であったと思いますが、通行の支障か何かの理由で、寸胴切にされてしまったのでしょう。枯れずに芽吹いて、このような形状になっているようですが、椿らしい再生力の強さを見せています。

 桃色の蕾がついており、藪椿ではなさそうですが、また通りかかる機会に確かめておきましょう。

4 松尾大社、月読神社と秦氏

 松尾大社は、飛鳥時代大宝律令が制定された大宝元年(701年)に、文武天皇の勅命により、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が社殿を造営したと言われる、大変に歴史の古い神社です。

 大社の祭神は二座あります。

 一座である『大山咋神』(おおやまぐいのかみ)は、社殿のできる前代から、在住の人々が、松尾山の霊を、暮らしを守っていただく神として崇め、祀ってきたものであり、もう一座である『市杵島姫命』(いちきしまひめのみこと)は、航海の安全を守る、九州の宗像三女神の一神であり、秦氏との関係が深い神です。

 5~6世紀にかけて、この地に集団で移住してきた秦氏が、従来から信仰されてきた松尾山の神を氏神として崇めるとともに、大陸文化と技術を携えて海を渡ってきた一族のシンボルとして、航海の守護神を祀ることにより、誇りと気概をもって、一族が団結して、開拓に取り組んだことが想像できます。

 また、月読神社の歴史は、松尾大社よりもさらに古いとの伝承があり、その祭神は、壱岐の国から移された『月神』(海の干満をつかさどる神)となっています。この移転についても、秦氏が関わっていた可能性が強いとされています。

 『市杵島姫命』も『月神』も海の神ですが、桂川の治水の大事業に当たって、水の守り神として、安全と成功を祈願する意味もあったのではないかと、気ままに空想しています。

 松尾山一帯は、両神社だけでなく、古墳が集積し、秦氏によって開かれた水路が今も流れるなど、古墳時代からの歴史が、ところどころに息づいています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

祇王寺に薄墨椿を訪ねる

1 厳寒の祇王寺を訪れる

 祇王寺は、平安時代に、法然上人の弟子である念仏房良鎮が開創した往生院に由来します。往生院は、山域一帯を占めていましたが、後年、荒廃し、わずかに一部が尼寺として残り、祇王寺と呼ばれるようになったと伝えられています。

 祇王寺は明治初年に廃寺となりましたが、これを惜しんだ大覚寺門跡と京都府知事・北垣国道らにより、明治28年に再興され、昭和10年からは、明治・大正にかけて芸妓として一世を風靡した照葉こと智照尼が庵主として、寺の維持、発展に尽力されました。

 ここには、薄墨椿と呼ばれる、やや黒みを帯びた花色の藪椿があるということで、出かけてみることにしました。

 清凉寺・嵯峨釈迦堂前の道を西に進み、二尊院を過ぎ、左に折れて、そのまま、山の方へと入っていくと、突き当りが、祇王寺の入口となります。

 苔むした門をくぐります。

2 一面の苔に覆われる境内

 中に入ると、一面の苔、苔、苔・・・。

 この日は零下に下がる寒い日で、苔にも霜が降り、朝の光に、きらきらと反射していました。

 今更ながら、苔は、常緑なんだなと。

 まだ、咲いていませんでしたが、椿は、園内にいくつか植えられています。

 草庵の傍の大きな椿は、数輪の花が咲いていました。

 もうしばらくすると、開花と落ち椿が、草庵の「吉野窓」から見ることができるのでしょう。

 この草庵は、北垣国道が、別荘を寄付したもので、中の仏間には、祇王、祇女、刀自、仏御前ら5人の木像が安置されています。

3 「薄墨椿」

 お目当ての「薄墨椿」は、受付入り口のそば、山手側にありました。

 残念ながら、開花しておらず、受付の方にお聞きすると、まだ先のようでした。老木ではないですが、あまり樹勢が強い品種ではないのかもしれませんね。

 流石に、1月なので、椿のシーズンには少し早かったかなという感じでした。

 椿は、梅が咲いてからかな。

(追記)「薄墨椿」です。現物よりも、明るく映っているのですが、心なしか、やや沈んだ色合いを感じさせるような気も・・・。

 

