大徳寺・黄梅院の庭園に「擬雪」椿を見る

1 大徳寺 令和4年秋の特別公開

 大徳寺は、京都市北区紫野にある、臨済宗大徳寺派大本山です。

 これまた、応仁の乱で荒廃しましたが、一休和尚が再興に尽力し、豊臣秀吉織田信長の菩提を弔うために総見院を建てて以来、戦国武将の建立による塔頭が立ち並ぶこととなり、その数は、今も24に及びます。

寺域の西にある紫野高校と比べると、大徳寺の広大さがわかります。

 常時公開の塔頭もあるのですが、特別公開でしか見られないものもあります。

 11月3日、秋晴れの、よい日和に、この秋の特別公開をのぞいてきました。

2 黄梅院を拝観

 この中で、本日は、「黄梅院」を訪れることとしました。

 当院は、永禄五年(1562年)、信長28歳!のとき、初めて入洛した際、父・信秀の追善菩提のために、秀吉に普請を命じて建立させた庵である「黄梅庵」を始まりとするものだそうです。

 本能寺の変後、秀吉は、「黄梅庵」を信長の塔所としましたが、これでは小さいとして、別途「総見院」を建立して、そちらで信長の菩提を弔うこととし、「黄梅庵」は、秀吉、そして、小早川隆景による改築を重ねて、1589年に落慶、「黄梅院」と改めたと伝えられています。

 

 大徳寺総門を入り、しばし進み、南門に向かう、松の並木が続く道に折れると、「黄梅院」が見えてきます。ひときわ立派な赤松が、表門の傍らに立っています。

 

 表門を入ると、一気に幽玄の別世界。

 昨日、雨が降ったこともあり、苔がみずみずしく、より緑鮮やかに感じました。まだ樹々も緑で、紅葉には早いですね。

 「鐘楼」の鐘は、加藤清正によって寄進されたもので、柱には、獅子頭の彫刻が施されています。

 撮影は、料金所のところまで。

 手前の一角にも、椿が植えられているのを見て、期待が高まります。

 黄梅院の配置は、下記のよう。

3 黄梅院の名庭に椿を探す

 まずは、西側の庭園「直中庭(じきちゅうてい)」を、南側、西側の回廊を伝いながら眺め、書院「自休軒」の南側の縁側に座って、ゆっくりと見ることができました。ガイドの方も、観光客がまだ少ない今の時期は、静かに、ゆったり鑑賞することができますよと仰っていました。

 利休66歳のときに作庭したものと伝えられ、秀吉の希望らしく、軍旗瓢箪をかたどった池を配しています。池の左側には、これまた、加藤清正が持ち帰ったらしい朝鮮灯篭が置かれています。高さ5~60センチほどの小ぶりなものです。その灯篭の左に、紅地に白の斑入りの小さなサザンカが数輪開花していました。

 南側、西側の回廊を進む際、巨木・古木ではありませんが、数多くの椿が植えられているのを見ました。庭の真ん中に茶室が設けられており、そこに行く客の目を楽しませる意図かもしれません。開花していないため、種類がわかりませんが、園芸品種が多くあるのだと思います。この苔むした、格式高そうな庭に、どのような椿が咲き、庭に調和するのか、春の特別拝観を楽しみにしています。

4 光格天皇御手植えの椿「擬雪」

 書院から本堂に入ると、南側前庭に、「破頭庭(はとうてい)」が広がります。庭の大半が、白川砂で占められ、他の庭から、流れ入る水をたたえるかのように、波紋が表現されています。塀際の空間には、観音・勢至の二石と、左手に沙羅、そして、右側には、光格天皇(第119代(1780年~1817年)御手植えと伝えられる椿「擬雪(ぎせつ)」があります。

 ガイドさんによると、残念ながら、光格天皇ゆかりの椿はすでに絶えていましたが、この「擬雪」二代目としてふさわしいものが、10年ほど前に見つかり、植えられたとのことで、パンフレットによっては、まだ、この椿が載っていないものもあるとのことでした。

