城南宮の神苑で、秋咲きの椿を楽しむ

1 城南宮の歴史

  12月10日土曜日、快晴の心地よい日となり、久しぶりに城南宮まで足を運ぶことにしました。

      

 城南宮は、平安京に都が遷された際に、その南に国の安泰と都の守護を願って創建されたとされ、白河天皇上皇となって院政を開始してからは、その拠点として造営された鳥羽離宮の鎮守社として栄えました。

 鳥羽離宮は、14世紀頃まで院御所として使用され、約百八十町(180万平方メートル)という広大な敷地には、多くの御所と寺院が築かれ、それらの周囲には、池を中心とした大規模な庭園が造られたことが、発掘調査でも確認されています。

【参考】京都市埋蔵文化財研究所編「京都歴史散策マップ」14.鳥羽離宮跡コースhttps://www.kyoto-arc.or.jp/museum/map/14toba.pdf

 離宮の御殿は、熊野詣の精進所や方違(かたたがえ)の宿所にも充てられ、上皇や貴族は方位の災厄から無事であるよう祈願された歴史があり、今でも、城南宮は、方除(ほうよけ)の大社として、工事や引越の無事、旅行や道中の安全、交通安全などの御利益があると、広く信仰されています。

 私も、家のリフォームの時に、お参りと御札をいただいたことがありますね。

 また、城南宮は、承久3年(1221年)には、後鳥羽上皇が城南寺の流鏑馬ぞろいと称して諸国の兵を募り、北面・西面の武士を始め、畿内、在京の武士1700余騎が参じた、「承久の乱」の発端の地であるとともに、時は下って、慶応4年(1868年)には、「鳥羽・伏見の戦い」の始まりの地ともなるなど、歴史の転換点となる戦いの舞台としても知られています。

城南宮一帯は平安時代白河上皇が造営した鳥羽離宮の「馬場殿」で、馬上から矢を射る行事「流鏑馬」発祥の地とされています 。(「城南宮ホームページ」より)

 神苑の「平安の庭」において、毎年4月29日に行われる、風流な和歌の催しである「曲水の宴」は、マスコミに取り上げられる定番の年中行事の一つです。

鳥羽離宮跡配置図(2007.10.財団法人京都市埋蔵文化財研究所制作)

2 神苑で、秋咲きの椿を鑑賞

 城南宮にお参りした後は、神苑巡りをしましょう。

 「昭和の小堀遠州」と称された中根金作が作庭し、「春の山」、「平安の庭」、「室町の庭」、「桃山の庭」、更には城南離宮のたたずまいを表現した「城南離宮の庭」から構成され、各時代の日本庭園を楽しむことができます。苑内には源氏物語に登場するほとんどの植物が植栽されており、100種類もの四季折々の花を観賞できます。(「城南宮ホームページ」より引用) 

 「春の山」、「平安の庭」には、約50種300本の椿が植えられており、「古典椿の道」、「近代・現代椿の道」など7つの椿ゾーンに分けられています。

 そのうち、「秋咲き椿の道」の椿は、もう咲いているはずなので、楽しみにしながら神苑を歩きました。

3 「初嵐」   

 関西の古品種。早咲きの代表の一つですね。お茶の炉開きの時分に咲き、重宝される花としてよく登場します。

 神苑入口の近く、南側に沿って植えられています。

 幹周り20センチを超え、樹高も4〜5メートルはありそうなものが数本あり、神苑に植えられた時期がそれなりに古いと思われます。

4 「白侘助 

 何とも清らかで上品なたたずまいに魅了されます。ほんのり黄緑色の花底もよい色合いですね。ワビスケの系統で、花に香りがあるということですが、失念しておりまして、またの機会に試してみたいと思います。

 修学院離宮にある林丘寺の古木が有名ですが、今はコロナで拝観休止ということで、残念です。

5 「菊冬至

 京都府立植物園の3月恒例のツバキ展の時期には、いつも「菊冬至」は咲き終わりだったので、咲いているのを見るのは初めてです。

 花弁の重なりが、端正な千重咲の名品です。中心から外に向けて、紅に白が、柔らかく、優しく、混じり合っていく様子が優雅で、実に美しいですね。

 思ったよりも、中輪で、さほど花が大きくないことも、好ましいと思いました。

 名前のとおり、菊も終わり(閉じ)、冬至の頃に花を楽しめます。

 名前の由来としては、もう一つ、水干・水干袴や鎧直垂・鎧直垂袴などの縫い合わせ箇所につけられる、菊花状にほぐした房状の飾りである「菊綴」と似ているからという説があります。確かに、造花のような整った花なので、お稚児さんの白い水干に映える紅い「菊綴」を連想すると、しっくりきます。