 静かなる草庵のイメージと合う造作です。

 祇王寺からの帰途、沿道脇に、美しい、咲き分けの椿がひっそりと咲いていました。

4 祇王と智照尼

 平清盛に見初められた、白拍子祇王が僥倖もつかの間、同じ白拍子の仏御前に心移りした清盛から追い出された挙句、仏御前を前に芸を披露させられるという屈辱の目に遭い、世を儚み、この世を去ろうとした・・・。

 祇王の悲運と、明日は我が身と、祇王とともに出家の道を選んだ仏御前を語る物語は、平家物語の中でもポピュラーな段として知られています。

 このブログを書くために、いろいろとネットで調べてみて、初めて、智照尼さんのことを知りました。

 当代人気随一の芸妓であった「照葉」さんの、数奇な生涯と、哀しい境遇、そして、仏の道に入ることによる救いと、まさに、祇王の物語と重なるような姿に感銘を覚えました。

 照葉が兄さんと慕った、長島隆二氏(大蔵官僚、衆議院議員桂太郎の娘婿)の『政界秘話』(1928年)という手記に、「萬龍と照葉」の章で、照葉の芸妓に至る境遇や、照葉が何よりも大切にしていた実弟の死、その後の消息の不明と再会など、様々な場面での彼女との思い出が記載されていますが、出会いからずっと、悲運に見舞われる照葉を見守る、氏と照葉との心の通い合いが、しみじみと語られ、心を打ちます。

ウィキペディア 「高岡智照」の項目 脚注26で読むことができます。

 もちろん、美化されているところはあるでしょうが、当時のエリートには、自他ともに認める自負があり、また、これだけの文章をものする文才も備えていた人も少なからずいたのでしょうね。

 氏は、智照尼による祇王寺の再興にも協力されたということで、氏としても嬉しかったであろうことと思います。

詩仙堂に丈山椿を見る

1 1月の詩仙堂を訪れる

  1月15日、寒波のはざまの、少し寒さが緩んだ日に、詩仙堂を訪れました。

 詩仙堂といえば、紅葉と皐月の頃が、庭園が見目鮮やかに彩られるハイシーズンですが、初冬から春にかけては、静けさを取り戻した園内に、椿が順々に咲きそろいます。

 この地に居を構えた石川丈山の名を冠する「丈山椿」や白玉椿の巨樹をはじめ、庭園の各所に、椿、サザンカが植えられており、椿好きにとっては見逃せないところです。

 詩仙堂へは、白川通から、曼殊院道に入り、宮本武蔵と吉岡一門の「決闘之地」の石碑を横目に見ながら、東へと、狭い道を山手に上っていくと、簡素で、風雅な山門「小有洞」が見えてきます。

2 参道のサザンカと椿

 山門右脇には、大きなサザンカが白い花を咲かせています。

 詩仙堂には、かつて、庭園に、樹齢400年とも言われた、全国的にも有名な、白花の大サザンカがあったのですが、寄る年波と、台風や地震の影響もあり、平成7年に惜しくも倒れてしまいました。

 門前のサザンカは、この古木には及ばないものの、幹周90センチ、樹冠が山門の頭上を覆う大樹で、詩仙堂の入口を示すシンボルツリーとして、拝観者用パンフレットの表紙を飾っています。

 山門から石段を上がり、参道の左手、竹林の中にも、何本かの椿がありました。

 そのうちの一本は、幹周1メートルを越えそうな大樹でしたが、椿にしては、分枝せず、一直線に空高く伸びているのが印象的でした。おそらく藪椿だと思いますが、開花すれば、紅い落ち椿と青竹とが、鮮烈なコントラストになるでしょうね。