 まだ幹も太くない若木ですが、時を重ね、立派に役目を果たしていくものと思います。

 早咲きですが、秋の特別拝観期間中には咲くか咲かずかという感じで、春の特別拝観期間では遅くて見られないとのことです。残念。

 「擬雪」は、下鴨神社のものが有名(これも別のところから移植されたようですが)で、その案内看板には「花は中輪で、半八重咲き、花色の白さは別格で、雪にもまがうさまで「擬雪」と名付けられた」とされています。

 ※ ところで、渡辺武先生の著書「京の名椿」では、「光格天皇御下賜之椿」とは、「酒中花」とされており、見解が異なるようです。

 「破頭庭」の左側(方角としては東側)にあるのは「唐門」で、天皇、貴人が来臨の際に使われたものとのことで、当然、我々が入れる門ではありません。華美とは無縁で、檜皮葺の落ち着いた趣のあるもので、庭園の雰囲気ともよくマッチしています。

5 黄梅院の見どころ そのほか

 本堂北側には、「作仏庭(さぶつてい)」が東西に、横長に広がります。

 北東に大きな立石が立ち、これを滝と見立て、水の流れが南と西に岐れていきます。

 この南へ流れる水は、本堂と庫裏の間にある坪庭「閑坐庭」を通り、「破頭庭」 -へと注ぐという見立てとなります。この「閑坐庭」には、船の舳先を表す石と、島を示す石の二石のみが白川砂の中に配置され、本堂と庫裏を結ぶ渡り廊下から見ると、ちょうど船に乗って、南へと向かう疑似体験をできるという作りとなっています。

 帰路、書院「自休軒」に組み込まれた茶室「昨夢軒」を見学しました。

 伝・武野紹鴎作の貴人床ということで、茶道に全く嗜みのない私は、ただ見るばかりでしたが、千利休武野紹鴎今井宗久というビッグネームがふんだんに出てくるのは、流石ですね。

 茶道と椿の縁は深いので、椿が多く植えられているのは、大徳寺ならではなのだと思います。

 

 「黄梅院」だけで、すっかり堪能して、他の特別拝観はまたの機会にすることにしましたが、折角なので、少しぶらつき、「大慈院」まで足を延ばしてみました。

道すがら、大きな椿も見受けられます。

 「大慈院」は拝観できませんが、入口に、秋らしく、柿が活けられており、花頭窓から、庭の一部を見ることができました。

 撮る人が撮れば、なかなかのショットになるのではと思いますね。

 大徳寺門前には、大徳寺納豆の店、料理屋さんなどが、軒を並べています。

 

 毎日、塔頭を一つずつ訪れたとしても(非公開寺院が多いですが)、ほぼ一月かかります。しかも、それぞれに、中身の濃い寺巡りを堪能できる、稀有な寺院だと、あらためて実感いたしました。

西陣の風情溢れる「雨宝院」の椿たち

 雨宝院は、通称「西陣聖天宮」とあるように、京都西陣の真ん中にある、真言宗のお寺です。

 今出川通智恵光院を北に上がり、上立売通を西に入ると、通りの南側に面して、本隆寺築地塀が続く、何とも京都らしい狭い路地となりますが、その北側に、門が開いています。

 
 
弘法大師を開基とし、皇城鎮護の伽藍として栄えましたが、京都のお寺の例にもれず、応仁の乱で荒廃し、天明の大火にも遭い、その後、何とか、この堂宇が再興されたようです。

 