6 「久寿玉(くすだま)」

 今回、一番、華やかで、存在感のあった椿です。

 大輪で、花色、形とも、花ごとに異なるところも楽しめます。写真の花は、気品あるまるでバラのような花姿が抜群に目立っており、見惚れてしまいました。

 この吹掛絞の絶妙な入り具合はどうでしょう。

 関西では、「弓場絞(ゆばしぼり)」ともいい、宝塚市弓場垣内で生まれ、地名にちなんで名づけられた品種とされています。

7 「東方朔(とうぼうさく)」

 早咲きの金沢の名花「西王母」から生まれた品種です。

 東方朔は、漢の武帝に仕えた人物で、西王母の育てる、三千年に一度しか実のならない桃を食べて長寿を得たという伝説が残っています。西王母つながりの命名なのかな。

8 「華園(はなぞの)」

 愛知県稲沢市にある椿専門の農園として有名な「椿園」さんの作出の品種です。「参平椿」の実生選抜種ということで、そう言われると、似ていますが、より華やかで、「桃地の紅絞り」が見事です。「参平椿」と同様、早咲きの性質ですね。

9 「月兎(つきうさぎ)」

 これも、「椿園」さんの一品。絵日傘(えひがさ)と羽衣(はごろも)の交配種ということですが、この親から、こんな花が生まれるんですね。どちらも、雄蕊の弁化がないだけに、驚きです。

 内側の波打つ花弁が、柔らかく、巻くように雄蕊を包み込んでいます。

 ふんわりとした、愛らしい、小ぶりな椿です。花びらを重ねたお皿に盛ったクリームの洋菓子のように感じます。

純白で抱えるように咲き始めるこの花は、秋の夜空に輝く月のように「まんまる」な形が魅力の椿です。
そして、この花の特筆するべき部分は花粉となる雄蕊の一部が花弁となり、月の模様を想像させるような花姿に見えることです。
今までの椿に存在しない開花特性と花形、10月中~下旬頃より安定して咲き始め12月に一度目の見頃となる開花期など、見どころ満載の新花として2016年に発売しました。
「絵日傘・えひがさ」を親として、江戸椿を代表する花「羽衣・はごろも」を交配した独創的な美しい椿をお楽しみください。
椿園作出オリジナル品種です。(2016年12月24日発表)「椿園オンラインショップ」より

10 「城南椿」

 「春の山」の苔むす丘には、自生の藪椿があり、「城南椿」と名付けられています。

 根が自然のままに四方に這い、この一角は、深山に入ったかのような雰囲気があります。

 2月下旬から3月上旬ころ、苔に落ちた紅い「落ち椿」と、隣接のしだれ梅とが、大層フォトジェニックな光景となるそうです。

 その時分に再訪する予定です。

 

11 「離宮椿」

 城南椿の最も古い木で、幹回り1.2メートル、斜めに傾ぎながら、高さ10メートルまで伸びる、樹齢300年といわれる、この神苑の顔でもある巨木です。

 鳥羽離宮は、南北朝の動乱以降は、荒廃していきましたが、城南宮が、地元の社として、引き続き崇敬されてきたのと同様、この椿も、大事にされてきたのかもしれません。

12 名残の紅葉を味わう

 室町・桃山の庭には、立派、かつ、手入れの行き届いた松に感嘆しました。

 

 12月も半ばでしたが、まだ、紅葉の美しさが残っていました。

 山柿が、晩秋の里山鄙びたいい味を出しています。もうじき、冬ですね。

 

 

 

師走の妙蓮寺に、妙蓮寺椿を見る

1 妙蓮寺再訪。妙蓮寺椿が咲いています。

 12月3日(土)、京は、今年一番の冷え込みでしたが、空は晴れ渡り、気持ちの良い日和となりました。

 妙蓮寺では、3日と4日に、寺宝の虫干し展を行っていると知り、丁度、妙蓮寺椿の開花も見られるだろうということで、8月以来の再訪をする事にしました。

www.kyogurashi-neko.com

 山門を進むと、予想通り、紅く、風雅な花が咲いているのが見え、顔がほころびました。当たり前ですが、やはり、花があってこその椿の魅力で、ようやく、このブログでも、花をお伝えできるシーズンになってきました。

2 中庭に美しく咲く妙蓮寺椿

 椿宿坊と奥書院との間の中庭に、より大きな妙蓮寺椿が植えられているので、さっそく、寺務所へと入っていきましょう。

 拝観受付を済ませて、座敷に上がり、御朱印をいただくところに、妙蓮寺椿が活けてありました。茶道の花としても重用される椿。

 妙蓮寺椿は、中大輪で、上品な、桃色を帯びた紅色の花びら、円くお椀のように美しく開いた雄蕊、淡緑色の雌蕊が絶妙に調和していて、活け花としても、気品がありますね。

 咲き始めは、花弁の先が波打つような抱え咲きですが、時間がたつと、このように盃状に平開します。さすが、選び抜かれ、洗練を重ねて、作出された名花だと思います。

 宿坊と奥書院の間にある中庭の妙蓮寺椿は、入口のものよりも、一回り、大きな花を咲かせ、より華やかさと迫力があり、見応えがあります。

 宿坊側の「窓」から間近に見るのが一番です。

 見飽きないですね。できることなら、我が家にも植えたくなりました。花が映えるだけの、庭のしつらえと、ふさわしい建物あってのものではありますけれど。

3 「十六羅漢石庭」と現代ガラスアート

 奥書院の前には、「十六羅漢石庭」が広がります。

 真ん中、一番奥にある石が、お釈迦様の涅槃像を表していますが、豊臣秀吉伏見城から運んだものと伝えられ、牛が伏せている姿に似ているため、「臥牛石」と名付けられた名石です。