 竹垣との相性も抜群ではないでしょうか。

 中門「老梅関」には、椿垣が連なっています。一輪だけ控え目に咲いていました。

 私は、ものが、よく人の顔に見えるのですが、黒目勝ちの窓がやけにリアルに迫ってきませんか。

3 建物入口に立つ獅子頭

 建物に入る前庭には大きな椿が一本あるだけ。まさに、メインツリーです。

 枝のうねり具合が見事だし、根が白砂に浮き上がるのも味わいがあります。

 建物と一体感のある配置ですね。

 受付の方にうかがうと、「獅子頭」とのこと。

 寒椿の「獅子頭」か、はたまた、別の種なのか、これは、後日に確認したいと思います。

4 建物から庭園を見て、白玉椿の巨樹に感動

 詩仙堂の中心となる「詩仙の間」。

 四面に、狩野探幽による中国の名だたる詩人の画が9名ずつ、延べ36人描かれています。この選定に当たっては、丈山と林羅山が議論を重ねたとされており、王安石について、丈山は、羅山の推しにもかかわらず、外したということです。

 王安石は、文才はもちろんのことですが、北宋の宰相として、神宗のもとで政治・財政改革を断行しましたが、道半ばで、反対派に排除されたと、世界史で習いましたが、丈山には、何かはまらないところがあったのでしょうか。

 ご本尊の「馬郎婦観音」です。

 「詩仙の間」の西側、嘯月楼の階下の座敷から見た、唐様庭園です。

 先述の大サザンカは、この縁側のすぐ近くにあって、大きく張り出した横枝越しに、庭園を見るという位置関係だったようです。

 寛永18年(1641年)に詩仙堂が落成し、石川丈山が移り住んだ時に植えたものと伝えられていたため、350年以上の樹齢を重ねていたことになります。

 右端に見えるのが、大層立派な「白玉椿」です。

 花の盛りはすでに過ぎているとのことでしたが、まだ、咲き残りがちらほらと。

 まるで、八岐大蛇のような、見事な枝ぶりです。

 文書に記録されていないため、樹齢が不明ということでしたが、200年は越えているのではないでしょうか。

 「読書の間」からの眺めです。

 詩仙堂は、庭に下りて、散策を楽しむことができます。

 可愛らしい五重塔は、作庭当時からあったものだそうです。

5 「丈山椿」が咲いています

 庭園を下っていくと、お目当ての「丈山椿」が咲いていました。

 花弁に優しい紅の縦絞りの入る美しい椿です。思っていたよりも大輪で、華やかな雰囲気でした。

 「この寒咲きの椿と侘助、白玉は、数多い京の椿寺の椿とくらべても屈指のもので、詩仙堂の三銘椿といえる。寒椿には、矮性の灌木で紅色八重冬咲きの同名種があるので、ここの寒咲きの名木はここ独特で他に見られないから、住職石川琢堂師に御相談して、丈山椿と名付けていただいた。」(渡辺武著「京椿」より)

 ちなみに、この本で触れられている侘助とは、胡蝶侘助のことですが、まだ開花していないようでした。

 葛城絞や松波と似ていますね。

 ほかにも、上品な椿が多かったですね。

 庭園の南側の段下から仰ぎ見た「白玉椿」です。

 空を覆わんばかりの威容です。

6 異世界的魅力のある庭

 詩仙堂の正式な名前である「凹凸窠」(おうとつか)が示すように、高低差のある自然地形を活かしながらの作庭は、流石に、名庭と言われるにふさわしい魅力があります。

 どこを撮っても、絵になりますが、少し異世界的な味わいもあるものを、いくつか、ご紹介します。

 石川丈山は、身の丈六尺六寸という「巨漢」で、江戸初期の武人、漢詩人、作庭家で、59歳の時に詩仙堂を造営し、様々な文化人と交流しながら、竹林の七賢のような生活を送り、90歳で大往生したという人物です。詩仙堂とともに、渉成園や一休寺の作庭も手掛けています。