 雨宝院は、桜の隠れた名所としても知られていますが、椿も多く植えられています。

 年代物というものはないのですが、境内の至る所にあり、親切に、品種名の札がついているものもあります。

左から、「あけぼの」、「蝦夷(錦?)、「大仙」、「斑入りわびすけ」

 3月半ばになると、境内の椿も一斉に咲きそろい始めます。これは「あけぼの」です。

 「蝦夷錦」は、咲き分けで、紅花も咲いています。

 成木になると、咲き分けやすいようです。

 黒みを帯びた紅色が美しい。写真よりももっと色濃く、少し妖気をも感じさせるような魅入られる色合いです。

 けがれなき白。

 

 10月も末になると、一部の椿は咲き始めていますし、蕾も膨らんでいるものが多いですね。次の写真の椿は、「紅荒獅子」かな。

 案内板に、お花は、地元のボランティアの方々もお世話をされているような記載があり、地元に根付き、愛されているお寺なのだと思います。

 

 有名な桜も、多くの種類のものがありました。「御衣黄」という黄緑色の花をつける珍しい八重桜があるそうですが、見落としてしまいました。

 「時雨の松」が、境内を、天蓋のように覆っています。

 左右に色の分かれた面白い花です。あしゅら男爵のようなというのは古いですね。

 「草紙洗」のような模様ですが、斑の入らない花の方が多かったです。

 

 

 

 



 

 

 

圓通寺で椿垣越しに比叡山を見る

1 岩倉幡枝に静かに立つ圓通寺

 北山通賀茂川を越えて東進し、府立植物園を過ぎて、下鴨中通との交差点を左折、深泥池を右手に見ながら洛北・岩倉へと進み、岩倉自動車教習所先から西へ行くと、幡枝の街並みに入ります。

 ここには、比叡山を借景とする庭園で有名な圓通寺があります。

 元は、後水尾天皇が、造営した山荘・幡枝離宮であり、後水尾天皇といえば、椿を愛好され、金閣寺の胡蝶侘助や、霊鑑寺の日光椿をはじめ、天皇にゆかりがあるとされる名椿が今なお残されています。

 庭園の椿垣は、椿の見所として記載があり、また、後水尾天皇にちなむ椿があるのでは思い、10月22日に、圓通寺を訪れました。


2 比叡山の借景といえばこの庭園

 庭園は、実にシンプル。椿垣が、枯山水の近景と、比叡山の遠景を、違和感なくつなぐ「緩衝帯」的な役割を果たしています。全体をうまく調和させる、この辺のバランスは、計算され尽くしているのでしょうね。

 モミジが色づきかけていますが、椿のシーズンには、この垣は、どのような色どりになるのでしょうか。

 縁側の両端前には、手水鉢が置かれており、その傍らには、椿が植えられています。

 縁側から手の届きそうなところに、柿が植えてありました。

 枯山水庭園の凛とした佇まいに気持ちが引き締まった後に、庭の横手で、このような身近な生活感ある樹があると少しほっこりします。庭の散策ができませんが、奥の巨木は、ぜひ傍で見たいですね。

3 中庭の椿

 境内建物をつなぐ回廊に囲まれた中庭には、幹周30センチほど、高さ3メートルくらいの、小ぶりの椿が2本植えられています。撮影禁止なので、映像をアップできませんが、案内の方にお聞きすると、うち一本は、色変わりの美しい椿とのことで、五色八重散椿系のものかもしれません。

 本堂に入ってすぐ、この中庭を眺める窓が開かれており、シーズンには、この椿がメインとして客を迎えることを想像します。

 法然院ほどの年季を経た椿ではありませんが、これはまた開花時を是非見たいですね。少し黄葉が目立ったのが、気になりましたが。

4 苔むす山門と早咲きの椿

 山門の屋根は、いい具合に苔むしており、実に風情があります。

 この椿は、早咲きのようで、すでに、数輪の花が開花していました。

秋咲白牡丹でしょうか。

 

 高名な庭園以外に、それなりの樹齢と思われる椿も、ところどころで見受けられました。

 また、開花時に訪れ、いろいろと種類やいわれなどを教えていただきたいと思います。

「花尻の森」の椿群

 