 「臥牛石」をお釈迦様とすると、それ以外の石を数えると15となります。

 案内の方から、16番目の羅漢は、この庭園を見ている貴方自身との意味との説明をお聞きしました。なるほど。

 もともとの作庭は、本寺の玉淵房日首という僧で、桂離宮の造営にも関わり、小堀遠州の流れを汲んでいたということです。日蓮宗のお寺に枯山水庭園が少ないのは、日蓮が、自然のままの姿を好んだかららしいのですが、妙蓮寺に珍しくも枯山水があるのは、この玉淵房がおられたからだと、案内の方からお聞きしました。

 ガラス工芸の作品とのコラボ企画が行われており、表書院の縁側には、不思議な物体が三体(隊?)展示されていました。白砂を海原に見立て、潜水艦をイメージしたとのことですが、「臥牛石」とも、意外にマッチングしていると面白く感じました。

 表書院の扁額の下部に、何ともいい造形のガラス工芸が展示されています。

 額のそれぞれの字から滴る墨をイメージしたものらしいですが、心地よいくねり具合と質感、花と蔓の添え具合が、雅な雰囲気を感じさせ、印象的でしたね。

4 虫干し展に、狩野派のビッグネームを見る

 本堂では、虫干し展が行われ、古い掛け軸がずらりと掲げられていました。

 大半が、狩野派の絵師によるもので、狩野元信、永徳、探幽などのビッグネーム、さらには牧谿までありました。

 何でこのように狩野派の作品が多いのか、案内の方にお聞きすると、もともと狩野派の絵師には日蓮宗が多く、また、妙蓮寺界隈に居住していたらしいとのこと。そんな縁で、狩野派のものが、いろいろなルートで寺に集まってきたそうです。

 京都のお寺には、このような美術品が山ほどありますが、誰の作品かを判定するには、時間と手間が膨大にかかるため、なかなか進まないらしく、ビッグネームとして伝えられている作品も、「何でも鑑定団」ではないですが、真贋が定かでないものもあるようです。

 でも、元信作「鷲之図」の脚の生々しささえ感じる質感や、探幽作品の衣服の線の流麗さなどは、思わず見入ってしまう魅力がありました。

 いつか、真作として再発見されたら、見る目があったと自慢できそうですね。

5 「御会式桜」その他妙蓮寺の見どころ

 寺務所の拝観受付のすぐそばの太い柱に、刀痕が刻まれています。

 「蛤御門の変」時に、妙蓮寺に長州藩士が匿われているのではないかと疑った薩摩藩士によるものと、薩長連合が成立したときに怒り狂った新選組隊士によるものと伝えられています。近藤勇土方歳三沖田総司が残した痕とも言われているらしいですが…。

 塔頭玉龍院」前の大手水鉢。もともと、妙蓮寺椿の原木は、「玉龍院」にありました(昭和37年焼失)。今も「玉龍院」周辺には、多くの椿が植えられています。

 秋から咲き始める珍しい「御会式桜」が、すでに、ぽつぽつと花咲いていました。本当に秋から咲き始めるのですね。

 

(追記)「御会式桜」が花盛りです。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

隨心院の本尊「如意輪観世音菩薩」に感動し、塔頭に大椿を見る。

1 雨上がり、紅葉終盤の隨心院を訪れる

 隨心院は、車で行くなら、京都東ICから、府道35号線(大津淀線)を南下して約10分、公共交通機関利用なら、 地下鉄東西線「小野」駅の西方に徒歩約5分、500メートルほどに位置する、山科・醍醐の名刹であり、小野小町ゆかりの寺院としても有名です。

 寛喜元年(1229年)、後堀河天皇による門跡の宣旨以来、隨心院門跡、小野門跡と称されています。

 11月末日、前夜の大雨から一夜明け、やや足元の悪い中でしたが、少し足を伸ばして、参詣してまいりました。

 雨で紅葉もだいぶ落ちているだろうし、平日ということもあり、静かにゆっくりと拝観できるだろうという予測通り、よい時間を過ごすことができました。

薬医門です。定規筋がしっかり五本です。

  サザンカ垣が、開花し始めています。紅葉は見ごろは過ぎましたが。

2 小野小町ゆかりのお寺

 「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに」— 『古今集

 小倉百人一首でも、ポピュラー度はぐんと上位に来るだろう定番の一首です。

 このあたり一帯の地域「小野」は、古く小野氏の栄えたところであり、小野一族は、小野篁小野道風小野好古などを輩出しています。小野小町小野道風の従妹とされていますが、さて。