 

 今回は、幽玄な風景の中で、静謐な時間を満喫することができました。

 できれば、「嘯月楼」に上っての庭の景色も一度見てみたいですね。

 渡辺武先生の「京椿」によると、石川丈山は、詩仙堂に移る前に、一時、元田中付近に住まいがあり、その旧邸跡に侘助椿の巨木が残されているとの記載があり、私は、何回かそのエリアを探索してみましたが、未だに発見できていません。幹周130センチの高木とあるので、相当目立つと思うのですが、今も残っていてほしいと願っています。

 



 

 

 




 

東北院のサザンカは今もあった

1 東北院を訪れる

 真如堂の総門を後ろに、右上手の道を進んで突き当り、左手、吉田山へと向かう道沿いに、4つのお寺が横並びで建っています。

 東から、迎稱寺、大興寺極楽寺、そして一番西に「東北院」(とうぼくいん)があります。

 この東北院には、昭和49年10月発行の「京都市の巨樹名木」(京都市景勝地植樹対策委員会)という冊子に、さざんかの巨樹があることが記載されています。

 1974年3月の調査では、幹周145センチ、樹高8メートルと測定され、「玉垣はこわれ、樹木の管理はなされていない」と記録されていますが、この巨木が今もあるのか、真如堂を訪れたついでに、確かめてみることにしました。

 この四軒寺の門前はひっそりとしていますが、中でも、迎稱寺は、ところどころに崩れのある土塀が鄙びた風情を醸し出し、東北院も、樹木の管理に、あまり手が回っていないことが、観光寺とは違った、趣のある寂寥を感じさせる雰囲気を漂わせています。

(迎稱寺です。)


 東北院は、藤原道長が創建した法成寺(ほうじょうじ)寺町通を挟んで、仙洞御所の東側にあった摂関期最大級の寺院)、内の東北の地に、道長の娘で一条天皇中宮となった上東門院・藤原彰子が、常行三昧堂阿弥陀仏の周りを回りながら念仏を行うためのお堂)を建立し、晩年を過ごした寺院であると伝えられています。

 上東門院・藤原彰子といえば、聡明、公正な人柄と、容姿もひときわ優れた賢后として、道長、頼通の摂関政治を長く支えたとされ、また、紫式部和泉式部など、そうそうたる女流作家、歌人が揃う宮廷文芸サロンを主宰していたことでも有名です。

 和泉式部は、後年、娘の小式部内侍に先立たれ、出家の身となって、上東門院の口利きによって、道長が東北院内に建てた小堂に住んでいたといわれます。

 東北院は、その後、度重なる火災や兵火に見舞われ、荒廃していましたが、元禄5年(1692年)の火災後に、真如堂などとともに、現在の場所に移ったとされています。

 本尊は、伝教大師最澄が彫ったと伝わる「弁財天」で、寺が移転・興廃を繰り返す中で、1559年頃に、時宗の寺となっています。

2 和泉式部ゆかりの「軒端の梅」

 本堂前にある梅は、「軒端の梅」(のきはのうめ)と名付けられています。

 この梅は、和泉式部が当時の東北院に植えたとされる梅の代替わりのものと伝えられています。

 枯死した部分もありますが、脇から伸びている新木が、歴史を引き継いでいます。

 「軒端の梅」は、世阿弥作の謡曲「東北」にも登場します。

 東北院を訪れた旅の僧の一行が、見事な梅を眺めていると、一人の女性が現れ、この梅は和泉式部が植えたことを語り、木陰に消えてしまいます。

 僧は、門前の人から、それは和泉式部の霊に違いないと聞き、お経を唱えて供養していると、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れ、生前の仏縁の思い出を語り、和歌の徳・仏法のありがたさを説いた後、再び姿を消したが、そこには梅の残り香があったというものです。

 数々の恋愛と華やかな宮廷生活から離れたあと、仏の道で、世の無常から救われたということであれば、無残な話も多い中で、少しほっとできる、穏やかなゴースト・ストーリーです。