1 「花尻の森」

 師走の全国高校駅伝の男子コースでもおなじみの、白川通を北上し、叡山電鉄叡山本線跨線橋で越え、花園橋から、東に折れて、国道367号を進み、八瀬の集落を過ぎると、京都・大原の入口へと差し掛かります。

 しば漬けで有名な、土井志ば漬本舗本社製造工場が見えてきますが、このすぐ先の「花尻橋」を渡った右手側に、鳥居が立ち、小さな祠がまつられています。

 ここは「花尻の森」と呼ばれ、落椿が有名で、写真や映像により、数知れず紹介されてきた椿の名所の一つです。

2 椿の樹群に驚く

 鳥居横の大きな藪椿(幹周1メートルを超えています。)にテンションが上がりつつ、祠への石段を上がりながら見渡すと、左手に、十数本の椿の大木が林立しているのが見えます。壮観です。

 

右側の写真の石段が、紅い落椿とのコントラストに映えるショットをよく見ます。

 特徴ある樹を二本、紹介します。

 この樹が一番、独特の形状をしており、二股の大きな枝が伸びているさまは、人が逆立ちをしているようにも見えます。瘤下で、幹周130センチ弱あり、一番の巨木、古木かもしれません。

 この樹は、他の樹と少し離れて、「孤高」の雰囲気を漂わせる威厳のある樹です。苔むした樹肌に風雪を耐えた重みも感じられ、代表的な一木だと思いました。この樹に、久しぶりに、立派な大きさのカタツムリを見ました。

立派な御神木です。この樹の足元に椿が降り積もるさまも絵になります。

3 「花尻の森」の言い伝え

 花尻の森には、かつて、若狭の殿様に見初められ、玉の輿に乗った、大原の里の娘が、病を得て、捨てられ、悲嘆にくれて、川に身を投げたところ、大蛇と化し、花尻橋で、若殿の一行を襲ったが、家来によって切り殺されてしまいます。その恨みか、激しい雷雨と悲鳴が続き、恐れおののいた里の人たちにより、大蛇の頭は、「乙が森」に、尾を「花尻の森」に埋めて、供養したとの言い伝えがあります。

 また、源頼朝が、寂光院に隠棲した建礼門院を監視させた松田源太夫の屋敷址とも伝えられています。

大原観光保勝会ホームページより

花尻の森 - 大原観光保勝会 (kyoto-ohara-kankouhosyoukai.net)

 

4 八瀬・三宅八幡宮と三明院

 帰途、八瀬の三宅八幡宮と、境内から山道を抜けて、三明院を訪れました。

 途中、白いサザンカ系?の花が咲いていました。我が家のサザンカも、今年最初の花が咲き始めており、暑かった夏が過ぎ、いよいよ、開花のシーズンを迎えようとしています。楽しみです。

 

三宅八幡宮。神の使い、狛鳩!
三明院・山門と多宝塔。多宝塔からの眺め。秋の気配ですね。

 

伏見桃山の椿を訪ねる

 

 京都園芸倶楽部の会報誌の「椿特集号」に、昭和35年から39年にかけて、石井椿園の石井吉次氏の寄稿があり、伏見桃山界隈の椿を、個人宅のものも含めて、詳細に記載されており、反響が大きかったようで、リクエストもあったのか、数回に渡り、連載されています。

 ちょうど高度経済成長期で、急激な宅地開発が進む中、かつての椿園の姿が消え、古木、希少品種が数知れず失われていった状況がよくわかります。それを憂い、移植や引取の仲介に奔走した方々や、その搬送先のことも記されています。