 小野小町ゆかりの地として、「小町文塚」、「小町堂」、「化粧の井戸」、「小野小町文張地蔵尊」、「卒塔婆小町坐像」などなど、見どころは豊富です。

雨の翌日なので、井戸の水が濁っていますが、普段は透明のようです。

3 「奥書院」から見る庭園に椿もありました

 拝観受付のある「庫裏」です。宝暦3年(1753年)に、二条家より移築。

 ここに拝観受付があり、順路に沿って、進みます。

 「奥書院」からの庭園の景色です。塀の外側にも、背景に社叢林が広がっており、庭園と一体となって、高さと奥行きのボリューム感を出しています。

 美しいもみじと石塔の間に、2本の椿が植えられています。また、写真には写っていませんが、庭園の右手、工事中の本堂そばには、相当な大きさのサザンカと思われる樹があり、桃色の花を咲かせていました。

 多種多様な樹木・草木が植樹されており、四季折々に楽しめることと思います。庭に下りることはできませんが、ゆっくりと散策できたら最高でしょうね。

 「小町堂」です。紅葉がだいぶ落ちていますが、それもよい雰囲気を出しています。

 「奥書院」の横手側の庭にも、しっかりと椿がありました。門跡寺院には、ほぼ、椿がありますね。あまり目立たないけれど、ところどころ、静かながらも、しっかりと居場所を占めているという感じです。どんな花を咲かせるのか、この雰囲気にどうフィットするのか、また、再訪したいと思っています。

 

4 本尊「如意輪観世音菩薩坐像」の特別開帳に間に合いました

 隨心院の本尊は、「如意輪観世音菩薩坐像です。

【法 量】像高(髻頂より)96.3㎝
 真言宗小野流の中心寺院である随心院の本尊像。檜材の寄木造、漆箔仕上で玉眼を嵌入する。目尻が吊上がり口許を引締めて意志的な表情を浮かべる面貌、のびやかな手足を均衡よく配した全体観、適度に整斉された衣文などに運慶次世代の作風をよく示す。快慶作金剛薩埵像(重要文化財)とともに建保5年(1217)に始まる親厳による同寺修造における造像とみられる。
京都の名刹の本尊として伝わる慶派彫刻の優品であり、当初の表面仕上の過半をとどめる保存良好さも賞される。~令和2年3月19日文化審議会答申資料より~

 漆箔の剥離、部材のゆるみや腐食、虫食いなど痛みが相当進んでいたため、令和3年4月から1年をかけて、京都国立博物館で修理を行ったとのこと。修復担当者によると「20年以上の仕事の中で5指に入る難しさだった」ということですが、見事に修復され、当初の姿を見せてくれています。

 現在、本堂が工事中のため、表書院に、この如意輪観世音菩薩坐像と、快慶作の金剛薩埵坐像の2体の重要文化財が安置されていました。両体とも、細身で均整が取れ、凛と引き締まったお姿で、写実的リアル感がありながらも、優美、荘厳さも併せ持つ魅力は格別のものです。「慶派」の好きな方には、必見のものだと思います。

 隨心院の伽藍は、承久・応仁の乱で、灰燼と化しましたが、これらの仏像は、戦乱、混乱から免れ、800年にわたり大切に守られてきたということですね。

 寺宝の下調べをしていなかったのですが、この仏像を見ることができたのは、うれしいサプライズでした。如意輪観世音菩薩坐像の今回の御開帳は、11月30日までだったので、まさに、ラストの日に訪れたことになります。

 

5 塔頭「大乗院」の大椿に感動する

 椿好きの私にとってのサプライズは、隣接する塔頭「大乗院」に大椿を見ることができたことです。

 隨心院駐車場から拝観入口に向かう道筋にありますが、よく手入れされ、大きな円筒状に刈りこまれた姿が大変きれいです。

 これだけの大きさで、こんもりとした樹形におさまるということは、樹に勢いがあり、葉量も豊富だということがわかります。

 間近で見ると、堂々とした幹と、八方にくねりながら広がる枝が圧巻です。幹周は1メートル近くあるのではないでしょうか。

 2輪だけ咲いていましたが、身厚の藪椿のようでした。蕾もたくさん付いているので、満開時期には、紅に彩られて、壮観だと思います。

 

 参拝客も少なく、ゆっくりとお参りすることができました。やや、市内から距離があるからかもしれませんが、混雑がなく、自分のペースで自由に拝観できる、見るべきものには事欠かない、お勧めの寺院だとあらためて思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金福寺の紅葉とサザンカを見る

1 紅葉の散り積もる金福寺

 紅葉シーズンも終盤。11月27日の土曜日に、左京区一条寺、詩仙堂の近くにある、隠れた紅葉の名所である金福寺(こんぷくじ)に行ってきました。

 白川通北大路から少し北上し、一条寺下り松町バス停留所の南側の道路を西へと、山手に向けて、クランクのような狭い道を折れ曲がりながら進むと、何とか門前に到着できます。