 それにしても、和泉式部世阿弥にまつわる伝承を有するという、文芸的背景の高い肩書を持っている梅ですね。

3 サザンカの巨木

 さて、サザンカの巨木がないか、探してみると、寺の西側、道路沿いの入口近くに、白い花を咲かせている木を見つけました。

 主幹が朽ちてしまい、表皮だけが残っていますが、もともとは相当に巨樹であったことが想像できます。

 先ほど紹介した、「京都市の巨樹名木」の写真です。

 撮っている向きが違いますが、写真一番左の枝が、現存の枝と一致しているので、この樹に間違いありません。残念ながら、この50年の間に、写真右側部分が枯れ朽ちてしまっているのですね。

 冊子では、特徴として、

 「根元より0.5mで分岐し、さらに地上1.5mのところでは支幹の数9個となって主幹を形成していない。なお、支幹数か所が癒着して連理となる。」

と記されています。

 今は見ることのできない樹容ですが、何とかがんばって生きながらえていってほしいですね。

4 元真如堂への道沿いの椿

 この後、白川通へと戻る途中、真如堂の元々あった場所にある、元真如堂(またの名を換骨堂)がありました。

 真如堂を訪れる人が、ぽつぽつと北側の道を通っていきますが、こちらまで回る人は少ないでしょう。

 

 道沿いには、椿が、静かに咲き、気付く道行く人を楽しませてくれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真如堂に椿の古木を楽しむ。

 あけましておめでとうございます。

 本年も、京都の数多ある寺社仏閣を、椿を愛でながら、のんびりと巡ってまいります。

1 新年の真如堂

 令和5年1月7日(土)、今年初めての探訪は、真如堂です。

 真如堂は、正式には鈴聲山・真正極楽寺(れいしょうざん しんしょうごくらくじ)といい、その本堂を表す「真如堂」が通称となっています。

 京都大学の東、吉田神社のある吉田山(神楽岡)の南麓にあり、白川通の市バス・錦林車庫前から西に、意外に,上り勾配のきつい道を8分ほど歩くと、真如堂塔頭が集まる高台のエリアへと出てきます。

 

 どっしりとした構えの総門です。神楽岡におられる神々が夜に参集される際に、邪魔にならないようにと、敷居を設けていないとのことです。

 

 真如堂は、永観2年(984年)に戒算上人が開創した、天台宗の寺院です。

 上人が、夢での阿弥陀如来のお告げにより、本尊となる阿弥陀如来像を比叡山から、東三条院離宮に安置したと伝えられています。

 この像は、慈覚大師円仁が造ったものとされ、完成したときに、修行者のための本尊としようと、大師が眉間に白毫を入れようとすると、阿弥陀様は頭を横に振られたため、ならばと、京へ行き、一切の衆生、とりわけ女性を救いたいと大師がおっしゃるとうなずかれたとの伝承があります。女性の信仰が篤いと言われる所以ですが、時代を先んじた、開明的な阿弥陀様ですね。

 東三条院藤原詮子)は、藤原道長の姉であり、円融天皇の女御、一条天皇の母ですが、道長と伊周との権力争いにおいて、一貫して道長を支援し、後の道長の栄華にも大いに貢献したとされている女性です。(「枕草子」の好きな私としては、伊周はともかくも、その妹の中宮定子の悲運が頭に浮かびます。)

 その後、応仁の乱足利義政、義昭、豊臣秀吉による移転の命により、本尊の安置場所や寺地は変遷をたどりましたが、元禄6年(1693年)に東山天皇の勅により、現在地に復したということです。

 応仁の乱の状況をリアルに今に伝える「真如堂縁起絵巻」は貴重かつ著名な重要文化財です。

 総門をくぐると、巨大な本堂を正面に、三重塔が右手に見えてきます。

 どちらもボリュームのある建物ですが、窮屈さを感じさせないくらい、開けた広い境内です。紅葉と青モミジが定番ですが、寒さの中、凛とした冬枯れの雰囲気も、またいいものです。