 それから60年が経ち、桃山の椿がどのようになっているのか、石井氏の文章を道案内に辿りながら、今の状況を確認してみようと思います。

乃木神社の妙蓮寺椿

 まずは、JR桃山駅を起点に、桃山御陵の参道から、乃木神社へと進みます。

素晴らしい散策コースです

 神社の石鳥居のそばには、妙蓮寺椿の大木が今もあります。当時は、連なって4本の大木があり、一本が台風で折れてしまったと書かれていますが、幹周1メートル近くありそうな巨樹と、そのすぐそばに生えている一本以外は、まださほど大きくはない椿が、妙蓮寺椿かどうかはわかりませんが、群生しています。

貫禄のある幹です  蕾が膨らんできています

 乃木神社鳥居に至る参道南側の林に、巨樹とまでには至りませんが、椿の広範囲の群落があります。元は植栽だったとしても、すでに自生し、新木が成長しており、椿が樹相の一つを占めているようでした。桃山は椿が育ちやすい環境なのでしょう。


 乃木神社京都市立桃山小学校の間の道を進むと、JR奈良線を跨ぐ乃木橋陸橋に出てきます。ここは、坂の上手にある高台で、ここから、道は、急な勾配で下っていきます。右手(西側)が、本多上野(ほんだこうずけ)、左手(東側)が、伊賀という地名です。


 「三夜荘」跡から石井椿園へ

 石井氏は、本多上野の、宇治川を眼下に見下ろす風光明媚な絶好のロケーションにある、石井椿園と西本願寺の別荘「三夜荘」のことを記されています。

 木戸孝允命名し、かつて明治の貴人、名士が集った「三夜荘」は、今は居館も解体され、裸地になっており、工事現場の柵が周囲を囲んでいる、寒々しい光景です。石井氏の記載では、既に「崑崙黒」など、往年の椿は、わずかに残るばかりとありましたが、今や、道路脇に、実に窮屈な状態で、何本か残っているに過ぎません。


 当時を偲べるものはありませんでしたが、秀吉が「観月台」を設けた場所であるだけに、宅地化され、マンションも並ぶ中でも、今も宇治川の流れを臨むことができる、ヴュー・ポイントであると思いました。

 「石井椿園」のあったあたりには、道路から見る限りでしたが、まだ、多くの椿が植えられている画地がありました。椿園としては営業されてはいないのでしょうが、桃山の椿を今に伝える古樹や、希少な品種などを守っていただいているのかもしれません。

 幹周1.5メートルの「松笠」、1メートルを超える「諫早」、「大神楽」など、今も生きながらえているのでしょうか?

江戸町本通りを歩く

 「三夜荘」跡から西に下ると、南北に連なる江戸町の本通りに通じます。

 石井氏の記載を引用させていただきますと、「江戸町は古来立売町と共に花屋の町である、徳川初期に桃山城が亡び各大名屋敷が取毀になり、その屋敷跡を開墾して色々作物を作らせた際、屋敷の庭の樹木の手入れをしていた植木職にて花作りの経験のある人たちが組合を組織して花屋組合を作り、京都市中に売り捌く特権を認められた。そうした花屋たちが住んでいた町で各家毎に椿を植えていたらしい。」とあります。

 石井氏の記載にある、見るべき椿のある家と符合しそうな家は、何軒か見受けられましたが、道路からは、記載にある椿の姿は判然とはしませんでした。ただ、樹木が生い茂っている一画には、大きな椿も見られ、いくつかは残っていると思われます。もし、現存していれば、また、何かの機会に、見せていただくこともあるだろうと楽しみにしておきます。

立売町で、花屋さんに訊く

 江戸本通りを上手に上り、JR奈良線の高架下で左に折れると、この辺からが立入町です。

 花屋さんがありましたので、御当主に、少しお話を聞かせていただきました。石井氏の文章をお見せしながら、ご存知のことを聞こうとしましたら、ちょうど、当主のおじいさんのことが載っているとのことで、今も、裏庭に古い椿がありますよと言っておられました。