 私は、もう一つ南側の道から回っていったので、車一台やっとの隘路を恐る恐る進む羽目になりました。この寺は、車ではなく、歩いて訪れるべきところですね。

 寺の門前に立つと、石段と山門の屋根に、紅葉が散り積もり、晩秋の風情を感じさせています。大寺院の堂々とした存在感とは異なり、山寺のやや鄙びた閑静さもよいものです。

2 庭園へと誘う藪椿

 山門から入り、左手に椿垣を見ながら進むと、拝観受付があります。受付を済ませ、庭園に続く門の手前左側に、なかなかの大きさの藪椿がありました。

 花色は赤とのこと。背が高くなり過ぎたのか、上部でかなり刈りこまれているので、蕾の付きは今一つのようです。門前の右側は、紅葉が美しく、誰もがそちらに注目すると思いますが、この椿は地味ながら、静かに、庭へと誘ってくれています。

 この「芭蕉庵」と記された門をくぐると、私としては、一番、紅葉が美しいと思うシーンに出会いました。ドウダンツツジと合わせての紅一色の景色ですが、こうしてみると、違和感なく、溶け合っているのが面白いですね。

3 満開のサザンカ

 本堂前の枯山水庭園から山手に、紅いもちじの合間に、白く咲いているのが、「サザンカ」で、ちょうど花盛りとなっていました。

 根元から二股に岐れ、それぞれ、幹径20センチ余りあり、大木とまでは言えませんが、この時期、紅葉の中、アクセントとなる魅力を発揮していると思います。

 

4 「芭蕉庵」と西王母椿

 「芭蕉庵」は、その名の通り、かつて、この寺で、京を訪れた芭蕉が、住職である鐵舟和尚と親交を深め、その後、和尚が芭蕉を偲んで、その草庵を「芭蕉庵」と名付けたものと伝わっています。

 時が過ぎ、草庵の荒れ果てた様を見た蕪村が、それを惜しみ、各所に奔走しつつ、再興を果たしたとされ、その折に、「洛東芭蕉庵再興記」をしたため、寺に奉納したものが現存しているということです。

 「ほととぎす待卯月のはじめ、をじかなく長月のすゑ、かならず此寺に會して、翁の高風を仰ぐこととはなりぬ。」

 蕪村は、この寺において、俳句結社「写経社」の句会を開き、ここが俳壇というか、サロン化していたようです。芭蕉、蕪村の両巨頭に深い縁のあるこの寺は、俳句の愛好家の方々には、「聖地」となるのも肯けますね。

 「西王母」は秋咲ですが、まだ、蕾固しの状態でした。上品な桃色の花が咲けば、茅葺の庵とよくマッチすることでしょう。

 

 樹齢300年と言われるヤマモモ。迫力があります。麓の方に大きく傾いでいるため、つっかえ棒で支えられています。

 この再興記は、最後に、「天明辛丑五月下八日  平安 夜半亭主蕪村慎識」と〆られています。

 私は書の嗜みはありませんが、柔らかく、飄々とした筆致は親しみやすく、蕪村の画の雰囲気とも共通するものを感じますね。

 天明辛丑は、元年、1781年のことです。安永5年は、1776年ですので、再興記は、落成5年後に記されたものですね。

5 村山たか女が尼僧として過ごした寺

 また、金福寺は、舟橋聖一の「花の生涯」のヒロインである村山たか女が、尼僧として晩年の14年間を過ごした寺です。

 「花の生涯」は、NHK大河ドラマの第一作として有名ですね。

 たか女は、井伊直弼のかつての愛人として、京の攘夷論者たちの動向を探る幕府の隠密活動をしていたということで、桜田門外の変の後、三条河原で三日間,生晒にされ、何とか命ばかりは助けられたという、数奇な運命をたどった女性です。

 司馬遼太郎の短編「人斬り以蔵」に、弾圧を行った幕府関係者に対する凄惨な復讐を行う様子が描かれていることを思い出しました。

 たか女が一心に祈りを捧げていた弁財天像ですが、安置されている弁天堂が、現在修復中なので、本堂に仮に移されているため、間近で見ることができました。ふっくらとした優しいお顔の弁天さまで、哀しい境遇のたか女の心の拠り所となったのだろうなと思うと、感慨も一入でした。

 

 山門のそばの広壮な民家の門前に、見事な椿がありました。京都の散策の楽しみの一つは、民家の庭先にも、時折、このような椿を見つけることができることがありますね。



 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知られざる椿の巨樹

 京の名椿として高名だけど、寺院が非公開なので、なかなかお目にかかれないものが沢山あります。

 また、喧伝されることを好まれず、地元でしか存在が知られない椿も数あるものと思います。

 この8月の終わりに、とあるお寺を訪ねたところ、思いがけずも椿の巨樹を見ることができました。

 風格ある素晴らしい椿なので、写真で紹介したいのはやまやまですが、住職の思いとして、寺名や境内の写真をSNSなどで公開されることをお断りされています。「ご自身の想い出として、心の中で風景を楽しんでいただけることを願って」おられるとのことです。