2 三重塔と椿

 三重塔周辺には、多くの椿がありました。まだ、蕾が固いものが多かったですが、いくつか早咲きのものも。

   少し色あせていますが、「吾妻絞り」と思われます。

 

(追記2023.4.1)

三重塔そばの手水舎には、優しい桃色の乙女椿、有楽椿が活けられていました。

3 庭園の有楽椿を見る

 本堂前の菩提樹です。葉が落ちていると、枝ぶりと幹の立派さがよくわかります。

 それにしても、実に堂々とした本堂です。この菩提樹も結構な巨木なのですが、そう見えないほどの、お堂の存在感があります。

 

 本堂で、拝観受付を行い、書院と2つの新しい庭園を見てきました。

 「涅槃の庭」は、1988年に作庭。中央の連石が、お釈迦様の涅槃の姿を表しています。写真の撮りようがうまくないためわかりづらいですが、借景の、大文字山比叡山などが、遠景での涅槃の姿を表すと、案内の方が仰っていました。

 この庭に、鎌倉時代の名燈籠があります。傍らに有楽椿が可憐な花を咲かせています。まだ、この燈籠と比べると役不足ですが、ポイントとなる場所での植木として抜擢されているので、年々、貫禄をつけて、燈籠とセットで語られる樹になってほしいと思います。

 

 「随縁の庭」の四つ目模様が斬新です。三井家の菩提寺らしい意匠ですね。

 

4 落ち葉の絨毯

 本堂裏手の庭には、モミジの落ち葉が一面に敷き詰められていました。枯葉といえど、紅葉の色合いがほんのりと残っています。まさに、絨毯ですね。

 庭の管理をする方も、洒落っ気をお見せになっています。西暦なのがモダンですね。

5 樹齢300年の椿の古木

 さて、今回の椿探訪のメインとなるものは、薬師堂と三井家の慰霊塔の間にある、この、古木・巨木でした。表示には、「散り椿」(仙椿)とあり、「現在の本堂が再建された300年前から在ったと推定される古木」と記されています。

 現本堂は、享保2年(1717年)に再建とありますので、まさに樹齢300年超えですね。年代を経た、威風堂々たる姿です。

 周囲に柵があるため、直接測ることができませんが、幹周は、150センチ以上あるのではないかと思われます。椿ならではの、古色蒼然たる幹は、歴史を感じさせます。割れや腐朽も特に見当たらず、四方に大きく枝を広げる、素晴らしい大木です。伝承が加わっていれば、著名な銘木になっていたのでしょうね。

 一輪だけ、咲いていました。

 「散り椿」といえば、五色八重散椿を連想させますが、この花を見る限りは、ちょっと違うかもしれません。ただ、藪椿とは異なるので、古来の園芸種だろうとは思います。また再訪して確認したいと思います。

(追記2023.4.1)

 

 

 境内には、ほかにも、大きな椿やサザンカが散在しています。

 新長谷寺にも、幹周70センチほどの椿がありました。先ほどの「散り椿」に次いで大きな椿です。

 

 

 定番、「五色八重散椿」です。

 広い境内には、特徴ある樹木も多くあります。

 本堂前南側にある「たてかわ桜」は、春日局が、父である、明智光秀重臣斎藤利三の菩提を弔うために植えたといわれています。樹皮に縦向きの皮目があるのが特徴です。本当に、松のようですね。伊勢湾台風で折れてしまった幹から、芽吹き、60年かけてここまで再生したということです。

(追記 2023.4.1)

 おいしそうで、体にもよさそうな実です。グミによく似ています。

 梅、桜、モミジをはじめ、椿はもちろん、多くの樹木・草木が植えられ、四季折々に楽しむことができます。

(追記2023.4.1)

 モミジの若葉が目にまぶしくなりました。

 今年も、桜のシーズンは終わりです。