 今でも、椿を販売されているのか伺うと、昔とは違い、椿の切り花の需要は無く、取り扱ってはいない、一方で、桃花は今も人気があり、飾る人も多いとのことでした。

 開花の時期には、是非、椿を見せて下さいと頼みますと、気よく、請け合っていただきました。お忙しいところ、お相手をしていただき、ありがとうございました。

光明寺

今も残る椿園

 最後に、乃木神社から、JRの乃木橋陸橋を渡ってすぐ、線路沿いの道を進むと、椿園に行き着きました。石井氏は、ここは、桃山第一の椿園といえるほど、広大かつ本数、種類の揃ったところと記されているところです。

 正直、椿園というものは、すでに無くなっているのだろうと思っていただけに、規模はかなり小さくなっているかもしれませんが、数十本に及ばんとする立派な椿が育てられているのを見て、驚き、感動いたしました。

 一つ一つが、大きく成長した椿なので、間隔をあけながら、ゆったりと植えられています。
 葉も青々と元気よく茂り、樹形が整い、大事に手入れされて育てられているようで、全体として、庭園のように管理されています。おそらく、多くの貴重な椿が保存されているものと思われます。

 最後に、いいものを見ることができました。


 全ては回れませんでしたが、椿に愛着を持たれている方々の尽力により、まだ、各所で、桃山の椿は命脈を保っていると実感しました。

 桃山時代、江戸時代初期の歴史、文化と関わりの深い桃山の椿。色々な方の話もお聞きして、椿の魅力を、これからも探っていきたいと思います。

大原野の椿を巡る「その1」

 

1 東の大原、西の大原野

 大原野は、京都市西京区の西、西山山麓に広がる地域です。
 延暦3年(784)年に桓武天皇により、平城京から長岡京に遷都されて以来、都にほど近い遊猟地として、平安時代天皇家藤原氏が度々訪れた足跡の残る由緒ある地です。
 また、古墳もいくつも発掘されており、古代から拓かれていた場所でもあります。
 よく「大原」と間違えられることもある「大原野」ですが、田園風景が開ける山麓の平野部と、山間部の歴史ある集落、大原野神社勝持寺など静かな佇まいを見せる魅力ある観光スポットも多い、穴場的な地域です。
 あまり、観光客もおらず、都会に近い「田舎」で、のんびりとリフレッシュできる格好の場所だと思います。
 私のホームエリアでもあるので、何度となく、足を運んでいますが、あらためて、大原野の「椿」を巡って歩いてみます。
9月10日撮影。早稲の刈入が進んでいます。

2 大原野神社の椿

 まずは、大原野の名を冠する「大原野神社」。長岡京遷都に当たり、桓武天皇の 皇后であった藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ) が奈良春日社への参詣の不便を解消するために、奈良の春日大社の分霊を大原野に移し祀ったのが始まりとされています。

 ここの参道は、秋の紅葉が有名ですが、境内には、藪椿も多く見られます。社殿周辺には、孔雀椿など、園芸種も植栽されており、参詣者の目を楽しませてくれます。

(2023.4.追記)

 

 

 

3 知られざる?藪椿の巨樹 

 大原野神社を出て西へ、勝持寺へと向かう参道は、仁王門をくぐると、林の中を抜ける登り道で、両側に高く伸びる竹や木々が鬱蒼と茂り、人里離れた雰囲気を醸し出します。誰も歩く人がいないと、寂し過ぎて、ちょっと怖い感もありますが。
 勝持寺の仁王門に至るまでの、道筋に、藪椿の巨樹があります。
 昔から「立派な樹だなあ」と思っていましたが、あらためて、よく見てみますと・・・。
 幹周は、1メートルを優に超え、太い幹がうねりながら上空に伸びている様子は、他の有名な椿の巨樹と同じような風格を備えています。
 枝が岐れている部分に亀裂が入っており、やや樹勢の衰えが気になるところです。紅い椿だったと記憶していますが、開花時には、また、ご紹介します。
(追記)令和5年2月5日、再探訪です。
 他の藪椿よりも少し早咲きのようで、すでに赤い花を、全木に咲かせていました。
 蕾も多く残っており、3月初旬くらいが最も見ごろになるかもしれません。
 巨樹と対照的に、とても小柄で可愛らしい花で、人知れず咲く山里の椿という風情に合う気がしました。