 なので、場所の特定も、ヴィジュアルでの紹介もないため、イメージが浮かびづらいと思いますが、ご了承のほどを。

 このお寺は、車は入ることのできない、狭い坂道の参道の先、集落から奥まった小高い場所にあります。こじんまりとして、いかにも地元のお寺らしく、自然とその地になじんでいるという印象です。

 参道の入口を示す石標も、このお寺を目指すのでなければ、見過ごしてしまうほどさりげなく、何度となく通ったのに、これまで全く気づきませんでした。

 訪れた日は、残暑厳しく、また昼下がりだったこともあり、私のほかにお寺を訪れる人の姿もなく、蟬の声だけが響いていました。

 山門に向かうと、参道右手に続く白壁の塀の上空高く伸びている大きな椿の樹が目に入ります。見上げると、太い枝がうねりながら、広く枝分かれして、空を覆っています。

 椿の大木があることを知らないと、椿はこんなに大きくはならないという先入観で、案外スルーしてしまうかもしれません。花色は、濃い桃色で、内側はやや白っぽいとのこと。まさに知る人ぞ知るという椿で、この花を楽しみに毎年来られる方もおられるようです。

 この椿は、カシノキの巨木のすぐそばに立っています。住職は、このカシノキが、椿を日照りや風から守ってくれているとおっしゃっていました。

 そう聞きますと、カシノキが大きな椿を今なお優しく抱き抱えているかのように見えてきます。この椿は、囲いで隔てられていることもないので、椿特有の肌理細かく、ずっしりとした緻密な質感を、直に触れて体感することができるのはありがたいですね。

 根元の幹周を測ってみますと、130センチ弱あり、樹齢は300年近くはあるのではないかと思います。この里の人々が、代を重ねながら、親しんできたのだろうと思うと、感慨深いものがあります。

 背の高さ付近から、二股に岐れ、主幹はさらに二股の枝に分岐し、空高く伸びています。最初の分岐の枝幹が、主幹の分岐枝と同じように伸びているので、全体としては、3つの太い枝で構成される形です。この、最初の分岐の枝幹が太く勢いがあるのが特徴的で、連理ではないのですが、この椿の樹量を増し、迫力を倍加させていると思います。

 住職は、飛び込みの私にも、大変丁寧に案内いただきました。

 境内には、この大椿だけでなく、主幹は枯れているが、かつての巨木の名残を見せているものや、幹周60から80センチになる大きなものも何本も見られました。

 このようなお寺にも、椿は人知れず息づいており、その時代時代を通じて椿を愛でる人は多かったのだろうなとあらためて実感します。

 また、枝張りが、境内の半分余りを占めようかという、枝垂れ桜の巨木がありました。
 これも相当の樹齢と見受けられましたが、かなり幹の腐食が進んでいるようです。

 住職が子供の頃から急に枝が伸長したとのお話で、晩年最後の力を振り絞っているのかもしれません。

 あらためて、開花時期に訪れ、このお寺の桜と椿の偉容を、住職が言われるように、記憶に留めておきたいと思います。

実相院の床もみじ。そして石座神社に椿の巨木を見る。

1 岩倉の名刹・実相院門跡

 実相院は、左京区・岩倉の北部にあります。

 白川通を北上し、花園橋を直進(右折すると八瀬・大原方面です。)、岩倉街道(府道105号・岩倉山端線)を道なりに進み、最後に左に折れて、岩倉川を越えていくと、突き当りに山門(四脚門)が見えてきます。

 実相院は天台宗の単立寺院で、本尊は不動明王※です。

※客殿で拝観できます。左腰を捻り、右足を前に出すポーズは稀と説明書きにありました。1メートルに満たないほどの、不動明王さまです。

 鎌倉時代前期の寛喜元年(1229年)、関白近衛基通の曾孫の静基(じょうき)僧正により開山され、摂家の出身であることによって、門跡寺院となったとのことです。

 もともと、油小路今出川にあった※のですが、応仁の乱の兵火に遭い、当地に移り、その後衰微に至っていたところ、足利義昭の孫となる義尊の入寺以降、寺運が開け、享保5年(1720年)頃には、十六町五反五畝四歩の寺領を有すると記録されています。16.5ヘクタール超という広大さですね。

 (※今も、同地には、実相院町という名称が残っています。白峯神宮の北側です。)