 この樹が、大原野神社の境内など、然るべき場所にあれば、取り上げられることもあったと思いますが、藪の中に普通にあるので、見過ごされてきたのかも。もしかすると、土地の方には、知られた椿なのかもしれませんが。
 このあたり椿の群落となっており、中には大ぶりな花も見かけます。

4 正法寺「石の寺」の椿

 大原野神社の南側には、正法寺、通称「石の寺」があります。 名の如く、巨岩、奇岩が数多く配置されていますが、幾つかある庭園も美しく、「宝生苑」という名の、借景式山水庭園は、遠く東山を臨み、お堂の縁側から、ゆったりと眺めることができます。 この寺では、庭園をはじめ、椿が数多く植えられています。庭園樹として、手入れがされており、園芸種と思われますが、相当の樹齢らしきものもあります。 開花にあわせて、品種などを紹介していきたいと思っています。
(追記 2023.4)


(追記 2023.2) 勝持寺の近くに、国宝・如意輪観世音菩薩の優美な半跏像が有名な「願徳寺」があります。私も2回拝観しましたが、1メートルにも満たないながら、実に均整の取れた、引き締まった体つきと凛々しいお顔立ちであり、かつ、流れるようなお着物とポーズのかっこよさで、さすが、国宝となっているのも頷ける仏様です。 お寺の入口付近にも、椿の一団があります。藪椿にしても、かなり、花弁の大きな品種です。  
 黒みを帯びた、筒咲のような椿です。






等持院の有楽椿

1 衣笠にある等持院

 等持院は、嵐電北野線等持院駅の北、立命館大学衣笠キャンパスの南に隣接しています。

 車で行く場合は、洛星中学校・高校から西へ笹屋町通を入っていきます。

車の場合、この門を通って進みます。

 

 足利氏の菩提寺である等持院は、夢窓疎石の作庭と伝えられる庭園「心字池」と、庭園「芙蓉池」の二つから構成されている庭園が有名です。

 園は、方丈と、歴代足利将軍の木造像が安置されている「霊光殿」の北側に、東西に渡り広がっています。

 まさに、回遊式庭園の名のままに、書院から庭に下りて、周遊できます。

 園内くまなく、さまざまなスポットを楽しみ、風景の中に身を置いて、空間を体感できるのは、縁側から見るのとはまた違う貴重な体験です。樹々が好きな人にとっては、なおさらのことでしょう。

2 等持院の有楽椿

 ここには、樹齢およそ400年と伝わる「有楽椿」があります。

 樹齢、樹容の見事さ、由来、場所の価値、もちろん、花色の妙、落花の映えなど、京の名椿として、屈指のものです。

 「有楽椿」は、「芙蓉池」の庭園側、茶室「清漣亭」の近くにあります。

 池を見下ろす小高い場所に、がっしりとした太い樹が、三方へと枝を張っている姿を見て、感動しました。

 幹は、いかにも年月を感じさせ、とりわけ池側に張り出した枝が、力瘤のように節くれだって、うねりながら伸びているのは見事です。


 寺の方に伺うと、やはり、有楽椿の手入れには十分に手間をかけているとのことで、今も花付きがよく、開花時期も、例年通り、1月から3月にかけて、咲き続けているとのことでした。