 明治維新時に、寺域の多くを、病院用地として提供し、今に至るということです。

2 有名な「床もみじ」を鑑賞

 11月20日、10時前に到着。紅葉シーズンなので駐車できるかなと思いましたが、何とか、山門前の駐車スペースに停めることができました。

 観光バス仕立ての観光客が、コロナで従前のようには戻っていないので、この時期でも、さほどの混雑なく、拝観できるのは、ありがたい面もあります。

 受付を済ませて、客殿に入り、順路を進むと、山水庭園が眼前に広がります。

 奥には、樹々がこんもりと茂る小高い丘がそびえており、この庭園と一体となって、遠近と高低のある奥行きを感じるつくりとなっています。

 しばし、庭園をほっこりと鑑賞した後、客殿に戻ると、有名な「床もみじ」を見ることができる、「滝の間」に出てきます。

 紅葉のもちじが、黒光りする床に反射する様は、撮影禁止のためお伝え出来ませんが、日光に照らされた鮮やかな赤と黄色、まだ紅葉を迎えていない緑とが、微妙に混じり合いながら、床に映し出され、幻想的な雰囲気も漂い、名スポットとなるのもなるほどと思います。

この開口部分が、「滝の間」です。黒漆でコーティングされ、紅葉を写し込んでいます。

3 流石に紅葉の名所です。

 「滝の間」から、回廊に出ると、最も紅葉が美しい光景が見られました。

 西側には、市民参加型のワークショップなどを開催しながら、2014年秋に完成した「こころのお庭」があります。

 ということで、門跡ならば、多くの椿があるのではという、あては外れましたが、およそ30年ぶりに訪れることができ、紅葉を楽しむことができました。

客殿前にあった椿です。折角ですので掲載します。

4 石座神社に椿の巨木を見る。

 さて、実相院拝観後、近くに、鳥居が見えましたので、少し寄っていくこととしました。

 ここは、石座(いわくら)神社で、10月に催される、岩倉の火祭りで有名なところです。天禄2年(971年)、円融天皇が、大雲寺の造営に伴い、その鎮守社として、創立されたとされています。

 この宮座の東西に、椿の巨木がありました。

 とりわけ、写真左側、東側の椿は、幹径130センチもの巨木で、斜めに傾いて伸びる独特の形状です。一輪、紅い花が咲いていました。西側の椿も幹径100センチを超えており、東側の椿と比べれば、やや貫禄落ちはするものの、立派なものです。

(2023.5.3追記)

 シーズン中に行く機会を逸してしまい、ゴールデンウィークに立ち寄りました。

 巨木は咲き終わりでしたが、意外なことに、西側の木は、まだ、かなりの花をつけていました。遅咲きのようです。藪椿ではなく、園芸種のようですね。

 正面から見ると、拝殿の両側、狛犬の後方に、両木が並び立つという構図で、シンボルツリーという感じです。西側の椿が白だったら、より見ごたえあるコントラストになるでしょうね。

椿のこの年月を感じさせる風合いは、迫力があり、最高です。

 神社一帯に椿が散在しており、開花し始めているものもありました。

 ふらっと立ち寄ったところで、こんな巨木に巡り合い、驚きましたが、地元以外にはあまり知られていないのではないでしょうか。樹勢が弱っているようには見えず、シーズンには、一面の赤で彩られると想像できます。また、その機会に、お伝えしたいと思います。

藪椿かな。右側の椿は、小ぶりで、清楚な感じが魅力的ですね。




曼殊院で、早咲きの椿と紅葉を見る

1 モミジが色づく曼殊院

 曼殊院は、洛北・一乗寺、北西に比叡山を臨む山裾にある門跡寺院です。

 曼殊院へは、白川通を北上し、北大路を越えて、一乗寺清水町バス停北の交差点を右に入り、「曼殊院道」を東へと進んでいきます。

 この道沿いには、分岐点などポイントに、矢印の案内表示が出ているため、迷うということはありませんが、かなり狭いので、対向車、来てくれるなよと願いつつ、先へ急ぎます。

 しばらく道なりに進むと、突き当りにがらりと視界が開け、石段とその上に高く構えた門構え、その左右に、大きなモミジの樹々の土手が長く続く寺院が現れます。

勅使門です。こちらからは入れません。

 曼殊院は、平安時代延暦年間に伝教大師最澄比叡山上に創立したのに始まり、幾度か場所を移しながら、江戸時代の明暦2年(1656年)に現在の地に移転しました。

 移転時の門主は、良尚法親王で、造営に苦心されたと伝えられています。

 親王は、かの桂離宮を造営した桂宮智仁親王の次男であり、父から受け継いだ、学問文芸の素養の高さと、造園の才を発揮されたとされており、その当時の姿が今も残る貴重な文化遺産でもあります。

2 早咲きの椿と紅葉とのマッチング

 11月12日、土曜日、紅葉には少し早めでしたが、人出を考慮して、朝9時過ぎに到着。さすがに、駐車場はまだ数台しか停められていませんでした。

 駐車場脇に、何本か並んで植えられている椿が既に開花していました。桃色の可愛らしいもので、紅葉とのマッチングは秋咲きならではの取り合わせです。

 

 

 北側の通用門向かいに、雑木林があり、それなりの大きさの椿が林立しています。藪椿と思われますが、開花時には、モミジも葉を落としている中で、常緑の葉と鮮烈な花色が際立つ景色を見ることができそうな感じがしました。

撮影は、庭園のみで、室内は🚫となっています。
「竈媚」とは、論語からの引用。俗に説明すると、飯を食わせてくれる竈を奉る方が、奥の間で徳を高める努力をするよりも、実際のところ大事ではないかという問いに、孔子が、それは間違いだとおっしゃったとのこと(ネットで漁ったところからの私の受け取った解釈です。間違えてたら、すいません。)庫裏や台所が立派な曼殊院ならではの、諧謔も感じて面白いですが。                                   
庫裏右手の椿垣。いや、サザンカ垣かな。

曼殊院ホームページより

3 庭園の椿

 庫裏から、大玄関を通り、上乃台所へと進みます。

 この台所は、縦横15メートル以上もある立派なもので、当時としては、最新鋭のシステムキッチンだったのでしょう。当時の献立も紹介されています。ちなみに、「さかな」とあり、どんな種類の魚をどう料理しているのかなと見ましたが、まさに「肴」でした。精進料理で、魚の類はありませんでしたね。

坪庭にも手がかけられています。縁側の柱の周りの波紋が写実的でいいですね。

 小書院に向かう北側に、庭園があり、少し遠目でしたが、大きな椿があり、桃色の花を咲かせていました。それぞれ径20~30センチくらいの三本の幹の株立ちで、樹高は5メートル以上と思われます。

 この椿の後ろに、椿垣があり、同じ花が咲いていたので、同種で揃えているようです。庭の背景は、山の斜面の林となっています。

椿の幹の古色が、燈籠とよくマッチしています。                   

 この椿は、先ほど、駐車場脇で見たものと同一のものでしょうか。有楽のような気もするのですが。
 
 茶室、小書院、大書院の東と南側に、メインとなる庭園が広がっています。

亀島です。                   
(左)左端に、梟の彫刻が施された手水鉢が見えます。                  
(右)鶴島の樹齢400年の、鶴を表象した五葉松。根元にキリシタン燈籠が見えます。   

(追記 2023.4.2)

 桜と、紫色が映える「ミツバツツジ」です。

 枯山水庭園ではありますが、樹木が豊富に配されています。

 パンフレットには、「禅的なものと王朝風のものとが結合して、日本的に展開した庭園として定評がある」と記載されています。私のように、植栽と建物のマッチングが好きな者にとっては、枯山水は、ちと高尚過ぎますので、この庭園は、どちらを好む人にとっても、楽しめるのではないかと思います。

 小書院から大書院へと、直角に折れ曲がる回廊を巡りながら、庭園を見ることになります。したがって、自ずと、視線の向きが変わるということになり、当然それを意識して、庭の配置が計算されているのでしょう。何か絵巻物を見ているような印象がありました。

4 茶室横に立つ散り椿

 八窓軒茶室側の庭園に、一本の椿が静かに立っています。

 これは、散り椿で、曼殊院のホームページでは、白花を主に、枝替わりの紅花が映える、美しいものです。

 茶室からは、東側にこの散り椿、西側には、先ほどの桃色の椿と、客を迎える樹として、椿を主役に置いているのではないでしょうか。

(追記 2023.4.2)

 「五色八重散椿」ですね。寺の御配慮か、茶室近くまで廊下を進むことができ、椿を近くで見ることができました。静かに咲き、はらはらと花びらが舞い落ちる・・・。

 誰もいない書院に一人、贅沢な時間を味わいました。

 心なしか、葉の付き方が少なく、樹勢が心配です。

5 新しい宸殿と「盲亀浮木之庭」

まさに新築の「宸殿」が見えます。檜の香りに満ちていました。

 これは、150年ぶりに復興再建が叶った宸殿です。宸殿とは歴代天皇・皇室関係者の位牌をまつる門跡寺院では中心となる施設ということです。

 その前には、「盲亀浮木之庭」と名付けられる庭が広がります。

尚宸殿前庭は「盲亀浮木之庭」といい、大海に住む目の見えない亀が、100年に一度息継ぎのために頭を出し、そこへ風のままに流されて来た節穴のある木片の穴に偶然頭がすっぽりはまる。それほど仏教に巡り合うこと、また人間に生まれることは難しいということを表しています。
向かって左の木片を表す岩は天然記念物の木船岩です。(曼殊院ホームページより)

 

 曼殊院周辺の樹々も、色づいているものもあり、秋の陽光に照らされ、よい風情を醸しだしていました。


 混雑もなく、ゆったりと拝観させていただきました。

 また、椿咲く、春の曼殊院を紹介したいと思います。

(追記 2023.4.2)

 4月になると、モミジの新芽が一斉に伸びてきます。新緑の季節はもうすぐですね。

 隣接の曼殊院天満宮では、ミツバツツジが満開でした。桜と見まごうような美しさです。