情緒ある落椿

【追記6.2.11】

 まだ満開前ですが、かなり開花が進んでいます。

 古味のある幹回りの苔むす地面に散らばる落ち椿。

 もう少し花の盛りの時期に来ると、より風情ある姿が見られるかもしれません。

 この、やや異形な枝ぶりが強く印象に残ります。

 方丈側から池越しに臨む椿。

 葉の黄変が目立つのが少し心配ですが。

 私は、庭としては、自然の趣を残す「心字池」側に、より心を惹かれました。

 数多くの山茶花や藪椿が、あまり手を加えた様子なく、植えられています。有楽椿のような、巨樹はなく、林の中に、目立たずに溶け込んでいるという感じです。

 初春の花咲く時期には、庭にどのようなアクセントを付け加えるのか、楽しみです。

大きなクスノキと支える根&藪椿

【追記6.2.11】

 藪椿ではなく、紅山茶花の群落でした。

 「霊光殿」裏手の紅梅と椿。

 等持院は、戦国の世の中で、足利将軍の弱体化に伴って衰微していったのですが、慶長11年(1606年)、豊臣秀頼により片桐且元を奉行として再興されたと伝えられます。

 有楽椿は、この際に植えられたとされているので、樹齢400年超えと言われている訳です。

 膨大な数の、神社仏閣の建造、修復を行っていた秀頼ですが、1614年には、方広寺の鐘銘に難癖をつけられ、その翌年には、大阪城にて、豊臣家滅亡へと、坂を転げていく流れとなるのは、御承知のとおりです。

 霊光殿には、足利将軍とともに、何故か、家康の木像も並んでいます。明治の廃仏毀釈のあおりで、石清水八幡宮から等持院に移されたとのことですが、秀頼のことを考えると、やや複雑な気持ちになりましたね。

方丈の南庭 鶯張りの廊下板に孔塞ぎの細工が

帰りしなに振り返り 中央が有楽椿

3 足利将軍像にまつわるエピソード

 霊光殿にある将軍像には、あまり表立っては出てこないエピソードが結構あります。

①「首がすげ替えられた?」

 13体の将軍像のうち、最も知られている三代義満像は、四代義持像と首が入れ替わっているらしいというお話です。頭部は嵌め込み式となっていますが、義満とされるものには「勝」の墨字が、義持のものには「鹿」の字が記されているとか。義満の法号は「鹿王院」、義持の法号は「勝定院」であること、また、義持は頬髯をはやしていた肖像画もあるのでその特徴からも、どうも「てれこ」の可能性が高いと言われています。

 義満像を見て、室町幕府の最盛期に君臨した将軍の威厳と自信を感じさせると思えるのは、「先入観」によるものだったということになるのかも。

これが義満像として世間に知られているものですね。

②三像梟首事件

 文久3年(1863年)、平田篤胤門下の尊王攘夷一派が、尊氏、義詮、義満の像の首を引っこ抜いて、逆賊として、三条河原に晒したという事件です。京都守護職であった松平容保は激怒、厳しく処罰し、後に新選組による峻烈な取り締まりの一因ともなったと言われます。

③平成の盗難事件

 2008年10月、尊氏像、義晴像の手首、義満像など5体の刀の柄部分が抜き去られたという事件です。こんな罰当たりなことをする輩がいるので、間近に見れる機会がなくなってしまうという甚だ迷惑な話です。

④名品「源頼朝像」は直義?

 神護寺の名品、藤原隆信筆の「(伝)源頼朝像」。近年、これは頼朝ではなく、足利直義ではないかと言われていますね。同じく「平重盛像」は尊氏、「藤原光能像」は足利義詮ではないかと。

 今回、将軍像をじっくりと見ますと、垂れ目で人好きのしそうな尊氏、切れ長で感覚の開いた目と幅広の顔の義詮は、確かに、藤原隆信の絵と似ていましたね。

 

 将軍逝去の後、木像を院におさめる慣例が続いていたので、各像は、記憶が定かなうちに生前の姿を写しているものと考えられています。

 13体とも、顔立ちが個性的ですし、それぞれの生涯、治世の出来事を思い起こしながら、像の表情に重ね、読み取るのもまた楽しいものです。